A-1450年、ヴァイスナハト2
先、言っときます、今回暗いです。しかし、この世界を感じる上で重要な一話です。
二四:A-1450年、ヴァイスナハト2
…そうは言っても、問題は山積みだった。まず、この世界は見た所、難しい言葉を使えば貨幣経済が成立しているらしい。病室に来る途中には金額が色々書かれた、何か飲み物やお菓子を『買える』機械があった。自分たちにはもちろんお金がない。
…だいたい服にしたってこの病院着か向こうの世界で着ていたものだし、外の勝手も全くわからない。
…この感じだと、電車や飛行機はあるのだろうが…。 何しろとりあえずの問題は金。金があれば他の問題もなしくずしに解決するように思えた。
仕方なく二人は、もう少し病院にいることを余儀なくされた。いや、ヒロはまだ当分はいることになるんじゃないか、と思っていた。
しかし、事態は意外な、但し決して望ましくない形で解決した。
それは二人が目覚めてから六日目の二度目の食事の前、であった。
そう言えば、この世界にはしっかり時計が存在し、空模様は変わらずとも、人々はそれに従い行動していた。その為、時間帯としての朝や夜といった言い方も生きていた。
つまり、これは六日目の午前中の事だった。
検査と言っても体が悪いわけではないので、軽いカウンセリングみたいなものを朝のうちに済ましたヒロは、ロビーのソファでテレビを見ながらお茶を飲んでいた。
初めて見た時、そのテレビがカラーであること、しかも画面が大きくて薄いことに驚いていたが、まあ、もう慣れてしまった。
テレビにしてもそうだが、ここにはヒロの世界にもないことはないが、ヒロの世界にあるものより、ずっとグレードアップしたようなものが数多くあった。それは逆にヒロの住む世界の未来を想像させるものだった。
(こんな便利な世にも拘らず、なぜ自殺者が多いんだろう。)
そんな疑問を抱いている時だった。
彼の隣りに40代前後と思しき男が座ってきて、何の気なさそうにヒロに話かけて来た。
「…長いんですか。ここ。」
ヒロは少し驚いたが、大方ただの暇潰しだろうと思い、話相手になることにした。
「…いえ、まだ一週間もないくらいですよ。」
「…どこのご病気?」
「いやいや、別に悪い所はないんですが、どうも事故にあったらしくて…怪我はないのですが、記憶を失ってしまって…。」
外見上傷病人には見えにくい彼が病院にいる上で、これは確かに便利な嘘だった。
「…他はとくに悪くないから暇で暇で。あなたは?」
「…わたしは何て事ない。盲腸ですよ。手術はもう済みました。」
「では、もう間も無く退院ですか?」
「…ええ。」
「おめでとうございます。」
…そのとき男の顔が明らかに暗くなったのがわかった。
「…あ、いえ、これは退院してから言うべきでしたか。」
「…退院ね。またあの味気無い日々に戻らなけりゃいけないって思うとね…。」
「味気無い?ここの生活よりはましでしょう?」
「まあ、確かにここの生活も相当味気無いですが、普段の生活だって酷いもんです。ただコンピュータ相手に仕事しては家に帰って寝ての繰り返し。
私を充足させるものはなにもない。ただつまらない毎日の繰り返し…。」
「便利な世の中になったものではないですか。」
「そう、便利になった。だからこそ、人々の心は貧しくなった。…つまらないんですよ。何もかもが。ただ何も考えず決まった線の上を等速で進むような日々がね。」
「…そう言うものですか?」
「不便、つまり物が不足しているのは確かに辛いですが、物が満ち足り過ぎていると、かえって日々はつまらないのです。私は達成感とか充実感と言うものを感じたことがない。」
ヒロにはその男の言う事は共感しようがなかった。なぜなら、彼は男の言う物が充実していない時代しか生きていないからだ。
「…そう言うものなのですか。」
「そんな他人事みたいに。いまは誰もが抱える悩み…いや、悩みとすら言えないものでしょう。…ああそうか、あなたは記憶と共にそう言う空虚感をもどこかに置き去りにしたのですね。
…こういうのは不謹慎極まりないですが、羨しいとすら…感じてしまいます。」
それは遠慮がちに言うからこそ、彼の本心であることが見て取れた。
「…では悩みはないのですか。」
「いえ、あなたより単純な悩みが一つ。」
「…というと?」
「金ですよ。いえ、元々無一文てわけではないのでしょうが、何しろ記憶がありませんから、住み家も貯金のありかなんかもわからないんですよ。
生憎、家族からの捜索願いなんかも出てなくて、この病院のお代も払えないし、退院するに出来ないのです。」
彼は多少嘘を交えてを言った。それは単に怪しまれない為の嘘だったのだが…
「なんだ。そんなことなら簡単です。私のお金の一部をあなたにあげますよ。」
「いえそんな!見ず知らずの人からお金なんて…!」
「いやいや、あなたは随分古い考えをお持ちだ…と言っては失礼かな。しかし、今時お金なんて、生活に必要な以上持ってたってなんの役にもたちません。
…昔は守銭奴なんて言って金に執着する輩もいたようですが、いまじゃそれすら空しさを紛らわす事は出来ませんよ。ですから、むしろ是非受け取って欲しい。どうせ私には使いようのないものなんだから。」
守銭奴の方がまだ健康ってものです。男はこう付け足した。
「でも、そんないきなり…」
「いえほんとに。ほんとなら全部と言ったって良いんだ。私にはすぐに要らなくなる物だから。だがまあ一応家族に残す必要があるからね。一部で我慢して欲しいんだ。
…余分なお金に価値なんてないんだから。」
彼はそう言った後病室に戻り小切手のようなものを彼に渡した。その時の彼の目に、何ら生気を感じなかったのを、ヒロは後も忘れられなかった。 どうも、この行為はヒロを哀れんでの自己犠牲とか云う立派なものではなく、実際にこの世界ではお金は、少なくとも生活に必要な以外は何も価値のないものと、思われているようだった。
しかし、すぐに全て要らなくなるという彼の言葉は妙に引っ掛かかっていた。
(全て要らなくなる訳ではないだろう。少なくとも生活には必要なんだから。)
しかし、確かに男は次の日の朝、財産なんてものを必要としなくなった。
朝未明に、どしんという何か重いものが落ちる音を病院内の多くの人が聞いた。
病院の入口ホール付近にいた看護師達が駆け付けると、駐車場には例の男の死体が横たわっていた。
彼は病院の屋上から飛び降りたのだった。
確かに、彼には何も必要がなくなった。
「年々…と言っても、僕なんかが生まれる前からずっとなんだけど、ああいう人は増えているんだよ。」
ヒロの病室にやってきた医者がそう話した。
ヒロはその日彼の死を知ってから、彼のあの生気のない目をずっと思い浮かべていた。けれど、なんら具体的なことを考えられないような気がしていた。
心の籠った言の葉が何ら浮かばなかった。
「…おれにはわからない。なぜ……」
「あなたは記憶と共にその感覚も忘れてしまったのでしょうな。」
医者は同情のなかに羨望を交えて言った。それにヒロは気付いたようだった。
「…なぜだ?なぜあなたたちは皆記憶を亡くしたおれを少なからず羨しく感じているんだ。そうでしょう?先生。あの男もそうだった。おれの記憶喪失をある種羨んでいたんだ。」
「恐らく、私たちの生活が空虚で何にもならないもののように感じるからです。
何も意味しないが無ではない…そんな、苦も楽もない空虚な存在感。
人はそんな半端な状態でいるくらいなら、全くの無になってしまいたいと思ってしまうのですよ。
無の一つの実現があなたのようにその生活を完全に白紙にしてしまうこと。…そうでないならば…生活を『終わらせる』こと。
…後者を選ぶ者は非常に多いのです。誰でも簡単に記憶を、その空虚感と共に消せるわけではないですから。」
「なぜです。なぜこんな便利な世の中がそんなにつまらないのです。」
「これは精神科の分野なのでよくはわかりませんが…。人は何かを一生懸命追い求めるその時に生きる実感を最も得られる生き物なのです。
…しかし、何もかもがいとも簡単に可能に感じさせるこの世界は、人々にはあまりにも張り合いがないのです。ほとんど皆が、目指すべきものを失っているのですよ。
…私なんて、まだましな方です。人の命を救う仕事にはそう言ったものを幾何か感じさせる力があります。
…しかしそれも、人々が命を求めるから故の充実感。だから、このようなことがあると、最もやりきれないのは私たち医者かも知れません。」
「…おれはあの人からお金をもらう約束をされました。」
「…それは、君に必要な金ですか?」
「…まあ。おれは全てを忘れて、自分の財産を失ったも同然だから…。」
「それならば、いただいておきなさい。不要な金ほど空虚感を呼び起こすものもないからね。
…あなたが彼の不要な筈の金を使ってあげることは、何かの供養みたいなものになるんじゃないかな…。
不要だった空虚なものを有効活用出来るのだからね。
…いやむしろ、あなたはそれを受け取らなければいけない。不要な金ほど人にとって毒な物はないんだ…。」
「どうして、それほど、満ち足りすぎているのでしょう。」
「今や、科学的にも、倫理的にもあの永久に照らし続ける太陽のせいに相違ないということが解っていますね。
科学的に言えば、あの無限に降り注ぐ光は全てエネルギーになるので、それにより機械やらなんやらは無限に稼働しえるため、人々の活動を、どんどん機械に代替してしまうのですよ。
…いいえ。それを止めればいいだろうと思うでしょうな。しかし、無理なのです。私たちは便利さが心を貧しくするのを知りながら、便利になることを止められはしないのです。賢しい人間の性なのでしょうな。
…倫理的には、あの光は私たちに無限の希望を与えます。…聞こえはいいですが、無限の希望ほど厄介なものはないですよ。希望てのはほんの少しあるからこそ人々の奮い立たせるのです。
無限にある希望は人々を何か醒めた気持ちにさせます。…どうにでもなるんだから、頑張るなんてバカらしい。…かみ砕いて言えばそんな気持ちです。
それが無限に増幅すると、人々はなにもする気が起きないのです。」
この感覚は、ヒロには理解しがたかった。しかし、もしこの医者の言うとおりなら、『羽』を回収すればこの世界の人々をも幸に出来るのだろう…。そう考えた。
(あなたのお金、いただきます。…やっぱり少し後ろめたいけど、考えうる最も有効な使い方をさせていただきます。
…人々に生きる力を取り戻すために。)
…心が遠くから戻ってきたような感じがした。
「…たぶん彼は昨日既に、死を決していたのでしょう。そして、少しでも希望を持ち得そうな…やはりこんな世でも若さは強いですからね…あなたに自分の空虚を与えるつもりであなたに話かけたのですよ。それが本当の意味での希望に変わることを信じて。」
こう言って医者は病室を出ていった。
窓の外は相変わらずの青空だった。ただ青いままの、空だった。
夕暮れの亡い晴天なんて……
ほんのちょっとこの世界の人々の気持ちがわかるような気がした。
続く
ありがとうございました。次回からついに二つの世界を救う旅が始まります。