友達
×月◇日
今日はご飯が出来るまでの間、お母さんにはないしょで机からカルタの入った箱を取り出してよしろうと遊びました。
ことわざのじゃなくて、二枚の札を絵合わせして一匹の動物を作るやつです。
「これ、なんだと思う? よしろう」
ぼくがてきとうに指差すと、すぐおんなじ色同士をくっつけて、よしろうは絵札をかんせいさせていきました。
お母さんはぼくたちとカルタをする時は、動物が出来上がるとお名前を言うから、よしろうが動物を作るたびに僕もまねしました。
「よしろう、このきいろいのはライオンって言うんだよ」
「らいおん?」
「そう、ライオン」
「らーいおん、らいおん!」
「そーそー、その横のは……」
そうやって、一つ一つぼくは動物のお名前を読みました。
さいごにのこった二枚、よしろうがくっつけると白ヤギさんが出来上がって、ぼくが
「ヤギ、これはヤギだよ」
と何回も言っているのに、よしろうが
「おうまさん、おうまさん」
って言うのが、とてもおかしかったです。
なんなんだろう、よくわからないや。
◎月■日
小学生の頃は色々楽だったとつくづく実感する。
新調の制服は目新しさこそあるけど、これから毎日ネクタイを通して、襟を揃えて、それが出来ていないと皆が小言を垂れる。
窮屈でしょうがない。
まだ小学生から歳月が経った訳でもなし、少しは大目に見て欲しい。
入学前は学園生活って言葉の響きに乗せられてたが、理想とはかけ離れた部分ばかり目につくし、中学ってこんなもんなのかな……。
⦿月▯日
芳郎に菓子を強請られて仕方無く一緒にコンビニに向かうと、同級生の佐伯君とバッタリ会った。
中学の同級生と芳郎に伝えると
「こんにちは!」
芳郎は店員の気を惹く程の大声で挨拶した。
俺までじろじろ見られるだろーが、このバカヤロー。
それで挨拶された佐伯君は、覚束ない表情で口許を震わせながら返事を返した。
芳郎と近所を回ると、偶に俺や芳郎の知り合いに出くわすけれど、こういう反応の子は基本的に人に慣れていないんだよな。
他人でも孤立するのは見てて辛いし、学校では声掛け忘れない様にしよう。
◌月☒日
近所の公園の遊具に跨り互いに向き合いながら、芳郎は逸夫君と携帯ゲームで遊んでいる。
暇で覗こうとすると
「画面見辛い」
と、芳郎は小生意気に文句を付け、体を逸らした。
ったく、変にませたな。
ケータイはあるけど、両親と逸夫君のお母さんと連絡は取れるようにしとかないといけないからいじれないし……。
あぁ、俺もゲームとか持って来れば良かった。
「もう出たー? アカオニ?」
「まだユキコ仲間になったとこ……」
此方には目も暮れず、二人は夢中になって遊んでいる。
バッテリーは緑に点滅していて、まだ容量が有るのを示していた。
どうにも終わりそうにないな、普段なら叱ってるけど逸夫君が居るから好きにさせとこうか。
どうせお母さんが来るまで、面倒見るだけだ。
「芳郎! あと逸夫君も公園から出るなよ、分かった?」
俺が背を向けると、重なる二つ返事が辺りに響いた。
言葉を失う、この言葉を初めて体験している。
歩を進める度にごくり、と唾を飲む。
今迄意識すらしていなかったが、間近に見ると真上を向いても、なお枝一つ覗かせる事のない程にその木は巨大で、幹の至る所が縦に裂けており、物々しく公園の中心に佇んでいた。
真ん前迄行くと足許は影に取り込まれ、何だか此処だけが公園ではない、何処か別の空間なのではと錯覚してしまうのだ。
身動ぎせずとも溢れる果てしない生命力に、俺は何時しか圧倒されてしまっていた。
◌月▰日
「おーい、佐伯くーん!」
中学校へと続く細長い一本道、その通路を挟むように一面に稲苗が立って秋を今か今かと待っており、校門の出入り口の横の道外れには列を成した木々、ぼうぼうに伸びた雑草が鬱蒼と繁って、先の見えない闇路を作り出している。
夕方は付近の数軒の家の明かりが街灯代わりだ。
「おはよう、佐伯君」
「あ、横山君おはよう」
片田舎のなんてことはない通学路だけど、此処は俺と佐伯君にとって特別だった。
あれは帰り道の事だった。
夕焼け空に依って赤く映える水面にゲッゲッとカエルの鳴き声が不揃いに響き渡って、日本の原風景とも言える風情を醸し出している。
前を歩く人影も、後ろ姿が赤々と染まった空や黒ずんだ雲と相まって、中々どうして様になるじゃないか。
町の風景なんて今迄気にしてなかった……けど、こういうのって良いよな。
生物の息衝く場所がこんなにも美しいなんて思わなかった、秋にはまた違う鼓動を感じさせてくれるのかな……退屈な一時も有意義と思えた瞬間だ。
「邪魔だぁ、オラァ!」
ん? 何だろうか?
轟音と同時に鼓膜を劈く金属音が辺りに不快に響めいて咄嗟に振り返ると、後ろから猛進する自転車が道のド真ん中を突っ切っている。
非常識過ぎるだろ、オイ!
あまりの突然さに意図せず仰け反る、自転車が風を切って俺を通り過ぎていくと押されたかのように尻餅をついてしまった。
「ふざけんな! この野郎!」
肝心の自転車はもう見えない、俺の怒声は虚しく茜空に吸い込まれていく……チクショォー。
体を起こして尻を叩くと、案の定手は薄っすら土気色に染まっていた。
あー、やっちまった……ハァ。
母さんに大目玉食らっちまうわ。
気を取り直して帰路に就くと、先の方に何か平べったい物が落ちている。
嫌な予感がして急ぐと其処には学校指定の黒の手持鞄が有った、まさかと思い淵の田んぼの方へ首を向けると、泥に塗れた顔が浮いていた。
「今助けるからな!」
靴を脱いで脚を突っ込むと水は生温かくて気持ち悪い、その上底泥がぬるぬるとして足場が安定しない。
いざ腰を曲げて腕を掴んで持ち上げようと踏ん張ると、脚はどんどん沈んでいった。
助ける側なのに情けない。
あぁーっ……もう形振り構って居られっか!
顎の力を抜いて息を吸う。
「誰か……誰かーっ、助けてくれーっ!」
助けを頼りにありったけの気力を振り絞り溺れぬように脇下を抱えると、水を吸った制服は容赦無く俺達におぶさって体を膠着させていくのだ。
やがて仕切りにぽたぽた、ぽたぽたと激しく落ちる水滴の音が俺の精神を殺いでいった、揺れる腕は限界を告げている。
誰か、誰か……人乞いながら蝉がジージー、ジージーと脳を裂いていく不快感の中に、俺は立ち尽くすのみだった。
「おーい!」
ふと呼ぶ声がして通路の方を向く……が、誰もいない。
人違いか?
「おーい、大丈夫……」
いや、俺達に向かって言ってるのか?
けど、この際誰でも……助かれば何でも良い。
「田んぼに、人がーっ!」
勢いよく叫ぶ。
すると、それを聞きつけた誰かの一筋の光が俺の視界へ映っていく。
やった、もう大丈夫なんだ……安心感が体を脱力させる、崩れ落ちていく体、だらんと下がり落ちる腕は己の無力さを暗に示していた。
腰まで浸かった自分の不甲斐なさを余所に、気が付けば、何度も何度もその光に向かって俺は叫んでいた。
「こっちです、こっち!」
俺を射抜く光が麦わら帽子の土汚れの付いたタオルを首から下げたおじさんを薄っすら照らし出した、夕暮れ時にも関わらずこの時の表情は今でも鮮明に思い出せる。
眉間や法令のありとあらゆる皺が内に寄っていって、俺の不出来を威圧する。
結局何の力にもなれなかった歯痒さ、惨めさにこの時の厳かな雰囲気もあったからか、俺はどうしてこんなこともまともに出来ないんだと今でも幾度となく自戒するのだ。
実際問題佐伯君は一命を取り留めた、けれども許されない……もう少し遅かったら本当に死ぬかも知れなかった。
だからこそ……許さないで欲しかった。
佐伯君が意識を取り戻し何とか歩けるようになると、おじさんの家の外付けの立水栓の前まで肩を持って連れていった。
「ちょっと待ってくれ」
そう伝えるとおじさんは家に入り、何かを探しにいった。
泥塗れで重たい制服のせいかどちらからいうわけでもなく地面に座り込む、今更多少の汚れなんて知ったことか。
さすがに気持ちが悪いからか、おじさんが来る間佐伯君は眼鏡と顔と手の泥を簡単に落としていた。
じょぼじょぼじょぼ……濯ぎ終えるまでがとても長く感じていた、これは俺の失態を責めるに他ならないからだ。
俺がしっかりと抱えていたなら、この音を聞く時間も短く済んだのだから。
「横山君も流したら?」
水滴がポタリと垂れる。
「うん、そうするよ」
俺は返事した。
「横山君、どうしようか」
おじさんが持ってきたもの、それはホースだった。
それで制服のほぼ全ての泥を落とせたはいいものの服は濡れたまま、さてどうしようか。
「濡れたのはしょうがないから何処かで制服は絞ろうよ、佐伯君」
悪い気がして急いでいたからか、つい忘れてしまったのだ。
「うん、けど田んぼの前でやったら同級生に見られて、からかわれちゃうかも知れないね」
「そう、だよね」
この近くで見られない、人の立ち入らない場所……何処かあったか?
思考を巡らせ、辺りを見渡す。
すると、ある場所が目に留まった。
「横山君、どう? 見付かった?」
「在ったよ、絶好の場所が」
手を掴んで、俺達は其処へと直走る。
始めは遅れた佐伯君も次第に俺の歩幅に合って、何時しか同じ目的へ邁進していく一体感を感じた。
「ここなら見られる心配は無いよ、物音立てなければ……だけどね」
俺が連れていったのは校門横の道外れ、ここに来る道中に生徒と擦れ違わなかったのは不幸中の幸いだった。
もしばれたらクラスで恥を掻くどころか、学校であらぬ噂が立つ。
雫が音を立てないよう屈み込むと、目の前の影は模倣した。
いつもは足許に影があるのに……何だか可笑しい気分だった。
ぽたぽた……ゆっくりと落ちるのが聞こえると、最後の仕上げに俺は渾身の力を込める。
両端を持って力一杯に絞ると、びちゃびちゃと地面に垂れ、弾む。
俺が学生服を羽織ると、佐伯君はまた思い出したかのように
「横山君がいなかったら僕……本当にありがとう」
撫でるように囁く。
表情は見えない。
俺への気遣いなのか、優しい言葉でも抑揚がない声だったと覚えている。
けれども彼が好意を抱いている間は、その気持ちを甘んじて受け入れようと俺は誓ったのだ。