おうまさん
○月20日
昨日は息子の芳郎を連れ、駅ビルでお買い物をしました。
此処にはあまり来た事が無いので、早く慣れないと不便そうです
まだ四歳の子供なので玩具コーナーの前ではぐずったりして、まだまだ手の掛かる時期です。
突然ですが私は生まれてこの方、説明しようの無い不思議な事や恐ろしい体験等の類いは見聞きした以外は知らない、平凡極まりない人生を送って居りました。
けれど、何故でしょうか。
上手く説明出来ないですけれど、何か普段とは違っていたのです。
別に烏が群れてけたたましく鳴いていただとか、誰かに不幸があっただとか、そんな映像の表現の様な目に見えた予兆なんかは、無かったのに……。
兎に角、昨日起こった事を文字に書き起こしていきます。
今は……何かしていないと、気が済みませんから。
先ずそれとの最初の遭遇は、駅ビルの三階に昇った時に窓から一部見えた、らしいです。
らしいというのは、私が自分の目で確かめた訳ではないからで、如何やら息子によると、何やら白色の細長いものが、私の見ぬ間窓ガラスを掠め、摩っていたようです。
まだ小さい子供の言葉、真に受けるのは愚かしいとも感じますが、嘘にしてももっと現実的な……最もらしい事を
言いますから、この時から少し可笑しいと思いつつ、旦那に頼まれた物を買いに百円均一に向かいました。
私自身、早く家に……いや、この場所を出ようと芳郎が釘付けになって見る夕方のアニメまでには家に帰ると決め、普段周るテナントやレストランには寄らずに早々に用件を済ませると、帰り道、先程の階段に差し掛かるのでした。
「芳郎、さっきの見えたら教えてね」
私は見ていないから分からず、幼いこの子を頼る他ありません。
大丈夫、ここを通り抜ければいいだけなんだから……自分を宥め、必死に言い聞かせて、手摺を掴むと息子は
「ママーッ、あれ」
と、指差しました。
私は咄嗟に
「さっきの?」
と聞きました。
「ちがう、あれあれ」
見ると自販機がありました。
この時初めて、今日出掛ける事を忘れて、麦茶を旦那の分しか用意してなかったのに気が付きました。
「ごめんね、芳郎」
二人の飲み物を購入すると、私達は窓を背にする椅子に腰掛けました。
窓を見せない様、或る程度警戒していた筈なのに、イチゴ・オレを桃のと言う……正確に言えば桃色のですが、
そんな息子の成長と、覚えているにも関わらずイチゴのとは言わないのが何だか可笑しくて、気付かぬ内に緊張の糸が切れてしまって、何時からか芳郎は窓に目を遣って居ました。
それだけなら良かったのですが、芳郎は窓をばんばんと叩いているのです。
「芳郎、駄目よ」
表面は平静を装ってはいましたが、気が気ではありません。
何かが居る、確実に窓付近に……あどけない我が子の危機を感じ、慌てて芳郎を持ち上げ抱き抱えると
「おうまさん、おうまさん」
と、万に一つも無いであろう絵空事を言い出すのです。
常識的に考えれば実際のおうまさんでは無く、Tシャツや看板に描かれたおうまさんだと思われる事でしょうが、条件反射で見たあれは、そんな紛い物ではありませんでした。
怖ろしい光景で細かい部分まで目が行き届きませんでしたが、覚えている点を書き連ねると、歯茎を剥き出しにしながら、舌で窓を舐め擦って、私達を横長の虚ろな瞳孔で見据えながら、ガラスに蹄を強く押し当てている姿……。
窓の軋みは嘲笑うかの様に、低く響くのでした。
言葉が出ず、私は恐怖から硬直してしまいましたが、無邪気に……得体の知れない化物に近付くのを見て芳郎が悪い訳ではないのに
「駄目、見ちゃいけません!」
と怒鳴りつけたのです。
芳郎は泣きじゃくり、数々の視線が私を鋭く射抜きました。
ヒステリーに叱る駄目な親、そう言いたげに感じましたが、私なりにこの子を……この状況から守りたいと、そう
思っているのでした。
「芳郎……」
嫌がる息子を包む様に抱き締め、瞼を閉じ、落ち着かない口許を噛み、震える腕には爪を当てて、何とか自分を
保つと、ようやく感情を整理出来るのでした。
逃げ出したいのは私だけ、怖いのも私だけ……けれど、保護者として私には真っ当な判断をする必要が
あるもの……。
「お母さん……」
芳郎が言いました。
私は薄目を開け、首を下へ傾け
「芳郎……帰ろう、今日は芳郎の大好きなのがやるから」
芳郎は応じたのか、それとも甘えているのか、胸に顔を埋めました。
私の必死さが通じたのかな。
その後元居た場所を外から確認しましたが、特に異常は無く、あれはまるで砂漠の幻の様で在りました。