百鬼夜行
お盆に祖母がいる田舎へ帰るのは、今年で五度目である。
荒んだ生活を送っていた高校一年生の頃、母に無理矢理田舎に放り込まれ、祖母に大喝され、田畑を手伝わされ、すっかり健康的な生活を送るようになって東京に帰った。それ以来の習慣だ。
駅に降り立つと、むんとした熱気に冷房で冷やされた電車内の空気が押し返されたような感じがした。土と緑のにおいがする、田舎の空気を思い切り吸い込む。普段どれほど空気が汚れた場所にいるのか思い知らされる。すぐそばの山から、わーわーと蝉の声が聞こえてくる。この暑苦しさに、高校生の青臭い記憶を思い出し、それから帰ってきたとほっとした。
祖母は健在だが、電話口で腰の調子が悪いとしきりに言っていた。お陰で西瓜を持って帰れない、西瓜を買えない、大玉が食べたい、だから来るときは西瓜を買って来いとも言っていた。腰が悪い云々は嘘ではないと思うが、西瓜の口実なのではないかと若干疑う。
容赦なく日光が浴びせられ、瞼の上に手で庇を作った。改札を出ると目の前には金色の田んぼが広がっており、一本道が伸びている。お盆の頃になると稲穂は黄色く色付き、直射日光を浴びて益々英気を養って、真っ直ぐ空を指す。昼下がりの光に照らされた金色の風景が俺は大好きだ。
片手にぶら下げた西瓜の紐をしっかり持ち直し、歩き出した。祖母の家までの道のりは間違えまい。
ふと視界の片隅に誰かを捉え、目を向けると、駅の屋根の下に渋い色の着物を着た老爺がいた。なんとなく微笑して俺を見ている気がした。
見たことのない老爺だ。内心首を捻りつつ、会釈してそのまま行過ぎた。
太陽光がじりじりと肌を焼く。首筋に汗が伝う。目に染みる緑の山と、眩しい田園風景。
やっと夏が始まったと実感した。
*
祖母の家は農家らしく広い。蔵と倉庫もある、このご近所でも立派な家だ。田畑も含め、祖母が一人で切り盛りしていると考えると、祖母は立派だなぁとしみじみ思う。
着いて早々、草むしりを頼まれたことにはちょっと閉口した。
祖母の言う草むしりは、草むしりなんて可愛いものではない、庭先に俺より背の高い丈夫な雑草が沢山生えているのである。
首筋にじりじりとした日差しを感じながら、汗を滴らせて、高く伸びた雑草を引き抜いていく。遠慮なく腕を上ってくるカメムシを払う。
「畑仕事しとると、庭の世話ができなくてなあ。タケちゃんが来て良かったわあ」
土産の西瓜を切り分けて盆に載せ、祖母が縁側から声を掛けてきた。高く伸びた雑草を力任せに引き抜いて、こんもり山が出来ている上に放った。
「もうちょっとこんなにでかくなる前になんとかなんなかったのかよー」
「ばっちゃんにそんな口利くでねぇぞ」
問答無用である。縁側に腰をかけるとぽかっと頭を叩かれた。毎年のことだ。
西瓜を一切れ手にとって、しゃくしゃくと食べた。乾いた喉に水分が心地良い。祖母も「美味い」と言って食べる。日に焼けた皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑う。
「タケちゃん髪の毛、そんな茶色かったっけなぁ」
「髪の毛染めたんだ。茶色。似合うだろ」
「そうか。もう大学生だもんな」
祖母はしげしげと俺を眺めて「立派なもんだなぁ」と言って感心する。ちょっとバツが悪くなった。大学は通っているし、楽しいけれど、これといって立派にやっていることがないのが現状である。大学の講義を受けて、課題をやって、調べて解かったことにほうほうと感心しているだけだ。大したサークルにも入らず、バイトをして金は稼ぐけれど使い途は友人と飲みに行くくらい。それも楽しいのだが、能動的に活動している友達を見ると、ああいうのが大学生らしいとも思うし、俺も何かやらないといけないかな、と思う。
祖母にそう言うと、またごつんとゲンコツをくれた。
「親の金だろう、ばっちゃんは大学はよく解からないが、一生懸命勉強しないでどうする」
ゲンコツ食らった頭を撫でつつ、確かにそうだけど、何を勉強したら良いだろうかと心の内で思った。
何をすれば良いのか。それが重要なのである。
目の前には西日に照らされた金色の田んぼが、風に揺られて波打った。ひぐらしの鳴く声が響いてくる。田舎はやたらひぐらしが多い。夕方になると蛙と一緒に大合唱である。
さっき引き抜いた雑草の山を見る。今日はこんなもんか。明日から田んぼを手伝う毎日だなぁと思った。
*
あくる日、朝早く起きて田んぼの手伝いをした。農家の朝は早い。日が昇る前から働き始める。俺はいつも雑草を抜くことから手伝う。夏は田んぼの雑草も延び放題だ。
だが、今年は例年より早く田んぼから引き上げて、倉庫の整理の手伝いを頼まれた。
古い農具をずっと惰性で倉庫の中に置いていたが、ついに処分を決めたそうだ。「タケちゃんも来てくれたしな」と祖母は言いながら、昔の農具を運び出した。足踏みの脱穀機、鍬や鋤といった道具が出てきて、へぇと感心する。
「こんなの使っていたんだ。資料集で見たようなのばかり」
「昔は随分使ったけど、今は便利になったからな」
「今は重機ばかり使うもんね」
木製の除草機、石臼、箕、藁打ちをする槌、錆だらけの草刈鎌、草履、下駄や籠も出てきた。祖母はこんなのもあったかこれは何に使ったんだっけと言いながら出してくる。
「ばっちゃんもこういうの使ってたの?」
「ばっちゃんも使ったことねぇくらい昔の道具さ。草履はみんな昔作ったな」
おそろしく古そうな道具だ。
「資料として、これ提供したら良いかもよ」
「資料?こんなきたねぇもの資料になるもんか」
そう言って祖母は笑った。
資料集に載っていたようなものばかりだったから、結構本気で言ったのだけれども。まあいっかと思ってさっさと外に運び出した。
倉庫の整理から勢いがついて、蔵からも茶碗や、飯櫃や、瀬戸物、杵、臼、柄杓、火鉢、古い着物などの古道具を運び出し、家からも不要になった布団や電子ジャーなども出して、倉庫の前にまとめた。結構沢山の古道具が集まった。確かに祖母一人で持ち出して整理するには多すぎる。
古道具屋や鉄くず屋に見せて、それから粗大ゴミに出すか、燃やせるものは解体分別して庭で燃やすらしい。
仕事を済ませると、その量に祖母も目を丸くした。
「こんなにあったっけな」
「すごい量だな。なんで今まで片付けなかったの?」
「なんだったかなー。もう随分前から邪魔じゃ邪魔じゃと思うとったけども」
逡巡して、祖母は「そうだ」と言った。
「じっちゃんがな、捨てるなって言ったんだ」
「じっちゃん?」
祖父は俺がまだ幼稚園のときに亡くなった。幼い頃のことだから、顔をはっきり覚えていない。仏間の喪服姿の遺影の印象の方が強いくらいだ。
「いつだかじっちゃんが妙に真剣な顔して、古道具を容易に捨てるなっちゅうてなぁ。おかしなもんよ。古道具をまとめて捨てると、ちっこくておっかないやつがわらわら出てくるからって。不気味なこと言ってな」
と言って、祖母は首を傾げる。
俺は笑った。
「じっちゃん怖がりだったの?」
「そんなことなかったけども」
祖母は腑に落ちないというように言った。
「どうしてそんなこと言ったんか、不思議だなぁ」
足元を見ると、ふわふわした茶色い丸いものが落ちていてぎょっとした。くりっとこっちを向いたので、俺はそれが小さな鼠だと知った。鼠は円らな黒い目でこっちを見てから、ぷいと向き直って、体のわりに長い尻尾を引きずって近くの草むらの中に入っていった。古道具のどこかに潜んでいたのだろう。案外鼠も可愛いものだと思った。
ふと顔を上げると、目の前に広がる田んぼの畦道に、昨日見た渋い色の着物の老爺が立ってこっちを見ていた。にやにやしているようで気持ち悪いと思ったが、近所の人かと思い頭を下げた。
頭を上げたら、そこにはもう誰もいなかった。
*
田んぼの蛙の大合唱。
蒸し暑さに目覚めた。風を通すために開けた窓から聞こえてきて、ああ今年もやっているなとぼんやり思った。
起き上がって蚊帳の外に出て、窓から外を覗くと、随分明るかった。まっさらな藍の空に滲むように、白く満月が光っている。星も見えないくらいだ。
耳慣れた蛙の合唱に、小さな音色が混ざっている気がした。耳を澄ますと、お祭りの太鼓の音のようだ。
いや、そんなことあるわけがないない、こんな夜中に。
蛙の声や虫の声が合わさって太鼓の音みたいに聞こえるのだ、きっと。
まだ半分寝惚けた頭でそう思って、トイレに行った。
トイレから戻るとき、窓の開いた和室から蛙の合唱に混じって、やっぱり太鼓のような音が聞こえてきた。
今度はもっと明確だったので、夢なのかなと思いつつ和室に入って網戸越しに外を眺めると、倉庫と昼間古道具をまとめた場所がすぐ見えて、俺はそれを目撃した。
月に照らされた小さな影が、古道具がまとめてある場所へ歩いていく。その小さな影はちょこちょこ歩きながら、音を奏でる。
つんつくてんてんとん
太鼓と鉦のリズムだ。行進するように歩くその生き物は、音を奏でながら一歩一歩古道具に近付く。
狐に抓まれたような気持ちで、暫くその小さなものを見つめた。
何だろう、あれは。鼠とか、狸じゃないのは確かだ。二足歩行で歩いているし、毛むくじゃらではないし。肌や筋肉がぼこぼこ凹凸のある体つきである。頭でっかちの背格好。それが、なんだかよく解からないがつんつくてんてんと太鼓を叩いている。
月の光に照らされて、そいつはつんつくてんてんとん、と進む。
いつの間にかそいつの周りを蛍のような光が複数飛んでいて、列を作って追っている。
一体何が起こっているんだろう。
不可思議な様子が気になって、急いで部屋を出て、ガレージからサンダルで外に出た。倉庫のすぐ隣に出るので、そこから目の前に古道具の山が見える。
見たらあの小さいのとは別に、人間ほどの大きさの同じようなやつがわっしわっしと歩いていた。体がぼこぼこしていて、筋肉がくっきりしている。たくましい腕の手は大きく、大きな爪が尖っている。その片腕には何やら四角い箱を抱えている。大きな顔の周りには毛がふさふさとしていて、振り向きざまに目玉がぎょろっとしているのが見えて、ぎょっとしてトラクターの陰に隠れた。
あの小さいやつは相変わらずつんつくてんてんとんとやっている。
蛍のような光はその周りをふよふよし、つんつくてんてんとんとやっているやつを追い掛けている。
大きいやつも小さいやつの後ろをついて回っている。
小さいやつは、古道具の周りを歩き始め、大きい方はその後をわっしわっしと歩く。古道具の周りを丁度一周して、と、それに加えてまた何か聞こえて来た。
ぴっぴきぴー ぴっぴきぴー
忽然とそれは、飛び出してきた。鳥のような口ばしの顔をして、人間のような体躯の、着物を着、天狗が履くような高下駄を履いた生き物で、横笛を吹いている。つんつくてんてんとん、のに合わせてぴっぴきぴーと吹く。よく見るとその生き物は頭の上にワイングラスを頭の上に載せている。いや、ワイングラスが生えている?片付けした古道具の中の一つではないか。どういうこっちゃ。
そいつが出てきたことを皮切りに、蛍のような光が古道具に集まり始めた。吸い込まれるように光がすぅっと消える。すると、がたがたと音を立てて、むくむくと古道具が動き始める。
ふわっと浮き上がって、藁箒から節くれだった足が生えて、つんつくてんてんとんに合わせて踊り始めた。
箕がむっくり起き上がったと思うと、なんと箕に胴体がついていて、これもまた踊り始め、つんつくてんてんとんの後に続く。
電子ジャーを顔につけた着物を着たやつも出てくる。頭でっかちでふらふらしているが、太鼓を持ったやつの後を追う。
そんな風に、次々と古道具は奇妙な生き物に生まれ変わり、太鼓を叩くちっちゃいやつの後に並んでついて行った。
下駄は勝手にからんころんと音をさせて歩き始める。熊手や鎌には手足が生える。お釜に着物を着た胴体が生えて、おたまで自分の釜のふちをかんかん叩いている。おたまは手足をばたばたさせている。槌には目玉が付いてぎょろりとして、顔の細長い目玉がぎょろぎょろしたちっちゃい生き物が手にしている。そいつは藁の化け物を見るなり追い駆け始めた。藁の化け物は猛スピードで逃げる。古布を被った生き物がするすると動いて追う。布団を被っているやつもいる。
そのうち、大きな人間大のやつが抱えていた箱を下ろした。つんつくてんてんとんを追うやつらの数匹がそれの周りに集まり、箱の蓋の隙間を覗き込んで中を見ようとする。大きな人間大のやつは蓋の上に片足を乗せて押さえ、隅に手を掛けると、ばりばりと音を立てて蓋を壊した。すると中からきゃーと小さな悲鳴が聞こえ、わらわらとつんつくてんてんとんに似た小さい生き物が外に飛び出した。大きいやつにびっくりして逃げているようである。そしてつんつくてんてんとんの行進に加わる。
大きいやつは箱を解放した後、我関せずとばかりに、わっしわっしと悠々と歩いて行って、木が繁る影の闇の中に消えていった。
踊り、飛び跳ねながら、高い声を出し騒がしく、古道具の化け物や小さいやつらはそこらを行進していく。
月の光はますます明るく照らし、青白い風景に、やつらの影を地面にくっきり映す。
古道具の背後にある草むらに、ふんわりとした赤い丸い光がいくつも灯った。何かと思って見ていると、提灯を先につけた竿を持った蛙がまかり出た。次に兎の頭で胴体が人間のやつが、同じようなものを持って出てくる。鼠、猿、鳥・・・二足歩行するはずのない獣が、着物を着た人間の胴体の上に首を乗っけて、提灯をつけた竿を持ち、次々と出てくる。肩車をした蛙も続く。赤い提灯を持ち、またはでんでん太鼓をぱたぱたいわせ、つんつくてんてんとんの行列に加わる。
ここまで呆気にとられて見入ってしまって、俺ははっとした。
何だろうかと思って表に出てきて、ますます意味が解からなくなった。何となく見てはいけないものを見てしまった気はする。誰も家の古道具に足が生えたり胴体が生えたりして踊りながら行進しだす光景なんて見たくはないだろう。見たこともないだろう。
一体この状態は何なのだろう。小さな化け物たちの宴。後から後から湧き上がって来る。そういえば満月の夜にしても、この夜は明るすぎる。きゃっきゃと行進する生き物たちの影がくっきりしているのだ。電灯もないのにこんなに影が濃いのはおかしい。
それは禍々しい様子を映す。青白い満月の光に照らされて、提灯の赤い光がふわふわし、小さな化け物たちは無邪気に飛び跳ね、蛍のような光は浮遊し、古道具にまとわり付く。それは幻想的な画でもあった。
思わず無心で眺めていたが、段々行進が自分の方に近付いていると気付いて身が竦んだ。あの先頭のつんつくてんてんとんが、こっちを向いて歩いて来るのである。もっと広い庭の方へ移動するつもりらしい。
トラクターの陰に座り込み、身を潜めた。脈拍が上がって、たらりと冷たい汗がこめかみを伝う。
あれに見つかったら、どうなるのだろう。
恐ろしさ半分、好奇心が半分。奇妙で不可解であるからに、古道具や小さい化け物の行進は、抗い難い魅力があった。見ていたいという気持ちになる。だから俺はこの状況が異常だとは思っていても、家の中に戻ろうという気にならなかった。
それが軽率で、危険な行動だということは、後になって解かった。ああいう幻想的な風景は人間の心を魅せるものであっても、人間に善いものとは限らない。たまたま遭遇したからといって、それは人間の社会性や倫理観など全く通用しないものであって、一線を隔す異界なのである。邪悪かどうかなんて、人間にとってどうあるかの基準による。人間に害であるか、そうでないか。人間の管理も支配もされない、人間じゃないものに、そんな基準はない。
見た目で恐ろしいかどうかを量ることもできない。俺は小さな生き物の行列の無邪気さを、侮っていた。
相変わらずトラクターの向こうではお囃子のような音楽が聞こえてくる。つんつくてんてんとんという太鼓と鉦のリズムに、笛の音やでんでん太鼓の音。きゃっきゃと戯れる小さな化け物たちの声、蛙の合唱。それは段々近付いて来る。一番先頭の小さいやつが、こっちに来るのだ。
ひよひよとした蛍のような光がトラクターの陰から見えた。つんつくてんてんとんというリズムが一層大きくなる。
やがて、小さいやつが腹に抱えている太鼓が見えた。
小さいやつは庭を目指してリズムをとりながら現れた。節くれだった細い身体、大きい頭、ぎょろりとした目玉。顔の周りにはふさふさと毛が生えて、耳より上に小さな三角形が乗っかっている。これは、角?
角?この小さいのは、鬼?
身が強張った。トラクターに身を寄せる。やばい、と頭の中で警鐘が鳴った。小さいやつはつんつくてんてんとん、とやって行き過ぎようとして・・・止まった。鉦だけつんつくつんつくとやりながら、
う?
と高い声を出しながら、首をこちらに向ける。
目が合った。
そいつは舌なめずりすると、くわっと大口を開けた。赤い口の中に鋭い牙が並んでいる。
後ろについてきている数匹の古道具の化け物も、トラクターの陰からこちらを見て、くわっと口を開け、恐ろしい様相をした。やばいと思って後ずさろうとしたが、パニックになって体が思うように動かない。
わっと火の玉が出てきて化け物たちを照らす。どこからくるのか冷気がまとわりついて、ぶるっと体が震えた。不協和音の不快な声を出して、化け物たちは小さな手をこちらに伸ばす。ぐわっと黒い煙がたち、禍々しく俺を包み込もうとする。リアルなひゅ~どろどろどろという状態だ。
腰が抜けて俺はその場にへたり込んだ。取り返しのつかないことになったと思った。後ろに下がろうとしても黒い煙のようなものにまとわりつかれ、動けない。わらわらとやって来た目の色を変えた化け物たちが今にもこちらに飛び込もうとしている。
食われる。
悲鳴を上げそうになった、その時。
背後からお経を唱える渋い声がした。
固まっていると、おどろおどろしい様相をしていた化け物たちが一時停止した。首を傾げると、ふっと黒い煙や火の玉が消えて、元の無邪気な様子になる。身を引いて互いの顔を見合わせている。俺はその内にがたがた震えながら後ろに逃げようとすると、耳元で声が聞こえた。
「これ、そこにじっとしておれ。」
寂のある老人の声だった。
体の震えが止まらないまま、そこで息を殺してじっとした。お経を唱える声は背後で続く。何やら顔を見合わせている化け物たちを見つつ、混乱した頭でお経を唱えているのは誰だろうと考える。
祖母?いや、祖母はお経なんて覚えていない。それに男の声だ。祖母はお経を唱えると男のような声になるとか。そんなわけない。
ざわざわと化け物たちの雰囲気が変わったので、緊張して思考を断ち切った。今度は何だ。
つんつくてんてんとんをやっていた小鬼は、ざわざわきーきーと互いに騒いでいる化け物たちを無視して、目をぱちくりさせて俺の背後を見ていた。心なしか萎縮している。
突然、鉦をつくつくつくつくと早いテンポで叩き、きゃーと言って跳び上がった。
びくりとして、他の化け物たちは静まる。
くるりと身を翻して、今度はつくだんつくだんと早いテンポで叩き、きゃーと言いながら逃げ出す。
皆もわーと言いながら、がちゃがちゃと音を立てて逃げ始めた。
獣の化け物も草むらに一目散に駆け込む。
つくだんつくだん、ぴーぴーきゃーきゃー、がちゃがちゃと騒がしい音を立てて、トラクターの向こう側に消える。暫く遠くで五月蝿かったが、やがて静まった。
夜は深く闇に沈む。蛙と虫の音が聞こえ、ねっとりと空気が絡みつく。空を見上げると沢山の星が光っている。馴染み深い田舎の夏の夜だ。まるで何事もなかったかのようだ。
何だったのだろう、あれは。夢だったのか?
読経はまだ背後から聞こえてくる。
俺はまだ固まっていた。読経が止まって、背中が冷え冷えとした。息をついてから、おそるおそる、後ろを見た。
暗闇の中に渋い色の着物を着た老爺が浮いて、にやりと笑った。
そのまま俺は気絶した。
*
次の朝、トラクターの側で伸びている俺を祖母が見つけた。
*
地元のお寺の和尚さんは、電話で話を聞くと駆け付けてくれた。
一夜明けて、古道具をまとめて置いておいた場所は、何事も無かったかのように佇んでいた。昨日と変わらない。
しかし祖母は、祖父が言っていたことも思い出してか、俺の奇奇怪怪な話を真剣に受け止め、寺に電話してくれた。
「それは付喪神じゃな」
電話口で和尚さんは言った。
「妖怪じゃよ。古い古い道具に霊が憑いて、化けたのじゃ。話を聞くと小鬼が先導してぎょうさん他にも妖怪を呼んだようじゃの」
「どうすれば良いですか」
「今から行って経を読んでやろう。古道具に憑いた霊を成仏させるのじゃ」
と、いうわけで和尚さんが読経に来てくれた。
まとめてある古道具を前に、和尚さんがお経を読む。俺も一緒についている。妖怪に遭遇したのだから、祓っておかないと危険だろうということだ。
何ら昨日と変わりのない古道具は静かにその場に留まっていたが、俺にはどことなく気味が悪く見える。
ふと見ると、昨日見た茶色い丸い鼠が草むらでもそもそ動いていた。鼠頭人間を夜中に見た後には、あまり可愛らしいとも思えない。暫くその辺をうろうろしていたが、お経を読み終わる頃にはどこかに行ってしまった。
和尚さんはお経を読み終わった後、祖母が出したお茶を縁側で飲んだ。そしてまるで普通の世間話のように切り出した。
「タケル君が遭遇したのは百鬼夜行だな」
「ひゃっきやぎょー?」
「ひゃっきやぎょう、という」
妖怪の行列である。鬼や獣、食器や道具などの妖怪が、夜中に笛や太鼓を奏で踊りながら行進する。
江戸時代に絵巻物に描かれており、昔はその遭遇譚や、回避方法などが書かれた書物もあったという。遭遇譚で有名なものは宇治拾遺物語や大鏡に入っている小話だ。
絵巻物には箱を壊して中の妖怪たちを解放する鬼、その箱の中を覗こうとする化け物も描かれているという。
それを聞いて息を呑んだ。
「俺、それ見ました」
うむと和尚さんは頷いた。
「わしもそれを聞いてな、百鬼夜行だと思ったのじゃ。助かった人が絵を描いて残したものが、絵巻物じゃろうな」
「うちのじっちゃんが言っていたのも、それでしょうか」
祖母が聞くと、「おそらくそうであろう」と和尚さんは言った。
「古道具をまとめて捨てると、異形のモノが目を付けることを知っていたのじゃろ。小鬼が太鼓を叩いてやって来て、蛍のような光がふわふわだとかは、わしも初めて知ったがな」
もう一つの不思議案件は、俺が助かった理由である。
「あの爺さんは誰だったんだろう?」
「うちのじっちゃんじゃないのは確かだな」
暗闇の中でにやりと笑った着物姿の老爺は、遺影の祖父と似ても似つかなかった。祖父は経を読めなかったという。
しかし、今年ここに着いてから二回、その老爺を俺は見かけていた。渋い色の着物を着て、にやりとしていた。妖怪だのを見た後には、あれが生身の人間でないと考えても不自然なことではない。
和尚さんは暫く考えに沈んだように黙っていると、おもむろに口を開いた。
「今あるわしが住職をしとる寺は、昔、無人寺だったものを取り壊して、その代わりに作ったものだそうじゃ」
「へぇ」
「無人寺にはたまに旅人が泊まったり、修行僧が暫く滞在したりするものでな。全国を渡り歩く者の宿代わりだったのじゃ。時には坊主が住み着いたりもした。その無人寺にもいくらか旅人が来たことがあるそうじゃが、取り壊す前になんとも変わった坊主が住み着いていたそうな」
和尚さんはそこで一度話を切る。俺と祖母は顔を見合わせて、和尚に話を促す。
「それは、いつ頃の話なんですか?」
「江戸の終わりの頃から、明治に差し掛かった頃だろう。寺にその坊主が書き記した書物があってな。坊主はいわゆる世間師じゃった。全国を渡り歩いて、見聞を広め、情報を持ってくる。それはそれは物知りで、村人は頼りにしたそうじゃ。随分長く滞在して、村人の助けになりながら生き、無人寺の住職となり、やがてこの村に骨を埋めたらしい。江戸でのこと、芝居のこと、別の村のこと、薬のこと、皮膚病の治し方、農業のこと、数学、男女のもつれ・・・色々知っておったそうな。中に変わったものは、各地の言い伝えや、山に住む大男と遭遇したときの対処法、呪いの掛け方、解き方、霊の呼び方、河童に騙されないようにする方法、鬼の退治の仕方、それから、百鬼夜行に遭遇したときの回避方法なども知っておったらしい」
「それって・・・」
「気まぐれを起こしたか解からんが」
和尚さんの表情は少し固かった。
「尊勝陀羅尼を読んだのじゃろう。その坊さんが出てきたっちゅうことかも知れんな」
「だけど何で、タケルを助けるちゅうことになったんだろうな?」
「タケル君を助けようとしたわけじゃなくて、たまたまタケル君が助かったのかも知れんな」
和尚さんはガレージの方を見た。
「今ある寺は山の上にあるがのう、別のところから移転したのじゃ。昔、無人寺があったところはあそこ」
俺と祖母は振り返って、ガレージを見た。
和尚さんは頷いた。
「丁度、タケル君が寝ておったところの後ろらへんにあったのじゃ」
*
無人寺を取り壊した後、その土地はかつてから村の有力者であった祖母の家の持ち物になった。それから災害があって前の家に住めなくなり、こちらに家を建て直した。丁度無人寺があったところに、ガレージが建った。
祖母は和尚さんから話を聞いて、初めて無人寺があったことを知った。
「ありがたいことだな」と孫が助かったことを言うと、和尚さんは祖母に「いや」と言った。
「その坊主はただ単に自分が居ついていた場所に妖怪がやってくるのをよしとしなかっただけかも知れないな。この世に生きるものじゃないものの考えることは、よう解からんものじゃ」
この世界とたまに繋がる程度の、分離した世界、異界のことは、自分たちの世界と同じように考えてはいけない。
「もう少しで、食らわれるところだったのじゃろう。あれと同じようなもんだと、考えなさい。あっちはあっちの都合で考えるもんじゃ」
俺は頷いて、自分の軽率さを恥じた。小さくて美しい光景を、侮って眺めていたことは否定出来ない。
うむ、と頷いて、和尚さんは何気ないふうにお茶を飲む。さりげなく警告をして、対処して、もしかしてこの人は俺の知らない世界をもっと見たことがあるのかも、と思ったが、訊かないでおいた。容易に足を突っ込むべきではないし、きっと教えてくれないだろう。
「まあ、巡り合わせがタケル君を救ったっちゅうことかな」
それから和尚さんは、古道具は早く片付けるように、と言って帰って行った。
*
古道具屋と粗大ゴミに取りに来てもらうよう電話して、自分の家の庭で焼けるものを選別した。木製のものや箕や草鞋などを取り出し、別にする。
「こんなのあったっけな」
と言う祖母の声に振り向くと、祖母は木箱を持っていた。
慌てて俺はその木箱をひったくった。
「これは駄目だ」
「何が」
「お、大きい方の鬼が持って来た木箱だ・・・。」
「そいつは、鬼が壊したんじゃなかったか?」
確かに、その木箱は壊れていないし、傷もない。だが、大きな鬼が持っていたものとそっくりだった。
おそるおそる箱の蓋を開けてみると、茶碗や箸といった食器の類が綺麗に揃って入っていた。祖母はこんなに数が揃ったものを見たことがないと驚いていたが、俺はある想像をしていた。
朝、起きたら、全部古道具は元の場所に元の通りに佇んでいたのである。
あの小鬼が騒いで逃げ出した後、古道具の妖怪たちは、自ら元の場所に戻ってまとまったのではないか。すると、この木箱の中身もきっと。
散々迷ったが、瀬戸物と箱を分けてゴミに出そうということになった。
しかし、後で古道具屋が見に来たときに、どうしても譲って欲しいと言われ、俺と祖母は断ったが、古道具屋が引き揚げた後、その食器が入った木箱はどこにもなくなっていた。
鬼が持って来た食器箱が、その後どうなったかは解からない。
あれやこれやと処分して、ようやく古道具はなくなった。
*
「今年はほとんど古道具の処分をしてもらったようなもんだな」
粗大ゴミを全部見送った後に、祖母が疲れた顔で言った。
田舎に着いた日を除いて三日間、ほぼ古道具の片付けに費やした。俺は明後日に帰ることになっている。仕方ない、こんなに急いだのは俺が厄介ごとと遭遇したからである。
ひぐらしの鳴く声がさざめく。夕日に照らされて、田園は仄かに赤く染まっていた。それを眺めながら、俺は祖母に訊く。
「じっちゃんて、どんな声だった?」
「はぁ?なんだいきなり」
「いや、どんな声だったのかなーって」
祖母は訝しげな表情をしつつ、「そうだな」と言う。
「年取ってからは大分かすれた感じだったかなぁ。そんな感じだったってくらいしか言えないな」
そうか、と頷いた。
和尚さんも祖母もそれについてあまり言及しなかったが、俺は気になっていることがあった。
妖怪たちに襲われそうになり、背後からお経が聞こえてきて、俺が逃げようとしたときである。誰かが俺を嗜めたのだ。
『これ、じっとしておれ。』
かつて無人寺にいたという坊主はお経を唱えていたし、声がもっと渋くて使い慣れている感じだった。和尚さんの話を聞いて、俺はそれが坊主と同一人物でないだろうことを確信した。
明らかに、あの警告は俺を助けようとするものであった。
俺があそこから逃げていたらどうなっていたのか解からないが、結果的に、俺はあの声に従って助かったのだ。
祖父だろうか。他に心当たりがないし、俺はそうだと思いたいが、実際解からない。
だが、この世のものでないだろう誰かが、俺を助けようとしたのは確かなのだ。
この世と異界の繋がりとか、異界遭遇譚とか、民俗学の本にあったな。東京に帰ったら大学の図書館で探してみようかな。
そう思いながら、夏の日が沈むのを眺めた。
*
東京に帰る日、祖母は駅まで見送りに来てくれた。今年変なことがあったから、来年は来ないのではと心配していたようだが、俺は来年も必ず帰ると言った。俺は東京に帰れるが、祖母はあの家でこれからも生活するのである。
出発した電車の窓から手を振っていると、駅の側に老爺が立っているのが見えた。
渋い色の着物を着ていた。
2009年某サークル有志合同誌『桜葉紅雪』収録作品
私の担当テーマは「夏」でした。
結構気に入っている作品です。




