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お化け蜜柑の木のはなし。

 子供の頃、西瓜の種を飲み込んだら、お腹の中で芽が出るの?と、父に訊いたことがある。父は大笑いして、そんなことにはならないよ、と言った。

 じゃあ、蜜柑の種を飲み込んだらどうなるの?と訊いた。すると、大笑いをしていた父の表情が一変した。そして、真剣な顔をして、私に言い聞かせた。良いかい、蜜柑の種は飲み込んではいけないよ。もしかしたら、お化け蜜柑の木の種かも知れないから。お化け蜜柑の木の種を飲み込んでしまったら、大変なことになってしまうからね。


 お化け蜜柑とは何ぞや。父の忠告は、わけが解からずじまいだ。お化け蜜柑の木の種を飲み込んだら、どうなるのだろう。その忠告は、ぼんやりとした父の唯一の記憶。どうなると言っていたのか、あるいは言わなかったのか、記憶が薄れて思い出せない。

 何があったのかどうなったのか知らないが、物心がついた頃には父はいなかった。霧のようにその存在は消えていた。私にとっては、必然的なことだろう。


 当然でないことが当然のように起こるから、私はあらゆることにあまり驚かないし真偽を疑わない。肉親と思われる人がいきなり現れて消えても、目が覚めたら布団の色が違っても、知らない森の中にいても、ただありのままに受け入れるのみだ。家にあった家具がなくなっていること、扉を開けたら高層ビルの外の空中だったこと、帰り道が違うこと、学校や勤め先が変わっているのもよくあることだ。いつ、どこで父や母がいなくなっていても、必然だったと言えよう。父や母は、誰にとっても存在、もしくは存在していたのが当然であるからだ。

 しかし大概の人は、そんなことは信じない。私のような境遇を、信じない。たとえば、貴方の周りの誰かが、「私は将来蜜柑の木になるだろう」と言えば、貴方は嘘だと思って笑うだろう。有り得ないことだからだ。

 しかし、たとえ話ではなくて、私は今、「私は将来蜜柑の木になるだろう」と、偽りなく告げることができる。今の私を見て、私が「私は将来蜜柑の木になるだろう」と言って、それを笑う人がいるなら、その人は目の前の事実を受け入れていないに過ぎない。その人が嘘だと笑うなら、私の口からはみ出ている、艶やかな緑色の葉と、細いしなやかな木の枝を、何だと思うのだろう。それは、柑橘類の若い葉なのである。少し確認をすれば、正真正銘、それが私から生えてきていることが判る。

 私は今、蜜柑の木に侵食されつつある。


  *


 最近、私と対面する人は、私の顔を見てそれは何ですか、と言う。蜜柑の木です、と答えると、何で咥えているんですか、と訊いてくる。私が、咥えているのではなくて、胃の中に蜜柑の種が根付いて、そこから生えてきているのだ、と言うと、その人は笑う。しかし私が笑わないでいると、表情を強張らせて本当なんですかと確認してくる。そうです、と私は答える。会話は、相手が畏怖するか驚嘆する、それ以上には発展しない。

 唐突に、何もなく蜜柑の木が私の胃から生えてきたのではない。私は、お化け蜜柑の木の種を飲み込んでしまったから、胃の中に蜜柑の木が根付いて生えてきたのだ。その木は私が知る限りの樹木の、通常より速く成長を続けている。お化け蜜柑というだけあって驚異的な生命力だ。

 お化け蜜柑の木の種を飲み込んでしまったのも、あまり一般的ではないだろうきっかけだった。

 あるうだるような暑い日の帰宅途中に、静かな家の前を通ると、垣根越しの蜜柑の木から、黄色くて大きい蜜柑の果実が一つ落ちて来た。それは丁度、私の手の中にすっぽり収まった。他人の家の蜜柑の木の実を偶々受け止めて、私はそれをどうしようもない。その家にわざわざ返すのもおかしいし、そこの排水溝の近くに落としていくのも心がない。暫く困ってから、私はそのよく熟して素晴らしく良い香りのする蜜柑を持ち帰ることにした。良い香りのする黄色い蜜柑が家にあっても、何も問題がないと思ったのだ。

 家に帰ると、家の中はむっとして暑かった。ダイニングのテーブルの上に蜜柑を置いてから、窓を開けた。蝉の鳴き声がうるさかった。蜜柑は相変わらず柑橘系の良い香りをさせていた。私の背中は汗が滴り、喉の渇きを覚えた。丁度良いと思って、蜜柑を食べることにした。民家に生えている木の蜜柑だから、美味しいかどうかは判らないが、とりあえずさっぱりした水分は摂れると思った。

 私は蜜柑のへそに親指を突き立てて、肉厚な皮を剥いた。皮からも良い香りがして、手に香りが移った。皮を剥く度に香りは空気に散布した。食欲をそそる香りに急かされて、私は皮を剥くとすぐに房をとり、硬い膜を剥いて中の瑞々しい果実にかぶりついた。見た目と香りに違わず、その果実は美味しいものだった。甘く酸味があり、瑞々しく喉の渇きを癒した。熱で浮かされたように、私は夢中で房を剥き、果実を啜った。

 その時、果実を夢中で食べるあまり、ある房の果実を種ごと飲み込んでしまった。果実を口に含んでから、小さな硬い種の感触を感じて、吐き出そうかと思ったが、まあ良いかと、飲み込んで食べ続けた。種の一つくらい、どうでも良い。

 やがて私は果実を全部食べきり、喉は潤い胃は満たされた。

 何でもないことだ。ただ種を飲み込んだだけ。それだけだ。

 私は忘れた。種を飲み込んだことを忘れた。父の忠告を忘れた。他人にとって当たり前でないことが自分にとって当たり前に起こりうることを忘れた。

 

 自分の異変を感じたのは、他人の家の蜜柑の木の実を食べたことすら忘れた頃だった。

 ある時から、偶に貧血が起き、胃が引きつるような感覚と、しこりがあるような違和感を感じるようになった。そして、それが持続するようになった。

 私はその症状に悩まされた。痛みはないが、だんだん違和感がじわじわと広がる感じがして気持ちが悪かった。一般に考えられる胃の病気を考えた。ストレスや、胃液過多、胃の痙攣。どれも症状にしっくりこなかった。異物があるような感覚に、不安感を覚えた。やがて私は医者に行った。原因が判れば対処のしようもあると思った。


 医者は私から症状を訊き、心臓の音を聞き、触診し、首を捻った。何か胃の中にできものができているのかも知れない、それか胃に何か異物があるのかも知れない、と医者は言って、私はレントゲンを撮ることになった。

 レントゲンを撮って、私が診察室で待っていると、医者がレントゲン写真を持ってやって来た。冷静な行動だったが、表情は呆然としていた。何を驚いているのだろうと思っていると、医者は何も言わずにレントゲン写真を分析する電光板に貼り付け、視線を写真に釘付けのまま椅子に座り込んだ。

 私は自分の胃の写真を見た。胃の壁に、明らかに不自然な、張り巡らされた細い血管のような白い影が映っていた。それは一箇所に集まっていて、そこから少し曲がった細い棒が胃の中に伸びていた。その先にはちょこんと可愛らしい双葉の影が確認できる。

 瞬時に、父の忠告から、暑い日と、垣根越しの木の蜜柑が両手に収まったこと、蝉のうるささ、喉の渇き、散布する柑橘類の芳香、果実の瑞々しさ、夢中で啜った爽やかな味、そして小さく丸い硬い感触が喉を通るのを、走馬灯のように思い出した。

 父の忠告と、蜜柑の出来事が繋がった。

 そして納得した。お化け蜜柑の木というのは、これのことだったのだ。飲み込んだ蜜柑の種が、私の胃の中に根付いて成長しているのだ。


 医者は狼狽しつつ、医学的に考えられない、いや植物のほうの新種か変異で寄生型のものがあるのか、というようなことをぶつぶつ途切れがちに言っていた。私はそれをほとんど聞き流して、ぼんやりとレントゲン写真を眺めて考えごとをした。これがお化け蜜柑の木の芽か、あれがお化け蜜柑の実だったのか、そういえばあの家あんなに静かだった、あの蜜柑の木はもともと何だったのだろう、私のような人物だったのだろうか、それとも普通の人だったのだろうか、それか、もとからお化け蜜柑の木だったのだろうか、と少しずつ思い返しては考えごとを浮かべた。そして、父が言っていた大変なこととは、これのことだったのか、と思った。なるほど、大変である。これがこれから育って行ったら、私はどうなるか判らない、思った。

 医者は原因解明と、大学病院に行くことを薦めたが、私は生返事をしただけにした。貧血と胃の張った違和感の原因は判ったのだ。それだけでことは足りる。

 こうなった以上、成り行きに任せるしかないことを私は知っていた。原因解明は無意味である。ありえないことが起きているのだから。どんなにあがいても、胃の中から蜜柑の木の芽が生えている事態を説明できる者はいないだろうし、原因を解明できる者もいないだろうし、回避することはできない。そもそも、ずっと同じ場所で、私の胃の中を調べることができるのか不明である。

 私は医者の大学病院もしくは研究機関へ紹介状を書くという申し出を断った。木が成長して大きくなる過程で、身体に負担がかかって胃が痛むかも知れないので、その痛み止めの処方だけ貰って、私は帰った。

 帰り道、私がお化け蜜柑の実を拾った家はなかった。そういうものだったのだろう。


  *


 私の胃の中の蜜柑の木は、すくすくと成長した。枝は伸び食道に通り、喉へ達した。枝が喉を裏からくすぐり、口の中に伸びるまで苦しかった。木が成長していく過程で、段々私はものを食べるのが困難になっていった。食べ物を飲み込むと、食道を通る枝に引っかかって詰まるのだ。私はある程度液体化したもののみを摂取するようになった。飴や、砂糖や、スープや、飲み物。木から栄養と水分をとられ、私は痩せた。よく貧血になった。肌が荒れた。

 人からは顔色が悪い、痩せた、やつれたとよく言われた。事情を話すと、大概は笑った。何を言っているの、そんなことあるわけないじゃないか、と。いつもと同じ反応なので私はそれ以上何も言わず、黙った。私はただ訊かれたことに素直に答えただけなのだ。

 それに、どのように出会って関わった人間でも、二度と巡り合わない場合が多いので、真実を突き通して信じてもらう必要もなかった。私を理解してもらう必要もなかった。蜜柑の枝と葉が口からはみ出るようになってから、訊ねてきて信じる人は増えたが、それもあまり私には意味も、関係もなかった。

 定まらない変容の世界。何ものも生まない。私に規則性は存在しない。もしくは規則性は存在しているが、それは他人とはずれていて重なり合わない。それが私の世界なのだ。誰も私の世界とは重なり合わない。


 私の誰とも重なり合わない世界で、お化け蜜柑の木は、大地と同様に私の身体に根を下ろし、私から栄養を摂り、侵食していった。

 私は衰弱した。お化け蜜柑の木は、私から栄養を取れるように、私を生かしていた。しかし、やがて私を飲み込むのだろうと容易に想像がついた。段々私は衰弱しているんだし、寄生とはそういうものだ。

 私は自分と同じ時を過ごし、生きている存在に奇妙な心地がした。

 コレは私を侵食し破滅させる存在だ。

 しかし、悪くない気分だ。

 寄生されている。しかし、私は生まれて初めて何かと共にいる。


   *


 やがて私の胃の中から生える蜜柑の木は、その根をもっと伸ばして私の胃を突き破って腸を網羅し、子宮を取り込み、肉を突き破り、骨に絡み付き、大腿骨をすり抜け、腿に伸びて脚の中を巡らせて、足の裏を突き破って大地に至るだろう。食道の枝は広がり、食道に収まらなくなり、粘膜を刺して突き破り、上へ伸びて枝は頭蓋骨や脳に触れ、両横は肋骨を縫って肺を突き貫けて肩に腕に至り、やがて肌を突き破って外気に触れるのだろう。

 木は今度は大地に根を張り養分を吸い、幹を太くして、枝葉は広がり太くなり更に天を目指し、やがて丸くて大きい、黄色い良い香りのする蜜柑をつける、立派な木になるのだろう。

 その時、私は自分がどうなっているか解からない。立派な木に飲み込まれた時、木は私の意識も飲み込むのか、それとも私の意識は私として木の中に存在するのか。どちらでも良いと思う。その時私は何も言えなくなっているだろうし、誰もその木がもともと人間に寄生して育ったものだと、想像もしないだろうから。

 近い内に、歩けなくなるのは確かだ。脚に根が張って、固定されて動かなくなるだろう。足中に根が張り、足の裏を突き破り、大地に根を張る。動けず、私は栄養も摂れなくなって、更に衰弱するだろう。蜜柑の木は、私から何もかもを搾り取って、飲み込んでいく。


 もともと、当たり前でないことが当たり前である私だから、一般的だと考えられる最期は迎えないだろうと、ぼんやり未来を悟っていた。しかし、最終的にこのような迎え方をするとは、自分としては意外である。

 最期、蜜柑の木に取り込まれて私は終わるであろう。最期、私は何かと共に存在することになるだろう。

 父よ、貴方は私の薄ぼんやりとした記憶に過ぎない。父よ、貴方は私を案じて忠告してくれたのだろう。しかし、今共にいるのは貴方ではなく、お化け蜜柑の木だ。

 誰とも共存することがないと思っていた貴方の娘の、最期を看取るのは、貴方が案じたお化け蜜柑の木だ。


 私は蜜柑の木になる。硬めの鮮やかな緑色の葉と、良い香りのする柔らかい白い花と、食欲をそそる芳香の、黄色い丸い大きな蜜柑が生る、蜜柑の木。

 いつかの静かな家の、垣根の中にあった蜜柑の木のように、誰かの手にその実を落とすのだろうか。


 私は蜜柑の木が私を飲み込むのを、ゆっくり待とうと思う。自然に任せる。ゆっくり静かに、なるべく痛くないように、私の意識がお化け蜜柑の木に融ければ良いと思う。

 そうすれば近い未来に、私は不幸でなかったと、いえるだろうから。

2009.1 某サークル発行 部誌に掲載

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