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大鯰

 その日はぱらつく雨であった。

 傘を差す意味を疑うような、差さなければしっとり濡れるような塩梅、湿度が高くひんやりした空気である。私は暗い気持ちで地下鉄構内を歩いた。地上に出れば、スーツに粉のような雨が降り掛かってしっとり濡れ、書類鞄は水滴を光らせるだろう。会社に着いたときの雨を拭う手間を考えると嫌なもので、私は雨の日の朝を疎む。

 ああ、嫌な朝だ―――九段下の駅の階段を地上に向かって上がる。四角い出口の灰白い空に向かって、黒い傘を広げた。靖国通り沿いを歩き、傘とスーツの群れに紛れ、郵便局の前を通り過ぎる。やがて俎橋(まないたばし)に差し掛かる。いつもの癖で、欄干に寄り、川を覗き込む。深そうな緑色は不気味に重たく溜まっており、コンクリートの川底は見えない。雨の日は特に、川は増水して水域が上がる。私は立ち止まって暫く見ている。高架からはみ出している部分は雨が吹き込んで止めどなく波紋を作る。高架下に守られた日本橋川の大部分は、雨の波紋を作らず、のっぺりした表情をして不動である。

 雨の日の通勤時、俎橋から日本橋川を覗き込む。この習慣は入社したての頃からできたものである。

 その日、俎橋に差し掛かると、視界の端に私は何かを捉えた。私は傘を片手に欄干に近寄り、川を覗き込んだ。深そうに濁った川に、何かが蠢いて、大きく川面がうねった。微動だにしないと思っていた川面に―――巨大な尾鰭が、ゆっくりと水を掻き、大きな影が暗い緑色の中に深く潜っていった。私は驚愕して食い入るように日本橋川を見つめた。周りの音が気にならないくらい、じっと集中して見つめた。有り得ないものを実際に見たときの、その驚き。あのくらいの大きさの尾鰭ならば、川幅の三分の二は占拠するくらいの大魚だったのではないか。川面にまた尾鰭の姿が見えはしないかと目を凝らしたが、その後巨大な魚の影はちらとも現れなかった。

 以来、私は魚の姿を再び見ようと、通勤時に橋から川を覗き込む。休日に 一日中、あの尾鰭を見つけようと見張っていたこともある。しかし、あれ以来、魚の気配すら感じることはない。私は自分が見たものを疑ったし、時が経つにつれ、何かを見間違えたものだと思うようになったが、未だに傘を差す日には、思い出して日本橋川を覗き込む。確かにこの目で見た、心の底では間違えなどないと、確信しているからだ。

 深そうな暗緑色の川は、様々なものを呑み込んで来たように見え、得体の知れない飲恨遍歴を見ているようである。落ち葉、手紙、花、笹舟、煙草の吸殻、魚、虫、アルミ缶、痰、排泄物、人間―――・・・。

 川面は動かない。周囲の音がすぅっと引く。雨が人を黙らせるせいか。周囲の往来も、色褪せて静まっている気がする。

 一心に、川面を見つめる。

「見ているのか。」

 傲然とした物言いに振り向くと、少女がいた。

 小柄で、薄紅と赤紫の鮮やかな牡丹の柄の、膝小僧まで見える丈の短い赤い着物を着ている。白い足、赤い鼻緒の下駄を履き、朱色の唐傘を差し、狐のような小憎らしい顔でにやにやしていた。

「ああ、見ている。」

 私は応えて、すぐに川面に目を移した。

「魚か。」

「ああ。」

 からんころんと、軽い音を立てて、少女は私の隣に来て、欄干から川を覗き込む。

 にやりと笑う。

「魅入られたのか。」

「そうかも知れない。」

()せよ。碌なことはない。川は様々なものを呑み込んで来た。これからもそうだ。戻れなくなるぞぉ。」

 にやにや笑ってこちらを見る。川面は動かない。静かに澱んでいる。私は底を見透せまいかと川面を見つめる。

「何処に戻れなくなるんだ。」

「お前が今立っている場所だ。お前の肺の中の空気が在った場所。お前が手にしている傘が必要な場所だ。」

 静かに雨は降り注いでいる。私の頬に冷んやりした水の粒子が触れる。私は微動だにしない川面を見つめる。

「君はあれが何だか知っているのか。」

 狐のような顔をした少女はにぃと笑う。

「古より住まう大鯰(おおなまず)さ。日本橋川が呑み込んだものを喰らい、あんな怪魚になりおおせた。」

「戻れなくなるというのは、鯰に喰われるということか。」

「そういうこともあるだろうし、そうでないかも知れない。」

 周囲の音は依然、遠い。少女の面白尽くといった声が冷んやりとした空気に沁み込む。


「川は様々な場所の水が混ざり、様々な場合の水が流され、様々な物が様々な事情で沈み、流れてゆく。様々な場所の様々な物が重なっているわけだ。古より住まう大鯰はその重複した様々な日本橋川を悠々泳いでいるのだ。様々なものが重複した水を飲み込み、川を泳ぐものを喰らい、沈んだ物を喰らい、流されている物を喰らう。時たま、様々な場所の中の、一つの水面に上がって来て現れたりもする。それを誰かが見たりもする。その誰かが川を覗き込んで、魅入られたりも、する。」


 私はもう川を見つめていなかった。少女の白い顔を、朱色の唐傘に翳るにやにや笑いを、怪しい光が躍る瞳を見ていた。

 少女は目を細め、悪戯そうに紅い唇の両端を吊り上げる。


「帰って来たかえ?」


 靖国通りの往来の音が再開した。

 黙然と歩くスーツの群れの、足音と衣擦れの音。車がアスファルトの雨を轢く音。ヒールに、トラックに、傘を開く音。

 濁った暗緑色の川面の、高架からはみ出た部分には雨の波紋が止めどなく作られる。

 こんなに音が溢れていたのかと、はっとする。

 からんころんと音がして、見ると、唐傘の柄を両手で持って、少女が雨の中に立って振り向いていた。赤い色は鮮やかで、少女の白い肌と空気に触れているところが、朧に見える。雨のせいだろうか。

 にやにや笑ってこっちを見ている。

「大鯰と今度、会ってみぃ。迷い込んで、戻って来れなくなるぞぉ。」

 昔話を語る婆のように言うと、少女はくるりと後ろを向いて、朱色の唐傘を回しながら、からんころんと軽快に跳ねて歩いてゆく。

 赤い色は、赤紫の躑躅(つつじ)(くさむら)に跳び込むと、見えなくなった。


 暫くその辺を眺めていたが、やがて職場に向かおうと踵を返す。スーツの端々がしっとりと濡れている。書類鞄は水滴を光らせる。会社に着いたときの手間を思うと煩わしい。しかし、雨の中、黙々とゆくスーツの群れに紛れる。


 俎橋を渡る。視界の隅で、日本橋川を波打つ、巨大なものの気配がする。

 しかし、青信号が点滅しているのを見て、私は横断歩道へと走る。

2009.9.23制作 サークル発行、個人誌『大鯰×そりゃねぇだろ』収録

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