「A」山本健二の場合
「なんか緊張してきたな……」
僕は呟いた。
この放送局のスタジオに入った時、案外広いなと思ったが、こうして人が密集した観客席がその空間の半分を占めている今見ると、狭いと思わずにはいられない。もうじき僕らの番であり、あの群衆の前に立って注視されねばならないと思うと心臓が不必要なまでに活動を活発化させる。
ステージの袖からは観客席が半分ほど見える。それ以上顔を出すとカメラに映ってしまうので諦めて引込み、汗を拭った。高校入学した直後、クラスでの自己紹介で痛感したが、僕は人前で話すのが大、いや、超、いや、弩のつくほど苦手だ。今さらながら後悔しつつ、スタジオから聞こえる声に耳を傾ける。
「凄い秘密が飛び出しました! なんと彼女のケイ子さんは昔、彼氏であるモトユキさんの弟さんとつきあっていたそうです!」
司会のアナウンサー――坂野美智子さんという人気急上昇中の二年目だ――が、元気よく叫んだ。
「これはショックですねぇ、柴野さん」
そう振られた初老の男性は、同じく司会のアナウンサー柴野文義。人気急下落中の二十七年目だ。
「そうですね、兄弟は兄弟でもそういう兄弟でもあったわけ……」
「詳しい話を伺ってもよろしいですかケイ子さん」
柴野さんのコメントが坂野さんによって遮られた。よく意味がわからないが何か言わなくていいことを言いかけたのだろう。そういうことが多い人だと聞いた。
「ええ、モトくんと出会う三年前に、もちろんそうとは知らずにですけど、モトくんの弟と会っていて……。ほ、ほんの二ヶ月くらいなんです。つきあってたのは」
ケイ子さんと呼ばれた女性らしき人の声が答えた。
今僕がステージ裏で控えているこのスタジオで収録されているのは「それでも彼女を愛せますか?」という番組だ。ゴールデン枠を勝ち獲り続けている人気バラエティで、番組内容はいたってシンプル。一般人から募集したカップルがステージに登場し、その彼氏または彼女が、相手の知らない自分の秘密を告白する。たとえば、浮気をしてました、とか、実は整形してました、等々なかなか過激な秘密が飛び出す。
秘密を聞かされたほうは、坂野さんにこう聞かれる。
「それでは伺いましょう。モトユキさん。……それでも彼女を愛せますか?」
この質問に答えなくてはならない。
しばしの沈黙。彼氏のモトユキという人が黙り込んでいるようだ。スタジオ中が静かに答えを待っている。
「あ…………あ、愛します」
「モトくん!」
低い男の声と、高い女の声がした。モトユキさんの答えは、「愛します」、つまりチャレンジは「成功」だ。
「お見事です!」
坂野さんが喝采をあげる。
「ケイ子。その……つきあってた、だけなんだろ? 別にその……」
「ないない! エッチとかしてないよ。何にもない」
「だったら……まあ、いいよ別に。黙ってたのはショックだったけど」
「ごめんね。ごめんねモトくん……。大好き」
ステージのほうから、秘密を乗り越えたカップルの困惑と後悔と感謝とが入り交じった空気が漂ってくるようで、思わず僕は胸が熱くなってしまった。
この番組の人気の秘密は、告白される秘密が時に非常に過激であるにも関わらず、ガチである、という点である。番組スタッフにはともかく、カップル間で事前に秘密が知らされていることは本当にないらしい。あまりの秘密にカップルが洒落にならないくらい大喧嘩をしてしまい、放送されずお蔵入りとなったケースも何度かあったとか。刃傷沙汰になったことがあるという噂さえある。
そんな番組になぜ好んで出演するカップルが多いのかというと……。
「さあ、賞金が出ました! ……おお、お見事! 十六万円です」
チャレンジに成功すると、その秘密の大きさを会場の観客が審査し、評価額が賞金として支払われるのだ。といっても他局のクイズ番組のように何百万円という大きな額になるわけではなく、金そのものが目当てではない。評価額はそのまま「カップルが乗り越えた試練の大きさ」として皆に認められたことを意味するとも言え、二人の絆を確かめることによって、よりラブラブになりたいカップルたちがこぞって応募してくる。
「それじゃあ、僕からも秘密を告白したいと思います!」
ステージからモトユキさんの声が聞こえた。
番組開始当初は、タイトルどおり彼女側だけが告白するシステムだった。だがいつしか男性の不満の声が大きくなり、今では男が秘密を告白してもいいことになっている。
秘密を告白する側はある意味楽な立場なのだ。公衆の面前で告白することによって、たとえ浮気などの非があったとしても罪は減免され「勇気を出して告白したのだから偉い」と思ってもらえる。告白される側はたまったものではない。愛せないと答えてチャレンジ失敗となると、悪者扱いされがちだ。
「なるほど……仕返しというわけですね? では、どうぞ、モトユキさん」
茶目っ気を出して笑いをとる坂野アナ。
「えーっ。ちょっと、聞いてなーい。やだ、モトくん、何よ?」
大げさに驚いているが、ケイ子さんも何らかの秘密の告白があるだろうことは想像していた筈だ。もっとも……男性の秘密は、女性のそれに比べて大した秘密じゃないことが多い。視聴者や観客に女性が多いため女性を敵に回しにくいという昨今のテレビ番組を取り巻く事情からか、ちょっとした秘密でも男性だと許されないことが多いからだ……と僕は見ている。浮気してましたなんて告白した日には会場はブーイングの嵐である。
「実は俺、二週間前から無職なんだ」
モトユキさん……の告白が、なされた。
「え?」
「……本当だ」
「嘘でしょ?」
ケイ子さんの問い詰める声とともに、……しだいに会場がざわめきに包まれた。
「本当なんだ。ごめん、言い出せなくて」
「だって……え? 意味わかんない。仕事やめたの? これからどうすんのよ?」
さっきまでぶりっ子していたケイ子さんに、余裕が失われたように感じる。……高校生の僕には実感がわかないが、無職ってそんなに大変なことなんだろうか。
「実は俺、やりたいことがあるんだ。映画を撮ろうと思っててさ」
「……は? ちょっと何、意味わかんない。だって、どうすんの? 結婚は? 親に言っちゃったよ。会社員なのって」
「結婚は……しばらくは無理かもしれないけど……」
なにやら、ステージでの会話に深刻さが増してきたのがわかる。坂野アナが慌てて止めに入った。
「ちょ、ちょっといいですか? 込み入ったお話もおありだと思います! ですがまず、ここは彼女さんにお聞きしなければなりません」
「…………だ、だって」
「ケイ子。これが僕の秘密なんだ」
モトユキさんの声がはっきりと聞こえた。僕の位置からは姿が見えないがその決然とした態度が伝わる。
「……では、ケイ子さんにお聞きします。それでも彼を……愛せますか?」
問いはなされた。たっぷり五秒、いや十秒近い時間が経過する。
「ごめん」
ケイ子さんは答えた。
チャレンジは失敗だった。会場がため息をついたのがわかった。
「ごめん……無理だよモトくん」
「……ダメなのかよ! ケイ子」
沈んだ女の声と男の声。スタジオが重い空気に包まれているのがわかる。
僕は、このカップルの一つ前のカップルの時のことを思い出した。そのカップルでも彼氏が秘密を告白した。浮気の告白だった。彼女はそれを許さなかったし、会場もブーイングに包まれた。その時とは違って、今回は男のほうに同情的な感じがする。モトユキさんが彼女の秘密を受け止めた直後だというのも余計にあるだろうけど。
「残念ながら、チャレンジ失敗です。……エントリーナンバー94、モトユキさんとケイ子さんでした」
坂野アナが締めた。二人にコメントを求めないのは、そんなことができる空気ではないからだ。流石に空気が読める女、坂野さんだ。
「大丈夫ですよ、彼はきっとすぐに再就職できます」
柴野アナが全く意味のわからないことを言った。そういう問題じゃないことくらい誰だって、僕だってわかる。彼の発言をスタジオ中が全力で無視したのがわかる。
「チャレンジ失敗……か」
僕は呟いた。僕のいる舞台袖の通路をモトユキさん……が通って出て行った。泣いていたりはしない。平静でいるように見えた。彼は……ケイ子さんが受け入れると思ってあの秘密を告白したわけじゃないんだろうか。あるいは、大人は恋人と別れたくらいでいちいち取り乱したりはしないということなのかもしれない。
「健二君、準備はいいかい」
スタッフの人だ。僕は頷く。それを受けてスタッフはステージ上の坂野アナに、合図を出した。
「それでは続きまして次のチャレンジャーです! エントリーナンバー95のカップルさん、どうぞーっ!」
拍手に包まれて僕はステージへ入場した。視界が一気に明るくなる。
「!!」
一瞬、眩しさに目が眩んだ。
さっきまで自分がいたステージ裏とはまるで異なる場所であるという強烈な不安を感じる。切り離された別世界に来たような。テレビのチャンネルを変えた時のような、唐突にそこに放り出された感覚。落ち着かなかった。
ああ、緊張しすぎだな、僕は。
予めスタッフの人に指示されていたとおりに、ステージ真ん中へと移動する。
四人が並ぶ格好になる。両端に坂野アナと柴野アナ。柴野アナの隣に僕が立つ。そして逆側には……。
「やっほー、健二」
手を小さく手元で振って小声で話しかけてきた。彼女の名前は春日絵美。僕と同じく高校一年生。ステージの、僕が入ってきた入り口とは逆サイドの入り口から彼女は入ってきた。この番組は今では、ステージへの入場は二人別々にするシステムだった。
「おぅ」
「何? 緊張してるの?」
……している。早くも汗が吹き出している。
「さあ……今度はまた可愛らしいカップルですねぇ。学生さんですか?」
「高校生ですー」
絵美はあまり緊張していないようだった。坂野アナの質問に軽く答えている。
観客席からおーっという声が上がった。僕は動揺したが、何のことはない、単に僕らが若いことに歓声が上がっただけのようだった。
「高校生ですか! これは初々しい……。彼女さん、お名前は?」
「春日絵美です! 頑張ります!」
坂野アナが今度はこちらを見た。
「……山本けっ、健二です」
慌てて喋ったら噛んでしまった。
「お二人は付き合ってどのくらいになりますか?」
「えっと……中学二年からだから、二年とちょっとです!」
絵美の答えに、またも観客席が湧いた。
「中学生からですか。いいですねぇ、青春を共有できて羨ましい。私どもの時代には不純異性交遊なんて言われたもんですが……」
柴野アナのコメントに僕は苦笑した。
「さて、それではさっそく参りましょう! 本日はまず絵美さんからの秘密の告白ですね?」
「はい!」
絵美が元気よく手を挙げた。僕は絵美を見た。そういえば絵美がどんな秘密を告白するつもりなのか、このステージに上がる緊張感で頭がいっぱいだった僕は全然想像してもいなかった。
「えっと……それじゃあ話すね健二?」
僕は頷く。絵美の声は胸元のピンマイクで拾われているのでスタジオ中に響いている。ピンマイクは僕もつけてるし司会者の二人もつけてる。あれ? てことは坂野アナの持っているマイクは飾りなのか……。緊張のあまりそんな関係ないことを考え始めた脳みそに、しっかりしろと叱咤する。絵美の秘密……。一体なんだろう。
「一年前くらいに、交換日記してたじゃん」
……ピンときた。ああ、それか。なあんだ。僕はたぶんその秘密を知っている。でも素知らぬ顔をして会話を続けた。
「……交換日記? ああ、してたね。二ヶ月くらいやってたっけ」
なんというか、もう若気の至りでしかないが、中学三年生のある時期、僕らは交換日記というものをやっていた。絵美がある日突然やろうと言い出した時は、一体この人は何を言ってらっしゃるのだろうと思ったが、押し切られる形で始めた。絵美は言い出すときかない子である。
「たしか絵美がノートを無くしちゃって、それでおしまいになったんだよな」
「……うん、実はあれね……。私、始めの一週間くらいで飽きちゃって、実はずっと……私が書いてたわけじゃなかったの」
そう。実は僕はそうなのだろうと思っていた。最初の三回くらいの往復はたしかに、絵美の字だったし内容も昼間僕と話したことだった。だが、途中から明らかに様子が違った。字も変わっていたし、さすがに僕も書いているのが絵美じゃないとわかるくらいに内容が変わっていた。
話題は他愛ないもので、ドラマを見た感想とかが多いのは絵美も一緒だ。けどなにせ、例えばそう「イケメンで金持ちの男が、地味な30代のOLと恋に落ちるなんて、視聴者層に媚を売りすぎよね」とか「あの俳優なんか昔ヤンキーだったことで有名なのに、真面目なだけが取り柄のキャラを演じようなんて明らかにミスキャスト」とか、昼間の子供っぽい発言とのギャップがありすぎて、ああ絵美のやつ飽きて代役頼んだな、とすぐにわかった。
気づいてないフリをするのも何だなと思ったので僕は日記にはっきりと「ていうかお姉さんですよね?」と書いた。すると「バレました?」と返ってきた。しかし昼間の絵美はまったく日記の話に触れないので、なぜか僕は二ヶ月もの間、絵美のお姉さんと交換日記をし続けていた。お姉さんは絵美のフリはやめて自分のことを書いていた。当時彼氏との中が危うくなっていたらしくその愚痴を書いていたり、かと思えばバイト先の先輩が気になり始めてるとか、昔の同級生に久々に会ったら告白されたとか。ナンパもよくされたらしい。正直、僕にそんな話されても……って感じだったが。お姉さん、絵美に似て何でもあけすけに誰にでも話しちゃうタイプだからなぁ……。
僕の方から言わなかったので、絵美は僕が知らないと思っていたらしい。
「実はあれ、私のお母さんが書いてたの」
そうそう、お姉……。
「…………え?」
…………なにぃ……? 今、なんて言った? お、おかあさん……?
僕は口を開いたものの、言葉がすぐには出てこなかった。慌てて記憶を遡る。
「自分からやろうって言い出した手前、言えなくて……。お母さんに頼んだの。私が書いたのは最初の二、三回だけ」
語る絵美。スタジオが徐々に笑いに包まれていくのがわかるが、僕はそれどころじゃあない。
「そ、そうなんだ……。き……気付かなかった」
間違いない、お母さん、と言った。お姉さん、じゃなくて。
お母さんが書いてたとなると……話が変わってくる。ナンパされてオールで遊んだとか書いてなかったか? いや、たしかに実年齢を聞くとビックリするくらい若く見える人だし美人だし、ナンパされてもおかしくない。おかしくはないがホイホイついて行っちゃダメなんじゃないのか人妻として。徹夜でカラオケしたとか……なんて元気な人なんだ。
「健二、よく気付かなかったね? 私読んでないけど、お母さん何書いてた? 野菜の値段が上がったとか、お父さんの帰りが遅いとか、近所で車を買った家があるとかそんな話だったんでしょ?」
絵美の質問になんと答えればいいのかわからなかった。てっきりお姉さんの書いたものだと思いこんでいた。いや、どう考えてもお姉さんの書いたものでなくてはおかしい。だってあれだぞ、大学の学祭でミスコンテストに出たとか……。過激なミニスカート衣装で有名な喫茶店でウェイトレスをやったとか……。お、お母さん……だったっていうのか?
そして血の気が引くのを感じた。
待てよ待てよ。ちょっと待て、あの話……。今の相手との仲がうまくいかなくなってて、別れようかと思ってるって……! ま、まさか……。え? そ、そういうこと?
でも絵美の両親にその後会った時、その話を連想させるような様子は全くなかった。じゃ、じゃあきっとあの話は一時の気の迷いみたいなもので……!
「ぼ、ぼ、僕も内容はちょっと……わ、忘れちゃったかなぁ……あははは」
だらだらと汗を流しながら僕はそう言った。そう、忘れなくてはいけない。封印だ……封印しなければ。ノートが無くなってしまってるのだから……僕の心の中だけにしまっておかなくては。墓の中まで持っていくんだ。
「なんとも可愛らしい秘密ですね~。絵美さんは交換日記で三日坊主をやってしまい、お母さんに代筆を頼んでいたそうですよ」
「微笑ましいですね」
坂野アナと柴野アナが言った。会場がクスクス笑いに包まれている。絵美の秘密は微笑ましいかもしれんが、お母さんの秘密がとんでもない。僕はひとりで青くなっていた。
「ご、ごめんね! 健二」
絵美が手をあわせて謝った。
「さあ、それでは健二さんにお聞きしましょう! それでも彼女を愛せますか?」
「あ、愛せます」
僕は早口で言った。とにかくこの話はさっさと終わらせるんだ。そして忘れるんだ。
「素晴らしい! 健二さん、見事絵美さんの秘密を受け入れました!」
「ありがとう健二! 健二なら許してくれると思ってた!」
絵美がぴょんぴょんと跳ねて喜んだ。僕は笑顔を作った。うまく笑えてるんだろうか……。
「どうですか、ゲストのミューミューさん」
柴野アナが唐突にゲスト席にいるミューミューという歌手だかアイドルだかの人にコメントを求めた。
「え、えぇ、えーっと、なんかぁ、初々しくってぇ、高校生のカップルっていいですね! 私も十年前はあんなだったかなぁ、なんて」
慌てた様子でなんとか答えるミューミューさん。
「十年前? おかしいなミューミューさん、プロフィールのご年齢からすると……」
「わかります! 私なんか中学高校と女子高だったからこういう経験無くって、凄く羨ましいです!」
何か大変な失言をしかけた柴野アナを、慌てて遮る坂野さん。
「えへへ……」
絵美が照れている。僕は……ちょっと上の空だった。大変な秘密を知ってしまった気苦労に押し潰されそうだった。
「さあ、得点が出ました!」
坂野さんが声を張り上げた。
「はい、七千円です!」
「わぁい!」
「おぉ? 大喜びですね、絵美さん」
「七千円で満足とは、欲がないですね、絵美ちゃんは」
「でも私のお小遣い二ヶ月分より多いんですよ!」
絵美は喜んでいた。七千円……まあ、僕も、そんなもんだろうと思った。表面的には大した秘密じゃない。その裏にひそんでいるとんでもない秘密が明らかになれば、もっと賞金は釣り上がるだろうが、まあ、ごめんだった。とにかく……忘れるんだ。
「さあ、それではお次は……健二さん、ですね?」
「あ、はい」
僕は頷いた。そう、そうだ、今度は僕の番だ。
「えっとじゃあ、僕の秘密を言います。大した秘密でもないですけど」
「うわぁ、なんだろなんだろ。ドキドキする」
絵美が両手を握って振り回している。僕は絵美を見つめた。
そう、実は僕の秘密は本当に、全然大したものではなかった。
「ほら、去年のクリスマス。覚えてる? 僕があげたプレゼント」
そう言うと、絵美は顔が一瞬で真っ赤になった。……そこまで恥ずかしがらなくてもいいだろう。
去年のクリスマスに、僕は絵美に、ぬいぐるみをあげたのだ。熊のぬいぐるみだ。
「実はあれ、人から貰ったものだったんだ」
そう、実はあのぬいぐるみは、自分のお金で買ったものじゃなくて、貰い物だった。
……いや、たしかにちょっと、大したことなさすぎる秘密かもしれない。秘密っていうか、言い忘れてたに近いしな。別にわざわざ言うようなことでもないんだけど、まあなんというか、他にこの場で言うような秘密を思いつかなかったのだ。
だがしかし、絵美の様子が変だ。絵美は、固まっている。顔が赤いままで、しかしだんだんと表情が険しくなっているというか……うん、明らかに怒っているな。
「どういう意味? え、誰?」
そう言われた。責めるような調子で。誰? 誰って……? ああ、誰に貰ったのか、か。
「誰からかと言うと……イトコのお姉さんからだよ」
二歳年上のイトコの女性がいる。頭はいいのだがずけずけ物を言うところがあって、僕はちょっとだけ苦手だが多少は尊敬もしている。絵美は会ったことはないがその存在は知っている。
「も、貰ったって……え、あれを、イトコのお姉さんと?」
絵美が目を白黒させているのが腑に落ちない。何を慌ててるんだ?
「……と? じゃなくて、に、だろ」
とりあえず、助詞の訂正をしておく。絵美は何にショックを受けているんだろう。
「嘘……」
絵美が呻いた。絶句? え、ちょっと待って。貰い物をプレゼントするのってそんなに? いや、良いことじゃないのはわかってる。でも何も言えなくなるほどひどいことか? ぬいぐるみだぞ? 指輪とかだったらそれは酷いとは思うが。
……あ、え、嘘だろ?
絵美が泣いていた。信じられない。
「お、おいおいおいちょっと、え、マジで泣いてるのか絵美」
僕は慌てる。まさかそこまで絵美がショックを受けるとは思わなかった。
「いつから……?」
いつから? いつ貰ったものかってことか? イトコのお姉さんに貰ったのは小学生の時だ。
「いつからっていうか、いやあの、僕が小学生の時の話だよ」
誰かから貰ってすぐにあげたわけじゃないんだ。だが絵美はそれを聞いて更にショックを受けたようだった。
「どうして……? じゃあなんで私とつきあったの?」
どういう意味だ。なんでって……。いや、そりゃあ僕だって絵美のことが好きだからで……。絵美、何を言ってるのかわからない。なんでそんな話になるんだよ。
「私が健二に告白したからだよね。ごめんね、断り切れなかったんだよね、ごめんね。私、強引だもんね。人の話きかないしね」
僕が答えられずにいると絵美は泣き笑いのような表情でまくしたてた。かと思うと、坂野アナに進行を促した。
「坂野さん、どうぞ、聞いてください」
ま、待て。その質問をさせる気か。何を結論を急ごうとしている? 僕は嫌な予感しかしなかったので慌てた。
「絵美ちゃん、何をプレゼントして貰ったのか教えてくれませんか?」
そう柴野さんが質問した。そりゃそうだ。僕はぬいぐるみです、と言おうとした。
「ごめんなさい、言えないです!」
でも絵美が大きな声でそう叫んだ。
「え、どうしてだよ絵美」
まったく訳がわからなかった。ぬいぐるみがプレゼントってそんなに恥ずかしいか? いや、たしかに子供っぽい気もするが、今はそれを秘密として告白しようとしてるんだから言わないとわけがわからないじゃないか。
「どうしてもよバカ健二!」
ば、バカと言われた。一体さっきから、なぜそんなに絵美が怒っているのかわからない。
「坂野さん、お願いします、聞いてください」
「……」
絵美は真剣な表情だったが、坂野さんは絵美を見つめ、その質問をしようとはしなかった。絵美が早まっているのを分かってくれているのだ。僕は心の中で感謝した。だが絵美はわかっていない。
「聞かないなら私から言います!」
しびれを切らして絵美がそう言ったので、僕は止めた。
「待てよ絵美!」
僕は息を吸った。はっきり言わなくちゃ、いけない。しかし何をだ? 僕は頭を整理した。あのぬいぐるみが実は買ったものじゃなくて貰い物だったことに、絵美は腹を立てている。それは、なぜだ? それは、あのプレゼントに気持ちがこもってないと思ったからだ。だから、どうして付き合ったの、という質問になった。
「ぼ、僕はあれを絵美にプレゼントしたのは……」
絵美は誤解してるんだ。僕が絵美を好きでもないのにつきあってると思ってる?
……それは、酷いな
何だよ、それ。二年つきあって、絵美は僕の何を見てたんだよ。絵美が強引だから、断りきれないでいるだけだって? 本当にそう思ったのか? バカにしてる。
絵美に惚れてるんだ。なんでそれがわからないんだよ!
「……絵美を喜ばせたかったからだ! 絵美が好きだからだよ!」
はっきりそう言った。
「たしかにその……新品じゃなかった。でも僕のあげられるものの中で、一番絵美が喜んでくれるものだと思ったんだ。絵美に受け取って欲しかったんだ」
中学三年生。家の教育方針で小遣いというものを貰っていない僕は、自分の持っているものの中で一番絵美が喜びそうなものを探したんだ。それがあの熊のぬいぐるみだった。
「じゃあお姉さんの気持ちはどうでもいいわけ?」
そう、絵美に返された。
「お、お姉さんの気持ち?」
僕はハッとした。
ああ、そうか。そうだ。あのぬいぐるみは貰い物。つまり、くれた人の気持ちがこもっている筈。それを、彼女は気にしていたんだ。僕は自分の浅はかさを呪うと同時に、絵美を抱きしめたくなる衝動にかられた。
「……たしかに言うとおりだ。あれをくれたお姉さんの気持ちを僕は蔑ろにした」
ぬいぐるみは、実を言えばイトコのお姉さんが、「いらないから」と言ってくれたものだった。でもそんなこと絵美は知らない。
「でもお姉さんがあれを僕にくれた気持ち以上に、僕は絵美を大事に思ってる」
僕はそう言った。
「私を選ぶの……」
そういう風にも言えるな、と僕は思った。
「まあ、お姉さんはもう忘れてるよ。いや、でも、そういうことだ。僕にとってはその……絵美が喜んでくれることが何より嬉しいし、お姉さんだってそれを喜んでくれる」
そう、あのぬいぐるみは、絵美のところに来て初めて喜んでもらえたのだ。僕は、絵美にピッタリだと思っている。
「でも、悔しい」
絵美が、ポツリとそう言った。
ああ、またしても僕は絵美の気持ちを勝手にわかった気になってしまうところだった。そりゃあ絵美をいい子扱いして済ませれば簡単だろうさ。でも、「お下がり」であることに悔しさを覚える絵美の気持ちを忘れていいのか。ああ全然ダメだ。女心がわかってない。
それに。僕はもう一つとんでもない勘違いを自分がやったことを思い出した。
何が、「大した秘密じゃないですけど」だ。バカか。それを決めるのは僕じゃない。初めて聞かされる彼女のほうだ。僕にとって大したことじゃないのは当たり前だ。
僕は、絵美との距離をつめた。少し腰を落として絵美の顔を覗き込むようにして目線を合わせる。
「……ごめん。絵美の気持ちをわかってなかった。大した秘密じゃないなんて、僕の勝手だった。絵美にとっては、大きな秘密だよな。隠しててごめん」
絵美の頭をなでる。
「うん。ひどいと思った」
絵美が泣きじゃくりながら、僕の胸に顔を押し付けた。
「……では、お聞きします」
坂野アナだ。絵美は顔をあげた。涙を拭う。
「はい」
「それでも彼を……愛せますか?」
深呼吸をして、僕を振り返り、一瞬じっと見つめてから坂野アナを向き直って。そうして、絵美は頷いた。
はっきりとした声がスタジオに響いた。
「はい、愛します」