婚約破棄の夜、平民少尉は侯爵令嬢の誇りを守る~大照浪漫譚~
時は大照十一年、大照浪漫、花盛りの頃。
皇都の紅楓館では、今宵も舞踏会が開かれていた。維新このかた、外つ国の賓客をもてなす社交の場として建てられた洋館である。いまでは華族や政財界の名士が集い、洋装と和装が入り交じる、皇都でいちばん華やかな場所になっていた。
高い天井から吊られたシャンデリアには電灯がともり、磨き上げた床に光の粒を落としている。楽団はワルツを奏で、燕尾服の紳士と色とりどりのドレスの淑女が、ゆったりと輪を描いていた。
「千景、そう硬くなるな。顔が怖いぞ」
兄の義正が、腕を貸しながら小声で笑った。
「硬くなってなどおりませんわ、お兄様」
高遠千景は、淡い藤色のドレスの裾を軽くさばいて答えた。髪は流行の耳隠しに結い、胸元には母から譲られた真珠を飾っている。今夜のために仕立てた一着だった。
本来なら、千景をこの夜会へ伴うのは婚約者の桐生院貴之のはずだった。ところが三日前、貴之から短い手紙が届いた。「当夜は所用あり、同伴いたしかね候」――それだけである。仕方なく、兄が代わりを引き受けてくれたのだった。
「貴之殿も、所用とやらが片づけば顔を出すだろう」
「さあ、どうでしょう」
千景は扇を開いて口元を隠した。婚約が調ってから二年になる。家同士の決めた縁とはいえ、千景なりに貴之を立て、桐生院家の嫁にふさわしくあろうと努めてきた。けれども近頃、貴之の態度は目に見えて冷たくなっていた。手紙の返事は滞り、たまに会っても上の空だった。
そのとき、広間の入口がざわめいた。
千景は何気なく目をやり――扇を持つ手を止めた。
入ってきたのは、他ならぬ桐生院貴之だった。仕立てのよい燕尾服に、ポマードで撫でつけた髪。その腕には、若い娘が手を添えている。
薄桃色のドレスに、首元で大粒の金剛石がきらめいていた。小柄で、黒目がちの瞳をしている。大輪の花というより、露を含んだ鈴蘭のような娘だった。
「……三峰男爵のご令嬢だな」
義正が低く言った。
三峰百合子。三峰財閥の総帥、三峰男爵の一人娘である。三峰家は先代が一代で紡績と海運を興し、先の戦役での献金を認められて爵位を得た。いわゆる新華族だった。旧家の人々は陰で「成金男爵」と呼ぶが、その財力に頭を下げない者はいない。
貴之は百合子の手を取り、得意げに広間を横切っていく。周囲の視線が二人に集まり、それから、壁際に立つ千景へと移っていった。
ひそひそとした囁きが、さざ波のように広がる。
――あれは桐生院伯爵家の……。
――婚約者は高遠侯爵家のお嬢様でしょう?
――まあっ……、ご本人がいらしているのに。
千景の頬が、かっと熱くなった。
所用。これが、所用か。
「千景」
兄の制止より早く、千景は歩き出していた。
「貴之様」
呼び止められた貴之は、振り返って一瞬だけ目を泳がせた。だが、すぐに顎を上げる。
「これは千景さん。来ていたのか」
「来ていたのか、ではございません。所用がおありと伺っておりましたが、そのご用とは、こちらのお嬢様のお供のことでしたの?」
声が震えないよう、千景は懸命にこらえた。
「婚約者のある身で、他のご令嬢を伴って夜会に現れるなど、どういうおつもりです。わたくしだけでなく、高遠の家に対しても礼を欠くなさりようではございませんか。せめて一言、ご説明をいただきとうございます」
楽団の音色が、心なしか遠のいた気がした。踊っていた人々の足が止まり、いくつもの視線が突き刺さる。
「千景」
追いついた義正が、妹の腕にそっと触れた。
「よせ。人目がある」
「ですが、お兄様――」
「ここで声を荒らげて、得をするのは誰だ。落ち着け」
兄の言うことはもっともだった。千景は唇を噛んだ。
そのとき、貴之の腕にすがっていた百合子が、びくりと肩を震わせた。そして、さっと貴之の背中に身を隠した。
小さな肩が震えている。黒い瞳が、怯えたように千景をうかがっている。
まるで、自分が弱い者をいじめているかのようではないか。
貴之は百合子を庇うように半歩前へ出て、これ見よがしにため息をついた。
「千景さん。君には失望したよ」
「……何ですって」
「衆目の前で男を詰るなど、侯爵家の令嬢のすることかね。慎みというものがない。見たまえ、百合子さんがすっかり怯えてしまったじゃないか」
周囲の空気が、ふっと変わった。
――まあ、あんなに大きな声で。
――侯爵家のお嬢様ともあろう方が。
――男爵令嬢がお可哀想に。
さっきまで貴之に向けられていたはずの非難が、いつの間にか千景に向きを変えている。千景は愕然とした。
違う。礼を欠いたのは向こうなのに。
けれど、それを口にすればするほど、自分はいっそう「慎みのない女」になる。この場の誰もが、そういう目で見ていた。
千景は扇を握りしめた。骨が軋む音がした。
そのとき――。
「失礼いたします」
よく通る、落ち着いた声がした。
人垣が割れ、ひとりの青年が歩み出た。
濃紺の陸軍正装。金の飾緒が胸元で揺れ、腰には軍刀を佩いている。肩章から見て少尉だろう。背が高く、背筋は定規を当てたようにまっすぐだった。短く刈った髪の下の顔立ちは端正で、切れ長の目には静かな落ち着きがあった。
彼は義正の前で踵を揃え、端正に一礼した。
「小侯爵閣下」
青年軍人は、礼儀正しく義正に話し掛けた。まさしく、紳士の態度だった。
「差し出がましいことを申し上げます。こちらではご令嬢も落ち着かれませんでしょう。奥に控えの間がございます。よろしければ、そちらへお移りになってはいかがでしょうか」
義正は一瞬、虚を突かれた顔をした。だが、すぐに青年の意図を察したらしく、大きく頷いた。
「……うむ、それがいい。貴之殿も、よろしいな」
「ふん。僕は構わないがね」
貴之は肩をすくめ、百合子の手を引いた。
青年は先に立って案内し、控えの間の扉を開けた。全員が入ると、最後に自分も入って静かに扉を閉めた。
広間のざわめきと音楽が、扉一枚で嘘のように遠ざかった。
千景はそっと息を吐いた。あのまま衆目にさらされていたら、泣き出していたかもしれない。見知らぬ青年のさりげない気遣いに、胸の奥が少しだけ緩んだ。
控えの間は、臙脂色の絨毯を敷いた小さな洋室だった。暖炉には火が入り、ほのかな温もりが満ちている。
扉が閉まるなり、貴之は態度を一段と大きくした。人目がなくなったぶん、遠慮もなくなったらしい。
「千景さん、はっきり言っておこう」
貴之は長椅子の背に片手をつき、千景を見下ろした。
「そもそも女というものはだね、男の半歩後ろに控えているべきものなんだ。夫となる男が何をしようと、黙って従う。それが婦徳というものだろう。ところが君はどうだ。男のすることにいちいち口を挟み、あまつさえ人前で問い詰める。桐生院家の嫁として、これほどふさわしくない女はいない」
「わたくしは、ただ筋の通らぬことを――」
「それだよ、それ。女が筋だの道理だのを振りかざすものじゃない。近頃は婦人参政権だの職業婦人だのと浮ついた風潮があるようだが、僕はああいうのは大嫌いでね。君にもその気があるとは思わなかった」
貴之は背後の百合子を振り返り、目元を和らげた。
「その点、百合子さんは違う。控えめで、おとなしくて、男を立てることを知っている。女はこうでなくては」
百合子は目を伏せたまま、何も言わない。
千景は、膝の上で拳を握りしめた。
二年。この二年、自分は何のために努めてきたのだろう。
貴之は、とどめを刺すように言い放った。
「決めたよ。君との婚約は破棄させてもらう」
部屋の空気が凍りついた。
「なっ……」
声を上げたのは義正だった。
「貴之殿、それは両家の間で取り決めたこと。貴殿の一存で決められることではあるまい」
「父上には僕から話しますよ。こんな女を嫁に迎えたとあっては、桐生院の家名に傷がつく。父上もわかってくださるでしょう」
義正の顔から血の気が引いていくのが、千景にもわかった。
華族の婚約破棄は醜聞である。とりわけ、「令嬢の側に非があって破談になった」と噂されれば、千景の縁談は二度とまとまらないだろう。高遠家の体面にも傷がつく。父は激怒し、母は泣き伏すに違いない。
義正は長い沈黙のあと、苦渋に満ちた顔で頭を下げた。
「……貴之殿。今夜のことは、妹の短慮であった。兄として詫びる。どうか、婚約破棄などという話は収めてはもらえまいか。千景、お前も――」
お前も謝れ。兄の目がそう言っていた。
千景は震える唇を開きかけた。
謝るしかないのだろうか。この理不尽を、すべて自分の非として呑み込むしかないのだろうか。
そのときだった。
「恐れながら」
扉の脇に控えていた少尉が、一歩前へ出た。
「部外者の身で口を挟む無礼を、お許しください。ですが、小侯爵閣下が頭をお下げになる道理は、小官には得心いたしかねます」
貴之が眉を吊り上げた。
「何だ君は。軍人風情が、華族の話に口を出すのか」
少尉は貴之にまっすぐ向き直った。声を荒らげはしない。その静けさが、かえって部屋を支配した。
「婚約とは、家と家、人と人とが交わした約束です。その約束の相手を差し置いて、他のご令嬢を伴い公の場に現れる。これは信義にもとる行いです。信義を踏みにじられた者が、その理由を問う。それは当然のことであって、慎みの有無とは関わりがございません」
「だから、女は黙って――」
「信義と誇りに、男女の別はございません」
少尉の声は、低いがよく響いた。
「男児が約束を破られて怒るのが当然なら、婦女子が怒るのもまた当然です。男児が誇りを傷つけられて黙っていられぬなら、婦女子とて同じこと。侯爵家のご令嬢は、ご自分とご家名の誇りのために、正しく声を上げられた。小官の目には、そう映りました」
千景は息を呑んだ。
胸の奥で、何かが熱く震えた。
――正しく、声を上げた。
そう言ってくれた人は、今夜、この人が初めてだった。
貴之は顔を赤くして口をぱくぱくさせたが、言葉が出てこない。
義正は、ゆっくりと顔を上げた。しばらく少尉を見つめてから、静かに問うた。
「……貴官、名は」
少尉は踵を揃え、敬礼した。
「皇国陸軍第一師団、歩兵第三連隊附少尉、早瀬恭介であります」
「早瀬……」
義正の目が見開かれた。
「待て。早瀬恭介少尉といえば、今春、士官学校を首席で卒業し、畏れ多くも恩賜の軍刀を賜ったという英才――」
「過分なお言葉です」
早瀬は表情を変えずに答えたが、否定はしなかった。
義正は感嘆の息を漏らした。陸軍士官学校の首席卒業者。平民の出でありながら、将来は将官の座も約束されたと噂される俊英である。その名は、軍に縁の薄い華族のあいだにまで聞こえていた。
大和皇国において、陸海軍将校の社会的な地位は高い。士官学校を出た者は身分を問わず国家の干城として遇され、社交界でも一目置かれる。平民出身の将校が華族の令嬢を娶るのも、決して珍しい話ではない。まして首席卒業の恩賜組ともなれば、なおさらだった。
義正は何かを思い定めたように、背筋を伸ばした。
「早瀬少尉。ひとつ、尋ねたい」
「は」
「貴官の言うことは、もっともだと思う。私も兄として、恥ずかしながら目が覚めた。……だが、現実の話をさせてもらう。このまま妹が婚約を破棄されれば、世間は妹に非があったと見るだろう。妹の将来は閉ざされるかもしれん」
義正は、試すような目で早瀬を見た。
「その場合――貴官が、責任を取ってくれるのか」
「お兄様!」
千景は思わず叫んだ。顔から火が出そうだった。初対面の殿方に、何ということを。
だが早瀬は、少しもたじろがなかった。
ほんのわずか目を伏せ、それから千景のほうへ向き直った。真っ直ぐな、澄んだ瞳だった。
「口を挟んだ以上、その覚悟はございます」
早瀬は静かに、はっきりと言った。
「ご令嬢さえよろしければ、この早瀬恭介、責任を取らせていただきます」
部屋が、しんと静まり返った。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
千景は、胸元の真珠に手を当てた。心臓がうるさい。頬が熱い。さっき貴之に詰め寄ったときとはまるで違う熱さだった。
目の前の青年は、軽口を叩いているのではなかった。己の言葉に命を懸ける覚悟があると、その眼差しが語っていた。
――なんて、真っ直ぐな方なのだろう。
気がつけば、千景は早瀬の顔から目が離せなくなっていた。
ふと視線を感じて横を見ると、貴之の背後で、三峰百合子もまた、ぽうっと頬を染めて早瀬を見つめていた。さっきまで怯えて伏せていた瞳が、今は星でも宿したかのように潤んでいる。
あら、と千景は思った。
百合子も千景の視線に気づき、慌てて目を逸らした。けれど、その顔は耳まで真っ赤になっている。
取り残されたのは、貴之だった。
婚約者は別の男に見とれ、連れてきた娘まで同じ男に見とれている。自分を見ている者は、この部屋に一人もいない。
貴之の顔が、赤から青へ、青から再び赤へと目まぐるしく変わった。
「……け、結構なことだ!」
裏返った声が響いた。
「平民の成り上がりと、口うるさい女! 似合いの組み合わせじゃないか! 後になって泣きついてきても、知らんからな!」
貴之は百合子の手首を乱暴につかんだ。
「行くぞ、百合子さん!」
「あっ……」
百合子は引きずられながらも、扉の前で名残惜しげに振り返った。その視線はやはり早瀬に向いていた。
扉が、ばたんと閉まった。
足音が遠ざかっていく。広間の楽の音が、ほんのいっとき漏れ聞こえ、また遠のいた。
控えの間に、三人が残された。
最初に義正が吹き出した。
「……はははっ。見たか千景、あの顔。三峰の令嬢まで、少尉に見とれていたぞ」
「お兄様、笑いごとではございませんわ」
たしなめながらも、千景の口元も緩んでいた。不思議だった。婚約を破棄されたばかりだというのに、胸のつかえがすっかり取れていた。
義正は早瀬に向き直り、今度は深々と頭を下げた。
「早瀬少尉、礼を言う。私は家の体面ばかりを気にして、妹を守ることを忘れていた。兄として恥ずかしい」
「お顔をお上げください、小侯爵閣下。小官は思ったことを申し上げただけです」
「いや。桐生院との件は、父と相談して正式に片をつける。非は向こうにあると、はっきりさせるつもりだ。……それから」
義正は悪戯っぽく目を細めた。
「先ほどの言葉、皇国男児に二言はないと受け取ってよいのだな?」
早瀬は一瞬言葉に詰まり、それから、初めて表情を崩した。困ったような、照れたような笑みだった。
「誓って、二言はございません」
「そうか。ならば近いうちに、当家へ招待しよう。父にも会ってもらいたい」
義正は満足げに頷くと、わざとらしく咳払いをした。
「さて、私は広間の様子を見てくる。少し騒ぎになっているだろうからな。千景、少尉殿に失礼のないように」
「お、お兄様!」
呼び止める間もなく、兄は扉の向こうへ消えていった。
二人きりになった。
暖炉の火が、静かに揺れている。
千景は何か言わなければと思うのに、言葉が出てこなかった。さっき貴之に向かってあれほど流暢に口が回ったのが嘘のようだ。
先に口を開いたのは、早瀬のほうだった。
「……ご無礼をいたしました。見ず知らずの者が、ずいぶんと出過ぎた真似を」
「いいえ」
千景は首を振った。
「嬉しゅうございました。わたくしが正しく声を上げたと、そうおっしゃっていただけて」
早瀬は少し驚いたように千景を見て、それから穏やかに目を細めた。
「広間で、ご令嬢が一歩も退かずに問いただしておられるのを拝見しました。周りが皆、貴女を責める目で見ていたのに、貴女は目を逸らさなかった。……あれは、戦場で敵軍の前に立つのと同じ勇気です。そう思ったら、黙っていられなくなりました」
千景の頬が、また熱くなった。
慎みがない、と言われた。女のくせに、と言われた。
けれどこの人は、同じ振る舞いを「勇気」と呼んでくれた。
「早瀬様」
「はい」
「先ほどのお言葉……わたくしさえよければ、とおっしゃいましたわね」
「……はい」
千景は扇を閉じた。そして、真っ直ぐに早瀬を見上げた。
慎みなど、今夜はもう要らない。
「わたくし、まだ何も申し上げておりませんけれど……」
早瀬の喉が、小さく動いた。
「それはつまり――」
「ですから、まずは」
広間から、ワルツの調べがかすかに聞こえてくる。千景は藤色の裾を少しつまみ、淑女の礼をとった。
「一曲、踊っていただけますかしら。少尉殿」
早瀬は目を瞬かせ、それから、はにかむように笑った。
「小官でよろしければ、喜んで」
白い手袋の手が、恭しく差し出される。
千景は淑やかに、その手を取った。
大照十一年の秋。紅楓館の夜は長く、舞踏会はまだ終わらない。
連載中の『婚約破棄された伯爵令嬢が、ゲームしか取り柄のない平民の俺に「助けてください」と言ってきた――ただ足が速いだけなんですが、なぜかヒーロー扱いされています――』(https://ncode.syosetu.com/n1318mu/)もよろしくお願いします。




