山中で人とも獣ともつかぬ咆哮が聞こえた
※地名は伏せてあります。
※挿絵は生成AIです。
『古杣』という妖怪がいる。
山中で木を切る音がする。続いて木が倒れる音も聞こえるのに、木を切ったようなあとはどこにもないという現象だ。
私も、これに似たような体験をしたことがあるが、もっと恐ろしいものだった。
それは人か、獣か。
あるいはそれ以外のものだったのか。
静かな山の中はなんとも不思議な雰囲気で、昔の人が信仰の対象にした理由がわかる気がする。
◇ ◇ ◇
10年ほど前の8月。
ある日、自宅から車で30分ほどの所にある『B山』に登った。
この山は、標高600mの低山だが、山頂の近くにある『烏帽子岩』と呼ばれる大岩からの景色は、一見の価値がある。
今回は、M峠からB山の山頂へ行くことにした。
ふもとの駐車場に車を停めて、登山を始める。
真夏のことなので、たちまち汗が噴き出て足元の石畳にしたたり落ちる。
40分ほど歩いて、M峠に着いた。
ここは、かつて江戸時代に茶屋があり、その跡の広場は休憩場所になっている。
他の登山客ともよく出会う場所だ。また、ここは分岐点でもある。
めざすは西のB山である。尾根伝いにおよそ3キロ。
峠で小休止してから歩き始めた。
最初の下りの後、比較的ゆるやかな道を2kmほど進むと、B山の山頂が見えてくる。ここで、『山頂まで60分』という小さな木の標識がある。
さらに歩くと『N林道』の標識があるが、ここから北側の横道に入ってほんの数分下れば、N林道に出る。
だから、そこまで林道を車で来れば、かなりショートカットして楽に山頂へ行ける。
だが、下から歩いてきた私は汗だくだ。
タオルで頭を直射日光から守る。
もう少し歩いて『山頂まで20分』の標識を通り過ぎ、15分後に山頂へついた。スタートしてからおよそ2時間。
そして、山頂近くにある『烏帽子岩』に乗る。文字通り、烏帽子のような形である。
地元では昔から知られていたが、最近はSNSの影響でけっこう有名になっている。
ここからは、西側は連なった山々しか見えないが、それ以外の方向の景色が一望できる。南にO町の町並み、北側にはK町、そして東側にはT山と、そのむこうに太平洋が見える。
この突き出た岩の上にいると、まるで空中に浮かんでいるように錯覚する。
しばし景色を楽しんでいると、背後で何かの気配がした。
若い男がひとり現れた。
ほとんど手ぶらの軽装だった。
むろん、目的は烏帽子岩であろうから、私は岩を降りて彼に場所をゆずった。
彼はしばらくそこではしゃいでいた。
その後、彼に請われるままに、彼のスマートフォンで写真を撮ってやった。
彼は岩を降りると、熱心にスマホをいじり始めた。友人たちに写真を送っているのだろうか、電子音が鳴り続けている。
彼は若く、20歳前後に見えた。背はやや高く、肌は浅黒い。筋肉質で髪は短く刈り込み、左腕に小さなタトゥーが2点あった。H県から来たとのことだ。
「お兄さん、どのルートから来たん?」
スマホいじりを終えた彼にたずねた。
「林道からっすね。車で。で、途中の登山口から登ったっす」
彼の軽装から、それは明らかだった。林道のショートカットなしで夏場にこの山を登るには、1リットル近い水が要るからだ。
「(林道の)途中で熊みたいなのを見たっすよ。いや、熊かどうかわかんないっすけど。なんか、道に、ちいさい子熊? みたいなのが、三人、あ、三匹歩いてたっす(ほぼ発言ママ)」
「マジで? そういえば、今朝、O町で熊を見たって防災無線で言ってたらしいで?」
「そうっすね。O町に友達いるんで、聞いてるっす」
「そうなんや。じゃあこの山にも熊がおるんやね」
「そうっすね。さっきも林道を3人、歩いてたんで」
「…………」
「熊がいたらどうしたらいいっすかねえ」
「さあ……。ところで、もう3時すぎやね。僕そろそろ下りるわ。1時間以上は歩かんならんよって」
烏帽子岩を後にして、歩きはじめた。ちらっと振り向くと、彼は岩の上でぼんやりしている。
いつまでいる気かはわからないが、林道まではせいぜい30分である。のんきなものだった。
急坂をしばらく下ると、さきほどの『山頂まで20分』の標識を横目で見た。その先に、N林道への入り口が、行きとは反対の左手(北側)に見える。
そのとき、その入り口から下方10~20mのあたりの草むらでガサガサという音がした。
風ではなく、何かが動いた音だ。
2、3度、同じ音がして草が動いた。たしかに、何かがいるようだった。
小さな鳥が動いただけでもけっこう大きな音がするのだが、鳥ではないようだ。
さっきの彼のように林道から登ってくる人間かもしれないと思ったが、違う。
動物にしても鹿ではなさそうだし、イノシシだろうか? もしかして、さっきの彼が見たという、熊……?
私はドキリとした。
立ち止まって音のほうを見たが、草が見えるばかりだ。
そしてすぐに何事もなかったかのように歩き出した。
熊は、目が合うと襲ってくると聞いたことがあったからだ。下手に見つけてしまってはまずいと思ったのだった。
そのまま下り続けて『山頂60分』の標識も通り過ぎ、あと1キロほどでM峠というところまで来た。
そのとき、後方でぞっとするような声が聞こえた。
人とも獣ともつかない叫び声だ。
もし人の声だとすれば、それは絶叫というべきものだった。
獣なら咆哮といったところか。どちらかといえば、私には人の声に聞こえた。
そのときの声を正確に表現することはできないが、恐怖に駆られた人間が放ったようにも聞こえる。
私は歩みを速めて先を急いだ。
戻って確かめようなどとは思わなかった。
そして数分後、もう一度おなじ声が聞こえた。
今度は、さっきより短い叫び声だった。
私はあせってさらに歩を速めるが、ペースを上げるにも限度がある。息が切れ、心臓がパンクしそうだ。
足もとを見ると、靴の紐がほどけているので、しゃがんで紐を結び直した。
ところが、紐がうまく結べない。
私は自分の指が震えていることに気付いた。
意思とは無関係に震えて、止めることができない。
結局、2度も立ち止まって結び直した。
しばらくして、距離をとっただろうと思ったのでペースを落とし、さっきの声は何だったかと考えた。
さっきの若い男の言った熊の目撃談。
彼もそのうち景色に飽きて、山を下りるだろう。そしてさっきの林道へ下る道を通って車まで行くはずだ。
そこは、さっき私が何かの動く音を聞いた場所だ。
その辺りで、彼は熊に遭遇したのだろうか?
彼は、熊と遭ったらどうするだろう。
対抗する知識はないようだし、目撃して、思わず威嚇のために叫んだのかもしれない。
だが、私は熊が青年に馬乗りになっている場面を、つい想像してしまう。
滑稽な空想に思えるかもしれないが、それは、平穏無事な状況だから言えることなのだ。
その時の私はまったく平穏ではなかった。
M峠までもうすぐというところまで来たが、ここからは登りになる。
だから、あせって登っても、ばててしまっては余計にペースが落ちてしまう。
私はゆっくりと登り始めた。
何かが後ろから来ている音が聞こえる。
足音のようだ。
ぎょっとしてふり向いてみると、何もいない。
立ち止まって耳をすませてみたが、何かが追いかけてくるような気配はない。
歩き出すと、また足音が聞こえる。
だが、ふり向くと何もいない。
──なんのことはない、自分の足音の反響を聞いて、後ろに何かがいるような気がしただけだった。
だが、それに気づいてからも、私は何度も何度もうしろをふりむいた。
バカげているだろうか? しかし、人間は恐怖に駆られると、聞こえるはずのない音が聞こえるということを、このとき実感した。
ふいに、尿意を催した。
それどころではないが、どうしても、したい。
いっそ道端でしようかとも思ったが、時間のロスになるので我慢することにした。
そうこうしているうちに、ぜいぜい言いながらもM峠に着いた。ここまで来ればひとまず安心だと思った。
安心してふと気づいたが、不思議なことに、さっきまでの尿意がピタリと止まっていたのだった。
しばらく休憩しながら、B山の方角に耳をすませた。
……なにも聞こえない。
タオルを落としていることに気がついたが、もちろん取りに戻ろうなどとは考えなかった。
──そのまま下山し、帰宅した。
結局、あの『声』がなんだったのかは、わからない。
山中で起きる怪音現象だろうか。それとも動物か、あるいはあの青年の声か。
あの青年はどうしたのだろう。そのまま帰ったか、それとも熊に遭遇したのか。
あるいは、熊に遭遇しつつも車までたどり着いたのだろうか。
それとも……?
気にはなったが、次の日は雨だった。山に登る人はいないだろう。私は、まさかとは思いつつも、つい、青年がまだ山の中にいるのではないか、などと考えてしまうのだった。
確かめる方法としては、声が聞こえたと思われる場所に行ってみればいいのだが、それは嫌だった。
それより、林道に車があるかどうか確認すればいいのだ。もし、彼が山から戻っていないなら、まだ林道に車が停められているはずだからだ。
2、3日たって雨がやみ、私はまた車を出した。
国道N号線から件の林道に入り、未舗装の道路を進む。
カーナビを使いつつ、ものの10数分で目的の場所に近づいてきた。
もし車が停まっていたらどうしよう、などと思いながら『B山登山口』の標識を見つけた。
車はなかった。
林道からのB山への登山口は2ヶ所あるが、どちらにも車はなかった。
それはそうである。もし熊と人間の事故があったなら、地元の新聞でニュースになっていただろう。
私はシートにもたれかかり、深いため息をついた。
あのとき、青年は、熊を見て大声で威嚇したのだろうか? それとも襲われたか。
あるいは、彼とあの声はまったく関係ないかもしれない。
真相は謎である。
これが昔のことなら、話はふくらみ、うわさは広がり、山中で奇妙な音(声)をだす妖怪のできあがりである。
あんがい、妖怪というのはそういうものが多いのかもしれない。
(了)




