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今井淳平の正直に生きるためのほっこり飯  作者: 修羅観音


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今井淳平の正直に生きるためのほっこり飯

これは、現在30代前半となり、過去から逃れるようにして東京の湿った安アパートで息を潜めている今井淳平の、10数年以上も前の記憶である。


10数年前、北海道の冷たい風が吹き荒れる季節、当時20代の大学生だった淳平の人生は、たった1台のノートパソコンと、ネットの海で出会った1人の男によって劇的に、そして破滅的に塗り替えられた。


男の名は、高地純也。

画面越しに聞こえる彼の声は、自信と甘い成功の香りに満ちていた。


「淳平君、これからは情報の速さが金になる時代だよ」


純也が授けてくれたのは「トレンドアフィリエイト」という、魔法の杖のような手法だった。

世間で今まさに話題になっている芸能人のスキャンダル、流行のスイーツ、突発的なニュース。

それらをブログ記事にして、爆発的なアクセスを呼び込み、貼り付けた広告をクリックさせる。

ただそれだけで、銀行口座の数字が、まるでゲームのスコアのように跳ね上がっていく。


カチカチ、カチカチ。

マウスをクリックする乾いた音が、静かな自室に響く。


「……また上がってる。嘘みたいだ、こんな簡単に……」

画面を見つめる淳平の瞳が、青白い光を反射して怪しく輝く。


何のスキルも、何の努力も要らなかった。

ただ運良く流行の波に乗っただけ。

しかし、20代の未熟な淳平には、それが自分の実力だと思えてならなかった。


「真面目に働いてる奴らが馬鹿に見えるわ。大学の講義? 1回数千円の価値もないな、俺の月収と時給知ってる?」


淳平の心には、額に汗して働く人々への侮蔑と、万能感という名の毒が静かに、しかし確実に回り始めていた。


---


淳平は、迷うことなく大学を中退した。

輝かしい未来が約束された「成功者」としての自負が、彼にペンを置かせたのだ。

就職活動を控えた頃に、大学の友達にも「真面目に就活とか、サラリーマンになるとか馬鹿らしい、そんな人生は負け犬貧乏人でしかない、大学を中退する俺は少数派の勝ち組」と豪語したりもしてマイノリティを気取り、淳平は大学を去った。


次に彼が手を出したのは、自分が稼いだ手法を他人に教える「コンサルティング」だった。


「淳平君、次は教える側に回るんだ。それが一番効率よく搾り取れるからね、俺もかなりぼったくってるよ」

純也の囁きは、もはや淳平にとって神の啓示だった。


しかし、その実態は「コンサルティング」という名の、あまりにも精巧で醜悪な「ねずみ講」のような、およそビジネスとは呼べないものであった。

淳平は、組織の巨大な捕食システムの末端に組み込まれた、ただの捨て駒に過ぎない。

「淳平に教えた純也」も、その上の誰かの駒。


運良く成果を出した者が次のカモを募り、そのコンサル料を上へと献上する。

甘い蜜を吸えるのは、頂点に君臨するごく一部の人間だけだった。


「いいですか。稼げないのは、あなたのマインドが弱いからです! 宇宙の法則を信じて、1日100記事書く覚悟を持ってください!」


淳平は、スカイプの向こう側にいる、藁にも縋る思いの受講生に対して、根拠のない精神論を捲し立てた。

自分でも何を言っているのか、実はよく分かっていない。

ネットの掲示板から拾い集めたような、薄っぺらで幼稚な御粗末な言葉の数々。

それは「指導」とは呼べない、ただの言葉の暴力と欺瞞だった。


ピコン、ピコン。

メッセージが届くたびに、淳平の口角が吊り上がる。

「また1人、カモが釣れた」


淳平は、他のコンサルタントを名乗る詐欺師達、法的には詐欺ではないにしても詐欺的でしかない金の亡者達と、完全に同化していた。

自分を信じて金を差し出す人々を、心の底で見下しながら、彼はブログの更新ボタンを押す。

そこには、豪華な食事の写真や、全く似合っていないクラブでの下品な写真と共に、嘘と虚飾で塗り固められた見出しが躍っていた。


「大学中退者が、1か月で300万円達成! 自由を掴み取るための唯一の正解」


300万円。

それは誰かが人生をやり直そうと必死に貯めた貯金であり、誰かが借金をしてまで淳平に託した「希望」の成れの果てだ。

人から騙し取ったその「汚した金」の重さを、当時の淳平は1ミリも感じていなかった。


札束の感触が、淳平の理性を麻痺させていく。

自分が立っている場所が、今にも崩れそうな砂の城であることに、彼は全く気付いていなかった。

人生という歯車が、自分自身の傲慢さによって、音を立てて狂い始めているという恐怖の兆候を、彼はただの「成功のノイズ」だと笑い飛ばしていたのである。


---


##偽りの王座と崩れゆく砂の城、傲慢という名の鎧


20代前半の淳平は、万能感という名の毒にどっぷりと浸かっていた。

運良く手にした成金生活。社会経験もなく、人に何かを教える器でもない彼が「コンサルタント」を名乗る。それは、真っ赤な嘘で塗り固められた喜劇の始まりだった。


淳平のターゲットは、切羽詰まった状況にいる「情報弱者」たち。

最初は猫撫で声で近づき、高額な契約を結ばせ、入金が確認できた瞬間に態度は豹変した。


淳平の「指導」という名の暴挙は、枚挙にいとまがない。


1対1の音声対話では、約束の時間に30分以上遅れるのは当たり前。

お金を出して下さったお客様を「受講生」「コンサル生」と見下し、その相手が画面の向こうで必死に悩みを打ち明けている最中、淳平はマウスをカチカチと鳴らし、ネットサーフィンに興じていて、相槌は適当、思考は上の空という、あまりにも不誠実な対応。

質問が少しでも面倒になると、「時間の無駄だから」「向いてないんじゃない? さっさとやめれば?」と冷酷に切り捨てる。


ビジネスマンとしての基礎など1ミリもない。

それどころか、彼はこの醜態をブログやメールマガジンでこう正当化した。


「俺はコンサル生を、客扱いしない。本気で稼がせたいからこそ、あえて厳しく接しているんだ」


この傲慢な言葉に、騙されている者達は「これこそが成功者の流儀か」と錯覚した。

ブログには、画像加工ソフトで精巧に作られた「嘘だらけのアクセス数」や「捏造した入金履歴」が並ぶ。

淳平にとって、成功は「俺様の教えのおかげ」であり、稼げないのは「『コンサル生』の自己責任」という、都合の良すぎる責任転嫁の論理が完成していた。


---


そんな淳平がついに、一線を越える。


彼が大勝負として販売した高額情報商材、『アフィリエイトサクセスフォーミュラ』。

名前こそ立派だが、その中身は驚くべきことに、未完成のまま放置された代物だった。

「後日更新予定」という文字が並ぶだけの空っぽのフォルダ。


しかし、ついに年貢の納め時がやってくる。

一人の購入者が、怒りに震える声でメールを送りつけてきたのだ。


> 「内容が全く更新されていない。これは明白な詐欺だ。明日、警察に被害届を出す」


「……っ!」


淳平の背中に冷たい汗が伝った。警察という言葉に、膝がガクガクと震え出す。

慌てて返金対応を始め、火消しに走る淳平。しかし、一度火がついたインターネットの炎は、そんな小手先の誤魔化しを許さなかった。



数日後。淳平が恐る恐る検索窓に自分の名前を打ち込むと、そこには地獄のような光景が広がっていた。


『詐欺被害者掲示板:今井淳平について』


スレッドを開くと、そこには淳平がこれまで使い捨ててきた『コンサル生』達の恨み辛みが、濁流のように溢れ出していた。

「音声相談中に無視された」「暴言を吐かれた」「中身が空っぽの商材を売りつけられた」。

これまで隠蔽してきた真実が、実名と共に、あまりにも克明に暴かれていたのだ。


真っ青な顔でモニターを見つめる淳平。

自分が築き上げてきた砂の城が、足元から音を立てて崩れ去っていく。

10数年後、彼が東京の安アパートで怯えながら暮らすことになる、その破滅へのカウントダウンは、この瞬間に始まったのである。


---


##切り捨てられた駒と、絶海の逃亡


「純也さん、助けてください! 掲示板が大変なことになって……警察に届けるって言ってる奴もいるんです!」

震える指でスマートフォンを握りしめ、淳平は師と仰ぐ高地純也に縋り付くように電話をかけた。

耳元で鳴り続ける無機質な呼び出し音。


プルルル……プルルル…………ブツッ。

唐突に音が途切れた。


「あ、もしもし? 純也さん!?」


淳平が焦って画面を見ると、そこには「通話終了」の文字。

慌ててかけ直すが、何度リダイヤルしても呼び出し音すら鳴らない。

メッセージを送ろうとしても、そこには非情な拒絶の印――ブロックされたことを示す既読のつかない沈黙だけが横たわっていた。


淳平は全身から血の気が引いていくのを感じた。

「嘘だろ……なんで……?」


震える手で純也のブログを開く。

そこにはかつて、純也の「成功させた教え子」として淳平を称賛する3つの記事が誇らしげに掲載されていた。

淳平が月収数百万円を達成したという虚飾の成功譚。


しかし、ページを更新した瞬間、それらの記事は霧のように消え失せた。


「……あ」


タタタン、とキーボードを叩く乾いた音が聞こえてくるような、純也の冷徹な手際の良さ。

純也は自身のSNSからも、純也が自称する「モチベーター」という怪しげな肩書きに泥を塗るような淳平の形跡を、一瞬にして全削除していた。

淳平は、自分がたった今、組織の「汚れ仕事」を押し付けられたまま切り捨てられた、単なる使い捨ての駒であったことを思い知らされた。


---


「……特商法(特定商取引法に基づく表記)」


淳平の脳裏に、最悪の事実が浮かび上がる。

情報商材を販売するサイトには、法律によって住所と氏名の記載が義務付けられている。

淳平が住んでいる北海道の自宅の住所は、今この瞬間もネットの海に晒され、怒りに燃える被害者たちの目に触れているのだ。


「誰か来る……警察か、それともアイツら……」


ピンポーン、と外でインターフォンが鳴ったような気がして、淳平は飛び上がった。

実際にはただの風の音だったが、今の彼には、部屋の扉の向こうに復讐の鬼たちが待ち構えているようにしか思えなかった。


ガタガタと震えながら、淳平はクローゼットの奥に隠していた「汚れた金」の束をリュックに詰め込んだ。

罪悪感などない。

あるのは、この金を失う恐怖と、自分だけは助かりたいという醜い生存本能だけだ。


恐怖におののいた淳平は、日本から数千キロ離れたフィリピン、セブ島の空港に降り立っていた。

飛行機のドアが開いた瞬間に流れ込んできたのは、肌にべっとりと纏わりつくような湿った熱気。


「……ふう、ここまで来れば、大丈夫だ」


真っ青な空。

眩しすぎる太陽。


淳平は、人から騙し取った大金が詰まったリュックを強く抱きしめ、逃避先の街へとタクシーを走らせた。

観光客向けの高級ホテルにチェックインし、ふかふかのベッドに倒れ込む。

窓の外には、エメラルドグリーンの海が広がっていた。


しかし、逃げ延びた安堵感は一瞬だった。

スマートフォンの電源を入れる勇気もなく、言葉も通じない異国の地で、淳平は暗い天井を見つめた。


---


それから数日後。

セブ島の湿った熱気が、安ホテルのテラスに停滞している。


淳平は、手元に残った数少ない「汚した金」を使いながら、虚勢という名の鎧を必死に纏い続けていた。

日本のネット掲示板では、今も自分の本名や住所が晒され、詐欺師としての罵声が飛び交っている。

その恐怖から逃れるため、彼は攻撃的な投稿をSNSに叩きつけた。


「もう日本に住むとかバカくさくて1ミリも帰る気なし。あんな狭い島国、もうどうでもいいわ」

「国がクソ、政府がクソ、しきたりや常識とか全部クソ。世界を知らない連中が群れてるだけだろ」


キーボードを叩く指先に力がこもる。

カチッ、と投稿ボタンを押した瞬間、自分だけは一段高い場所に立っているような、歪んだ万能感が胸を満たした。


しかし、期待したような反響はどこにもなかった。

「いいね」も付かず、リポストもされない。

ただ、南国の夜風が通り過ぎる音だけが、淳平の耳に空虚に響いた。


数日後、淳平は冷や汗をかきながら、それらの投稿を慌てて削除した。

一旦冷静になれば、自分の吐いた言葉がどれほど幼稚で、余計な敵を作るだけのものであったかに気づいたからだ。


だが、時すでに遅し。

インターネットという怪物は、淳平の醜態を1秒たりとも逃してはくれなかった。


「……え、嘘だろ」

詐欺被害者の実態を報告し合う掲示板を開くと、そこには淳平が消したはずの投稿のスクリーンショットが、鮮明な「デジタルタトゥー」として張りつけられていた。


『逃亡中の詐欺師・今井淳平、セブ島から日本批判。反省の色全くなし』

そんな見出しと共に、ウェブ魚拓まで取られた逃れようのない証拠が、世間に晒され続けている。


「消したのに……なんで残ってんだよ……!」


過去に犯した不誠実な罪、考えなしに投稿した愚かな発言。

それらすべてが鎖となって淳平の足を縛り、逃げ場を奪い去っていた。


---


セブ島での逃亡生活も、そう長くは続かなかった。

現地で新しい仕事を見つける力もなく、持ち込んだ金は砂時計の砂のように、刻一刻と減っていく。

結局、あれほど罵倒し、「二度と帰らない」と豪語した日本に、淳平は這いつくばるようにして帰国した。


しかし、かつての居場所はどこにもなかった。

北海道の地元は既に住所が割れており、大学中退を巡って絶縁状態になっていた両親に頼ることもできない。


「……俺、何やってんだろうな」

空港の公衆便所で鏡を見た淳平の顔は、かつての成金の面影など微塵もない、薄汚れた敗残者のものだった。


淳平は身分を隠すようにして、東京の端にある家賃3万円の安アパートに転がり込んだ。

身元がバレることを極端に恐れ、日雇いのアルバイトや深夜の清掃作業で、その日暮らしの食い繋ぎを始めた。

かつての贅沢三昧な生活は一瞬の幻影として消え去り、そこから一転、影のように目立たぬよう生きる日々が始まった。


---


そして、十数年の月日が流れた。


カタカタ……カタカタ……。


30代前半になった淳平は、今も東京の湿った安アパートにいた。

窓の外からは都会の無関心な喧騒が聞こえてくる。


かつてネット上で「王」を気取っていた男は、今や古びたノートパソコンを前に、1文字数円のクラウドソーシング作業に追われている。

10数年前のあの日、運だけで掴んだはずの「成功」が、実は自分の人生を徹底的に破壊するための罠だったのだと、淳平は今更ながらに痛感していた。


「……腹、減ったな」


冷蔵庫には、値引きされた食パンと、賞味期限の切れたインスタントラーメンしかない。

自ら掘り進めた「悪業の穴」に嵌まったまま、淳平は出口のない暗闇の中で震えていた。


---


## 第13話再会の拒絶と過去の報い


いつの間にか30代前半になっていた淳平は焦っていた。

このままではいけない、何とかしないと駄目だと思って、アルバイトをしながら就職活動を始める。


30歳を過ぎて、まともな就活すらしたことが無く、大学中退の学歴で雇ってくれるところなんてあるのだろうかという不安が募る。

連戦連敗の中、何とか結構な規模の企業と面接が出来ることになった。


その会社は北海道にも支店がある企業。

流石に10年以上経過しているから、ほとぼりも冷めているだろう、上手くすれば地元に戻れるかもしれないと希望の光を見る淳平。


そして、ついに面接の日、東京にあるビルの中に入っていき、面接会場となる会議室へ通される。


窓の外に広がる都心のパノラマに圧倒されながら、淳平は手汗をスラックスで拭った。

やがて扉が開き、面接担当の人事部の若い男性と、人事課長の同い年ぐらいの男性が入って来る。


「お待たせしました。本日の面接を担当します」


課長と名乗った男の顔を正面から見た瞬間、淳平の心臓が大きく跳ねた。

整えられた短髪に、知性を湛えた眼鏡の奥の瞳。

その見覚えのある顔立ちに、淳平は驚き、そして救いを見つけたような笑顔を見せる。


「あの、大学で一緒だったよね?」

思いがけない再会に、淳平の声が弾んだ。


あの日々、同じキャンパスを歩いていた仲間なら、今の自分の苦境も分かってくれるのではないか。

そんな甘い期待が脳内を駆け巡る。


人事課長は、手元の資料からゆっくりと顔を上げ、淳平を冷徹に射抜いた。

「……ええ」


僅かな沈黙の後に返されたその肯定に、淳平はさらに身を乗り出した。

「久しぶり! この会社にいたんだね。元気そうで何より。まさかこんなところで会えるなんて」


地獄で仏に会ったような心地で笑う淳平。

しかし、人事課長――かつての同級生であった佐藤の口から出たのは、慈悲の欠片もない一言だった。


「……不採用です、面接は終わりです。お祈りメールも不要そうですね」

佐藤は履歴書を閉じると、立ち上がる準備を始めた。


「え?」


淳平は一瞬、自分が何を言われたのかわからず呆然とする。

耳に届いた言葉の意味を脳が拒絶し、思考が真っ白に塗り潰された。


「ちょ、ちょっと待ってよ、佐藤君。なんでいきなり……」


「私の名前を親しげに呼ばないでいただきたい」

佐藤の声には、深い嫌悪と軽蔑が混じっていた。


「君が大学を中退した後、どのような『ビジネス』に手を染め、どれほどの人々の人生を狂わせたか。そして、その中に私たちの共通の友人が含まれていたことを、知らないとでも思いましたか?」


淳平の過去を知る者にとって、彼は「懐かしい同級生」などではなく、軽蔑すべき「詐欺師」そのものでしかなかったのである。


---


##偽りの残像と、突きつけられた「報い」


「ちょ、ちょっと待ってくれよ!? そんなの、もう大昔の話じゃないか……」


淳平の声は、情けなく上ずっていた。目の前に座る佐藤――かつては同じキャンパスを歩いていたはずの男が、今や一流企業の課長職として、自分を裁く立場にいる。佐藤の眼鏡の奥にある瞳には、絶対零度の冷たさが宿っていた。


「君はあの時、確かにこう言いました。『就職活動をする奴も、サラリーマンになる奴も負け組。起業しない貧乏チキン野郎だ』と。……そのような思想を持つ人物を、弊社の社員として採用するわけにはいきません」

佐藤の声は低く、そして重い。


淳平は食い下がるように言葉を継いだ。

「だ、だから……それは若気の至りというか、本当に昔の話で……」


「勿論、そこから君が自身の非を認め、改善して真っ当な人間になっていれば、私も正当に審査したでしょうし、採用するかどうか検討もしました。……しかし」

佐藤は一旦言葉を区切ると、諭すように、しかし冷徹に言い放った。


「同窓会的な会話なら、この面接が終わった後に部屋を出てから、業務時間外でなら付き合うつもりもありました。ですが、面接が始まる前にいきなりのタメ口。君には社会常識というものがないのですか? 営業先やお客様に、開口一番タメ口を叩くような人間を、誰が雇うと思っていらっしゃいますか?」


至極真っ当な指摘に、淳平の顔はみるみる赤くなっていく。


「あ……す、すみません……」

淳平は慌てて椅子の上で頭を下げ、平謝りした。


だが、佐藤の追撃は止まらない。

「『すみません』ではなく『申し訳ないことです』でしょう。どういう人生を歩んで来られたかが垣間見えますね。とにかく、今井淳平さん。あなたは弊社にとって相応しくない人物です。よって、不採用とこの場で言い渡します」


佐藤は淡々と告げると、ガタリと音を立てて席を立った。

その姿に、淳平は絶望を滲ませて縋ろうとする。


「ま、待ってください! 佐藤君……いや、佐藤課長! 本当にもう後がないんです! ここを落とされたら、俺、本当に……!」


淳平の必死の懇願を、佐藤は一瞥もくれずに遮った。

立ち上がったまま、氷のような声が会議室に響く。


「……『退路を断って、勇気を持って飛び出せ』。……そう客を煽っていたのは、君自身ではなかったですか?」


「え……?」


淳平は言葉を失い、金縛りにあったように驚き、硬直した。

それは、かつて彼が悪徳コンサルティングの募集サイトや、「アフィリエイトサクセスフォーミュラ」という空っぽの商材を売りつける際、迷う購入者の背中を無理やり押すために多用していた、あまりにも無責任なセールストークだった。


「後がないのは、あなたの得意な生き方かと思っていましたが?」


佐藤のその一言は、かつて自分が吐き出した毒が、長い年月を経て鋭い刃となり、自分自身の喉元に突きつけられた瞬間だった。


「それは、かつてあなたが『コンサル生』と呼んでいた『お客様』へ、お金を出させるために、集客のために使っていた言葉でしょう? 後がないのはあなたの得意な生き方では無かったのですか?それとも、他人様には厳しい事を言っておきながら、自分には関係ないと仰るおつもりで?」


佐藤は表情一つ変えず、淡々と、しかし鋭い刃を突き立てるように言い放った。

淳平は、肺から空気がすべて漏れ出したかのように、ただ愕然として佐藤を見つめることしかできない。


「なんで……そこまで知って……」


「面接をする際、事前に相手の何たるかを知り、相手を徹底的に調べてから臨むのは当然でしょう。コンサルタントをやっていたなら、お客様のことをきちんと知ろうとして、その上でコンサルティングをするという最低限の礼儀であり当然の事柄と共通していることですから、あなたもそれくらい分かっていると思っていましたが、なぜ驚いているんです? それとも、あなたは今までお客様を知ろうとすらせずに、『コンサルタントもどき』、もしくはコンサルタントを名乗って詐欺をしていたというのですか?」


「……っ!」

ぴしゃりと突きつけられたその言葉は、淳平の核にある欺瞞を容赦なく暴き出した。


自分がやっていたのは、コンサルタントなどという高尚なものではなかった。

相手の悩みを聞くふりをして、その実、懐にある金しか見ていなかった。

やるべき努力を一切放棄し、ただ「成功者」という虚像を演じて人を騙していた。


その代償が、十数年という年月を超えて、今、自分を完全に否定する言葉として返ってきている。


「そうそう。お金を頂いているはずの大切な『お客様』を、『コンサル生』などという見下すようなふざけた呼び方をしているその在り方。それもどうやら改善されていないことが、あなたとのやり取りで見て取れる。それも不採用理由の一つです」


佐藤の言葉には、プロフェッショナルとしての矜持と、不誠実な者への徹底した拒絶が込められていた。


「本来、君のことは履歴書が送られてきてすぐに分かりました。この面接は、君があの頃から変わって改善していたかを見極めるためでもありました。私だって、かつての同級生という私情があったからこそ、上司や人事部の人達にも私の私情等を話した結果、採用活動の許可を頂けた事もあり、こうして面接の場を設けたんですがね」


佐藤は深く、冷たいため息を吐くと、机の上の資料を鞄に収めた。


「全くもって、『時間の無駄』だったようです」


それは、かつて淳平が面倒になって早く切り上げたかったという身勝手な私情によって、「コンサル生」と呼んで見下していた御客様に対して放った言葉だった。


淳平は、その一言で自分の息の根が止められたような錯覚に陥った。

喉の奥が引き攣れ、何も言い返せない。


「面接は終了です。私が出口まで送ります」


佐藤がそう告げると、同席していた部下と共に、迷いのない足取りで会議室を出た。

淳平は、まるで魂が抜けた抜け殻のように、ふらふらとした足取りでその後を追った。


---


### 「勝者」と「敗者」の背中


整然としたオフィスの廊下を、佐藤の背中が遠ざかっていく。

その背中は、この十数年、一歩ずつ着実に、誠実に仕事を積み上げてきた男の、揺るぎない自信に満ちていた。

課長職という責任を背負い、部下を従え、社会の中で確かな価値を築いている。


(……俺は、何を見ていたんだ)


淳平は、かつての自分を思い出し、吐き気のような自己嫌悪に襲われた。


「サラリーマンは負け組だ」「就職する奴はチキンだ」と、画面の向こう側で高笑いしながら見下していたあの頃。

目先の小銭に目が眩み、人を騙すことで得た一瞬の「成金生活」に酔いしれていた自分。

その結果が、この30代前半の無様な姿だ。


何も積み上げず、何も磨かず、ただ過去の罪に怯えながら生きる自分。

一方で、自分が「負け組」と蔑んでいた同級生は、今や自分を裁く側の立派な「勝者」となっていた。

目先の金に負けていたのは、自分の方だったのだ。


佐藤の、揺るぎない、真っ直ぐな背中。

それを見つめながら、淳平は自分が歩んできた道のりが、いかに空虚で、いかに醜悪なものであったかを、今更ながらに骨の髄まで思い知らされていた。


---


会社のエントランス。

自動ドアが静かに左右へ開くと、空調の効いた完璧な室温の中から、都会の重苦しい湿り気が淳平を包み込んだ。


「こちらは交通費です。本日はお足をお運び頂きまして、誠に有難うございます」


佐藤は事務的な、しかし隙のない丁寧な所作で、白い封筒を淳平に手渡した。

隣に立つ部下の若い男性と共に、腰を45度に折って頭を下げる。

それは、かつての「同級生」としてではなく、不採用を決定した「他者」としての、完璧で冷徹な礼儀だった。


「……有難う、ございます」


淳平は、震えそうになる声を必死に抑えて、そう返すのが精一杯だった。

深く頭を下げ、逃げるように会社を後にした。

背中に感じるガラス張りのビルの威圧感と、佐藤の揺るぎない背中の残像が、淳平の心臓を絶え間なく削り取っていく。


---


### 夕闇の孤独


それからどれくらい歩いただろうか。


高層ビルの谷間を抜け、入り組んだ路地を彷徨い、淳平は名前も知らない小さな公園に行き着いた。

街灯が一つ、心許なく点滅しているだけの、人っ子一人いない静かな空間。

淳平は、冷え切った木のベンチに力なく腰を下ろした。


ぐうぅ……。


静寂を破って、情けない音が腹の底から鳴り響いた。

気がつけば、空は群青色を通り越して真っ黒に沈み、周囲のマンションからは夕食の準備をする美味しそうな香りが漂ってきている。


「はあ……。ツナサンドとハムサンド、食べたいなあ……」

独り言が、冷たい夜気に白く混じった。


それは、かつて北海道の実家にいた頃の、数少ない温かな記憶だった。

三平汁や石狩鍋といった郷土料理が続くと、子供だった淳平は決まって「パンが食べたい」と母親にせがんだ。

母親は苦笑しながらも、耳を切った食パンに、溢れんばかりのツナマヨと厚切りのハム、たっぷりのレタスを挟んでくれた。


あの食べ応えのある、手にずっしりとくる重み。

「成功者」を気取って高い寿司やステーキを食い散らかしていた頃には見向きもしなかった、素朴で贅沢な母の味に、今更ながら恋しさを感じていた。


---


### 断たれた帰路


「……今更、帰れないよな」

淳平は膝を抱え、地面のアスファルトを見つめた。

大学を中退すると宣言したあの日。


『そんな考え方だから、あんたたちは一生普通の生活しかできないんだよ』


心配して、必死に話をしようとしてくれた両親に対し、淳平は最悪の言葉を投げつけた。

自分の万能感を証明するために、最も身近な味方を「負け組」として切り捨てたのだ。


その後の不義理はさらに酷かった。

情報商材の販売サイトに、勝手に実家の住所を記載した。


詐欺師のレッテルを貼られ、掲示板に晒された後、あの家にはどれほどの嫌がらせや苦情が届いただろうか。

怒りと、それ以上に深い悲しみを与えてしまった自覚はある。

だが、今の自分には謝るための勇気も、合わせる顔も、そして帰る場所さえも残されていなかった。


ザリッ、ザリッ。


不意に、砂利を踏みしめる音が聞こえた。

淳平が驚いて顔を上げると、そこには一人の奇妙な少女が立っていた。


まん丸な瞳に、台形の形に開いた、感情を読み取らせない不思議な口元。

腰まで届く長い銀髪を揺らし、頭には黒いベレー帽をちょこんと乗せている。

ズボンタイプの黒いセーラー服という独特な出立ちの少女は、微動だにせず、ただじっと、射抜くような視線で淳平を凝視していた。


「……え?」


淳平は、その異様な存在感に圧倒され、言葉を失った。


---


## 運命の少女との邂逅


夜の帳が下りた無人の公園で、少女は瞬きもせず淳平を凝視していた。

その静寂に耐えかねて淳平が何かを言いかけた瞬間、彼女は小さく唇を動かした。


「えらいこっちゃ」

感情の起伏がまるで見えない、独特な響きを持った一言だった。


「え……?」


淳平が驚きに目を見開くと、少女は淡々と自己紹介を始めた。

「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や」


「あ、ああ、そう……」

あまりにも突拍子もない名前に、淳平はそれだけを返すのが精一杯だった。


「腹の虫が鳴ってる、えらいこっちゃ」

少女は淳平の腹部を指差し、びしりと指摘した。


「ああ、うん。晩御飯の時間だもんな……」

淳平は力なく答え、ふと思い出したように、エントランスで佐藤から手渡された封筒を取り出した。


中を確認すると、折り畳まれた5,000円札が1枚と、小さなポチ袋が入っていた。

不審に思いながらその袋を開けると、中には777円の小銭と、一枚の付箋が入っている。


『幸運を。たまには両親へ顔を見せてあげなさい:佐藤』


丁寧な字で書かれたそのメッセージを見て、淳平の心臓が激しく脈打った。


「交通費はこんなにかからないのに……こんなにたくさん。それに、佐藤君は俺のことを……」


淳平は悟った。


佐藤は、かつて馬鹿にされた恨みで自分を不採用にしたのではない。

自分が社会人としてあまりに未熟で、会社の利益を背負う立場としては相応しくないと、冷静に判断しただけだったのだ。

その上で、かつての同級生として、不器用な自分を案じてこれを用意してくれた。


情けなさと、佐藤の真っ当な優しさが、淳平の胸を鋭く刺した。


「泣く程空腹、えらいこっちゃ」

少女が、再びその奇妙な口元を動かして言い放った。


「え?」

淳平は驚き、慌てて頬に手を触れた。


指先に伝わったのは、熱く、止めどなく溢れ出す涙の感触だった。

自分が泣いていることに、今の今まで全く気づいていなかった。


「そういえば、母さんも言ってたっけ。『空腹になると、気が沈んじゃうよ』って……。それで、いつもサンドイッチの具をぎっしり詰めてくれたんだよな」

独り言のように呟いた淳平の脳裏に、あの食べ応えのあるパンの感触が蘇る。


「サンドイッチ食いたがっとる、えらいこっちゃ」


「……そうだな。せっかく、交通費もこんなに貰えたんだ。今日は久しぶりに、美味しいサンドイッチを食べようかな」


淳平は涙を拭い、少しだけ前を向こうとした。

その時だった。


「えらいこっちゃーーーーー!!!」


平和な夜の公園に、鼓膜を震わせるほどの凄まじい絶叫が響き渡った。

少女――えらいこっちゃ嬢が、その小さな体のどこから出しているのか分からないほどの声量で、夜空に向かって叫んだのだ。


淳平はあまりの衝撃に、腰を浮かせて固まった。


---


淳平は衝撃で腰を浮かせる。


「な、何!? どうしたんだよ急に!」


心臓が口から飛び出しそうなほど激しく脈打つ中、えらいこっちゃ嬢は感情を排除した瞳で、淳平の核を貫く言葉を吐き捨てた。


「嘘とはったりまみれの詐欺師人生。サンドイッチの中身もスッカスカで、えらいこっちゃ」


びしっと言い放たれた言葉に、淳平は息が止まった。


「な!? 何を言って……。それに、母さんのサンドイッチはいつも中身はぎっしり詰まってて……」

淳平の反論は、夜の静寂を切り裂く轟音にかき消された。


ゴォォォ……という不気味な地鳴りとともに、アスファルトの上を燃える巨大な車輪が転がってきた。

それは燃え盛る片輪の牛車に見えるが、古風な造りとは裏腹に、そこには異質な「運転席」が備わっている。

キィィィ、と耳障りな音を立てて二人の目の前に停車した。


運転席の窓が開き、えらいこっちゃ嬢とお揃いの黒いベレー帽を被った、長い黒髪を後ろで束ねた着物美人が姿を現した。


「片輪車ねえちゃん、お迎えありがとちゃん! 詐欺師のあんちゃん御1名! 行先は『摩訶不思議食堂』!」


えらいこっちゃ嬢が宣言すると同時に、淳平の手首を鉄の万力のような力で掴んだ。

そのまま淳平は強引に、得体の知れない乗り物の中へと引きずり込まれる。


「え!? ちょ、ちょっと!?」


なされるがままに牛車に詰め込まれた淳平は、パニック状態で周囲を見渡した。

すると、どこからともなく『お勘定』と書かれた札をぶら下げた、異常に細長く白い手が、にゅーっと天井付近から伸びてきた。


「ひえ!? 手が伸びて来た!?」

淳平は目を白黒させ、座席の隅へ追い詰められる。


「お勘定って……金を払えって言うのか? ええと……」

混乱する頭で、先ほど佐藤から貰ったばかりのポチ袋を思い出し、震える手でそれを手のひらに乗せた。


「777円入ってるんだけど、これで足りる?」

白い手は一瞬静止した後、生き物のようにしなやかに動き、ポチ袋を回収して闇の中へ消えていった。


「毎度ありー。ほな、摩訶不思議食堂へ走りまっせ」

運転席の美人が艶やかに笑い、アクセルを思い切り踏み込んだ。


牛車とは思えない爆音と衝撃が走り、淳平の体は座席に叩きつけられる。

炎の爆ぜる音と車輪の唸りが、逃げ場のない夜をどこまでも加速させていく。

景色が猛烈な速度で後ろへと溶け去り、重力に押し潰されそうな加速の中で、淳平はただ恐れおののくしかなかった。


---


猛烈な勢いで夜の闇を切り裂いていた牛車の轟音が、次第に低く、腹に響くような唸りへと変わっていく。

「ゴォォォ……」という地鳴りが止み、炎を纏った車輪がアスファルトを削る感触が和らぐと、淳平の体にのしかかっていた重圧がようやく霧散した。

片輪の牛車が静かに停車したのは、現代の東京にはおよそ似つかわしくない、時代を飛び越えて現れたかのような立派な木造建築の前だった。


客席の扉が勢いよく開き、えらいこっちゃ嬢が羽根のように軽い身のこなしでぴょんっと地面に降り立った。

彼女は感情の読めない瞳で淳平を振り返り、無造作に手招きをする。

淳平は、まだ震えの止まらない足で這い出すようにして地面に降り立ち、酸素を求めるように大きく息を吐き出した。


「毎度ありー。ほな、またねー」

運転席から方輪車ねえちゃんの艶やかな声が響くと同時に、牛車は再び「ボォォォッ!」と青白い炎を噴き上げ、夜の闇の向こう側へと一瞬で消え去ってしまった。


---


淳平は呆然と立ち尽くし、遠ざかる火の粉を見送った後、ゆっくりと目の前の建物に視線を移した。


「摩訶不思議……食堂?」

そこには、風雪に耐えたような重厚な木の板に、力強い墨書きでその名が刻まれた看板が掲げられていた。


ガラガラッ

えらいこっちゃ嬢が迷いのない手つきで引き戸を開け、店内に足を踏み入れる。


「えらいこっちゃな詐欺師あんちゃん御1名!」


独特の響きを持った彼女の声が、温かな出汁の香りが漂う店内に凛と響き渡った。

彼女は手をぶんぶん振ってカウンター席を指し示すと、淳平を案内し終えるなり、「えらいこっちゃ」と呟きながら音もなく店の奥へと姿を消した。


淳平は、使い古されているが丁寧に磨き上げられた木のカウンターに、恐る恐る腰を下ろした。

安物のスーツの上着を脱いで背もたれにかけ、周囲を伺うように見回しながら、彼は自嘲気味に独り言をこぼした。


「詐欺師のあんちゃんって。俺は詐欺師じゃ……。少なくとも、今はもう詐欺師じゃないっての……」


その言葉は、誰に聞かせるでもなく、自分自身の乾いた心に言い聞かせるように虚しく響いた。

今の自分はただの不採用続きの30代前半の男で、過去の汚れ切った張りぼての栄光もどきも、そして汚れた名声も、すべては指の間から零れ落ちた砂のようなものだ。


その時だった。

カウンターの向こう側、厨房の暗がりから、ぬぅっと静かに、そして圧倒的な存在感を放つ影が姿を現した。


淳平の目が驚愕に見開かれる。

そこに立っていたのは、石造りのようでありながら温かな血の通った肌の色を持つ、巨大な「お地蔵さん」だった。

お地蔵さんは、深く刻まれた慈愛の微笑みを湛えながら、淳平の前までゆっくりと歩み寄ってきた。


「おかえりなさいまし、えらいこっちゃん。そしてお客様、いらっしゃいまし」


その声は、深山に響く鐘の音のように低く、それでいて驚くほど優しく淳平の鼓膜を震わせた。

お地蔵さんは、胸の前で大きな掌を合わせ、静かに合掌してお辞儀をした。


「私は、この店の店長をさせて頂いております。皆さんは、地蔵店長と呼んで下さいます」


淀みのない、澄み渡った自己紹介。

淳平は、そのあまりにも神々しく、それでいて親しみやすい不思議なオーラに、毒気を抜かれたように姿勢を正した。


「……は、はあ。はじめまして」


淳平は、かつての傲慢な自分なら決してしなかったであろう、丁寧な会釈を返した。

佐藤から貰った封筒の重みを胸のポケットに感じながら、彼はありのままの自分を絞り出すように名乗った。


「……俺は、今井淳平です」

それは、偽りのマインド論や虚飾の成功体験で塗り固められていない、ただの孤独な男としての初めての挨拶だった。


---


## 鏡写しの品書きと、暴かれる「中身」


淳平は、古びているが隅々まで磨き上げられた木のカウンターを指先でなぞりながら、目の前の穏やかな存在に問いかけた。

「……あの、店長さん。ここって、和食の店なんですか?」


鼻をくすぐるのは、出汁の芳醇な香りと、どこか懐かしいパンが焼ける香ばしい匂い。

それらが複雑に混ざり合い、空腹の限界にある淳平の胃を容赦なく刺激する。


地蔵店長は、細められた瞳の奥に深い慈愛を湛え、鈴の音のように澄んだ声で答えた。

「和食もお出ししておりますが、それ以外も楽しんで頂けますよ。例えば、洋食やパンも御座います」


「パン……。サンドイッチ……」

淳平の口から、無意識にその言葉が漏れた。


佐藤から贈られた、あの「幸運」を祈るメッセージ。

そして、かつて母が作ってくれた、具がはち切れんばかりに詰まったサンドイッチの重み。

それらが濁流のように押し寄せ、淳平の胸を締め付ける。


スッ……。


いつの間にか、黒い作務衣の上に真っ白な割烹着を纏い、黒いベレー帽を被り直したえらいこっちゃ嬢が淳平の横に立っていた。

彼女は感情を排した無機質な手つきで、一冊の品書きを淳平に差し出す。

淳平がそれを手に取り、恐る恐る開いた瞬間、心臓が凍りついたような衝撃が走った。


『美味しいサンドイッチと詐欺商材サンドイッチセット:価格・えらいこっちゃ』


「ちょっと、美味しいサンドイッチはわかるけど……詐欺商材サンドイッチって、なんだよ。それに、価格が『えらいこっちゃ』って。めちゃくちゃ高いってことか? え、ここ、まさかぼったくり店なのか!?」

淳平の声が、焦燥と恐怖で裏返る。


先ほど、片輪車への「お勘定」として佐藤から貰った大切な小銭、777円は既に支払ってしまった。

今、彼の手元に残されているのは、封筒の中の5000円札、ただ1枚きりだ。

もしここで法外な値段を突きつけられれば、明日からの食い扶持すら失うことになる。


淳平の脳裏に、かつて自分が「カモ」から毟り取った金の感触が、忌まわしい記憶と共に蘇った。


すると、厨房から一人の女性が姿を現した。

「ぼったくりだなんて人聞きが悪いねえ。悪いようにはしないから、安心しな。あんたの身ぐるみ剥がそうなんて思っちゃいないさね」


フッ、と余裕のある笑みを浮かべたその美貌に、淳平は息を呑んだ。


白く長く、真珠のような光沢を放つ髪を美しい三つ編みにして背中に垂らし、青い瞳は深海のように澄んでいる。

健康的な褐色の肌に、人間離れした鋭く尖った耳。

まるで異世界の物語から抜け出してきたダークエルフそのものの彼女は、真っ白なコックコートを颯爽と着こなし、シェフの帽子を誇らしげに被っていた。


淳平は、あまりの美しさに一瞬だけ言葉を失い、呆然と彼女を見つめた。


しかし、その直後。

ガタガタと震え始めた指先が、スラックスのポケット越しに5000円札の感触を確かめる。


(……ダメだ、見惚れてる場合じゃない。このセット、一体いくらするんだ? もし5000円を超えたら……俺はもう、本当に終わりだ)


頭の中を支配したのは、シェフの美貌ではなく、冷酷なまでに現実的な「残金」への不安だった。

かつては大金を湯水のように使い、他人を見下していた成金の成れの果てが、今や5000円の行方に怯え、冷や汗を流している。

淳平は、自分の内に巣食う卑屈な恐怖を必死に押し殺そうとするが、震える心音は止まる気配を見せなかった。


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## 鏡合わせのごうと、逃れられぬ審判


静まり返った店内に、えらいこっちゃ嬢の鋭い言葉が突き刺さった。

「『飛び込む勇気をもって自己投資』。人にはさせて自分はやらん、えらいこっちゃ」


ビクッ!


淳平の肩が、目に見えて大きく跳ね上がった。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち鳴らし、首筋を冷たい汗が伝い落ちる。

その言葉は、かつて彼が「情報弱者」と見下していた人々を追い詰めるために、飽きるほど使い古した決め台詞だった。

無料相談という名の「罠」を仕掛け、言葉巧みに相手の不安を煽り、なけなしの貯金を吐き出させる。


「これは自己投資です」「今やらないと一生今のままですよ」

自らのブログに幾度となく綴り、他人の人生を狂わせてきたあの呪文が、今、自分自身の喉元に鋭利な刃となって突きつけられている。


「……っ、それは……」

言い訳をしようにも、喉の奥がカラカラに乾いて声が出ない。

過去の自分の醜悪な姿が、鏡のように目の前の少女に投影されている。そんな錯覚に淳平は激しい眩暈を覚えた。


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### 揺さぶられる魂と、不敵な誘い


淳平の困惑を見透かしたように、ダークエルフのシェフがニヤリと口角を上げた。

褐色の肌に映える青い瞳が、悪戯っぽく、それでいて深い洞察を秘めて淳平を射抜く。


「心配しなさんな。あんちゃんが懸念しているような事にはならないからさ」

彼女は軽快なウインクをしてみせた。

その所作には、見る者を強引に納得させてしまうような、不思議な覇気が宿っている。


しかし、えらいこっちゃ嬢は追い打ちをかけるように、さらに身を乗り出した。

「ダークエルフねえちゃんのサンドイッチは天下逸品!『今を逃したら一生後悔』、えらいこっちゃ!」


ドクン!

淳平の心臓が、今日一番の衝撃に跳ねた。


(……これもだ。俺がずっと言い続けてきた言葉だ……)


「今自己投資してコンサルを受けないと、あの時受けていればと一生後悔する。今決断できない奴は一生負け組だ」


かつて、高級ホテルのラウンジや画面越しに、偉そうに吐き捨ててきた傲慢なセールストーク。

皮肉なことに、自分が作り上げた「逃げ場を失わせるロジック」に、今の自分自身が完膚なきまでに叩きのめされていた。


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### 逃げ場なき決断


冷や汗が目に入り、視界が滲む。

佐藤から渡された5000円の封筒が、ポケットの中で重鉛のように感じられた。


恐怖、焦燥、そして奇妙な高揚感。

淳平は、かつて自分がカモにした人々が感じていたであろう、あの逃げ場のない「極限の心理状態」に完全に支配されていた。


「……じゃあ、そのサンドイッチセットをお願いします!」


淳平は、吐き捨てるように叫んだ。

それは注文というよりは、白旗を上げるような、あるいは断崖絶壁から身を投じるような悲鳴に近かった。


「はいよ。そんじゃ、ちょいと待ってておくれ」

ダークエルフのシェフは、もう一度不敵にウインクを残すと、軽やかな足取りで厨房の奥へと消えていった。


「美味しいサンドイッチと詐欺商材サンドイッチセット一丁! えらいこっちゃ!」


えらいこっちゃ嬢が、店内に響き渡る声で高らかにオーダーを告げる。

彼女はそのまま「ススス……」と音もなく厨房へ消えたかと思うと、すぐに白く清潔な御絞りを手にして戻ってきた。

彼女は、淳平の前にそれを静かに、そして驚くほど丁寧に置いた。


「…………」

えらいこっちゃ嬢は一言も発さず、ただじっと淳平の目を見つめてから、再び厨房の暖簾の向こうへと姿を消した。


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### 審判の待機時間


カチャ……カチャ……。

シュゥゥゥ……。


厨房からは、何かが焼ける香ばしい音と、ナイフがまな板を叩くリズムの良い音が聞こえてくる。

カウンターに取り残された淳平は、目の前の御絞りを握りしめることもできず、ただ硬直していた。


(もう、後には戻れない……)


支払うべき代金が、残された5000円で足りるのか。

そして何より、「詐欺商材サンドイッチ」という不気味な名前の料理が、自分に何を突きつけてくるのか。

かつて多くの人々を「退路を断つ」という言葉で地獄へ追いやってきた淳平は、今、自らが作り上げた迷宮の中で、逃れられぬ審判の時を待っていた。


緊張で吐き気がする。

だが、漂ってくるサンドイッチの香りは、残酷なほどに淳平の胃を掴んで離さなかった。

厨房の奥から、香ばしく焼き上がった小麦の香りと、瑞々しい野菜の匂いが、目に見えるかのような濃密な湯気と共に漂い出している。


トントン……。

シャッ、シャッ……。


丁寧に具材を切り分ける小気味よい音が止み、二つの影がカウンターへと近づいてくる。

ダークエルフのシェフと割烹着姿のえらいこっちゃ嬢が、二人は示し合わせたかのように、磁器の触れ合う音一つ立てず、極上の宝石を扱うような手つきで淳平の前に二つの皿を置いた。


「これ、セットの珈琲さね。熱いから気を付けなよ」

ダークエルフが、深い漆黒の液体が揺れるカップをそっと傍らに添える。


立ち上る芳醇な苦味が、淳平の鼻腔を優しく、それでいて鋭く刺激した。

淳平は、差し出された二つの皿を交互に見つめ、そのあまりの対比に大きく目を見開いた。


---


### 対極の重み


一つ目の皿。そこに乗っていたのは、まさに淳平が心から切望していた「あの思い出のサンドイッチ」そのものだった。


ツナと胡瓜のサンドイッチ。

絶妙な塩梅で和えられたツナマヨがパンの隙間からはち切れんばかりに覗き、薄くスライスされた胡瓜が、瑞々しい緑のアクセントを添えている。


そして、ハムサンドイッチ。

幾層にも重なった厚切りのハムが、溢れんばかりの新鮮なレタスと共にぎっしりと詰め込まれている。

レタスの葉脈がピンと張り、一噛みすれば「シャキッ」と快音を鳴らすであろうことが、見ただけで伝わってきた。

それは、かつて母が「お腹空くと、気が沈んじゃうよ」と笑いながら作ってくれた、愛の塊のような重厚感だった。


しかし、もう一方の皿――。

えらいこっちゃ嬢が運んできたサンドイッチを一目見た瞬間、淳平の背筋にゾワリとした違和感が走った。


パッと見は、隣のサンドイッチと同じ形をしている。パンは白く、彩りも似ている。

だが、何かが決定的に違う。

表面は滑らかすぎて不自然な光沢を放ち、断面の具材は驚くほど均一で、まるで「そう見えるように」精巧に作られた模型のような無機質さを纏っていた。


「こっちは、詐欺商材サンドイッチ、えらいこっちゃなサンドイッチ。頂きますしてから食べよし」

えらいこっちゃ嬢が、感情の消えた真ん丸な瞳で淳平を射抜き、静かに宣告した。


「それじゃ、ごゆっくり」

ダークエルフはフッと不敵な、けれどどこか慈しみを感じさせる笑みを浮かべると、えらいこっちゃ嬢を伴って、再び暖簾の奥へと消えていった。


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### 断罪前の「頂きます」


静まり返った店内に、淳平の荒い呼吸の音だけが響く。

目の前にある、思い出の具沢山のサンドイッチ。

そして、かつての自分の人生そのもののように、外側だけを美しく取り繕った、中身の知れない「詐欺商材サンドイッチ」。


淳平の指先が、わずかに震えた。

逃げ場を失った空間で、彼はえらいこっちゃ嬢に言われた通り、膝の上で強く握りしめていた拳を解き、胸の前でゆっくりと掌を合わせた。


「……は、はい。どうも。それじゃあ……」


淳平は、自分を裁くような静寂に耐えながら、深く、重く、祈りを捧げるように頭を下げた。


「……頂きます」


合掌した手のひらに、自分自身の体温の熱さと、冷たい脂汗の感覚が混ざり合う。

これまで数え切れないほどの「頂きます」を疎かにし、ただ目先の利益を貪り食ってきた詐欺師・今井淳平が、初めてその言葉の重みに押し潰されそうになりながら、覚悟を決めて顔を上げた。


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## 鏡写しの断罪、中身のない箱


淳平は震える指先で、まずはダークエルフのシェフが運んできた、具がはち切れんばかりに詰まったツナサンドに手を伸ばした。

パンの耳は落とされ、吸い付くように柔らかい白い生地が、指の熱でわずかに沈み込む。

彼は獲物を狙う獣のような形相で、その1切れを大きく口に放り込んだ。


モグッ……シャキッ、シャキ……


軽快な音が脳内に響き渡る。

瑞々しい胡瓜の絶妙な食感、そしてツナの脂を優しく、それでいて力強くまとめ上げる自家製マヨネーズの、独特で深い旨味。

淳平の思考は、その一口で瞬時に過去へと引き戻された。


「……これ、母さんの、味だ」

あまりの懐かしさに、声が震える。


かつて北海道の実家で、出された郷土料理を横に退け、わがままを言って作ってもらったあの思い出の味。

味覚の奥深くに刻まれていた記憶が鮮明に蘇り、淳平は取り憑かれたようにツナサンドを平らげた。


次に、彼は期待に胸を膨らませてハムサンドを掴む。


パリッ、サクッ


一口食べれば分かる、上質なハムの風味。

レタスは驚くほど新鮮で、噛むたびに細胞が弾けるような音がする。

鼻へ抜けるマスタードの刺激とマヨネーズのまろやかな分量が、完璧な黄金比を成していた。


「もう一度、これが食べられるなんて思わなかった。注文して、本当に良かった……」

嗚咽が漏れた。


かつては「普通の生活しかできない連中」と切り捨てた両親。

その母が、自分を思って具をぎっしり詰めてくれたサンドイッチ。

その愛の重みを、今の淳平はようやく理解し、ボロボロと大粒の涙を流しながら完食した。


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### 空虚なる虚像


淳平は、余韻に浸りながらセットの珈琲を一口含んだ。


ズズッ……

深い苦味と芳醇な香りが、荒んだ心に染み渡る。

しかし、その安らぎも束の間。


彼の視線は、隣の皿に置かれた「詐欺商材サンドイッチ」へと向けられた。


見た目は、先ほどの極上品と見紛うばかりの出来栄えだ。

パンの間からはたっぷりのツナと、分厚いハムが顔を覗かせている。

淳平は、えらいこっちゃ嬢の不気味な視線を背中に感じながら、恐る恐るその1切れを口に運んだ。


ボソッ……ボソボソ……


「え……?」

淳平は目を白黒させた。


パンは、水分を完全に失ってパサパサと崩れ、喉を通りにくい。

マスタードの香りも、マヨネーズのコクも、一切感じられない。

まるで、味のしない乾燥した粘土を噛んでいるかのようだった。


嫌な予感が、心臓を冷たく撫でる。

彼は思わず、上のパンをそっと剥がしてみた。

その下にあった光景に、淳平は絶句した。


「……なんだ、これ」


ツナは、外から見える断面のわずか数ミリの部分にだけ、薄く張り付けられていた。

その内側には何もなかった。

ただ、乾燥して硬くなったパンが、虚無を曝け出しているだけだった。


もしかしてと思い、彼はハムサンドもバラバラに分解してみる。


ガタッ

椅子が鳴るほどに動揺した。


分厚いハムだと思っていたのは、端切れを断面に集めて「厚みがあるように見せていただけ」のもの。

その奥には、萎びたレタスの欠片がちんまりと置かれているだけで、中身は完全にスカスカだった。


「なんだこりゃ! 外から見るとあんなに具があるように見えるのに。こんなの……詐欺じゃないか!」


怒鳴り声を上げかけた淳平だったが、その言葉が、自分自身の魂を切り裂く刃となって跳ね返ってきた。

外見だけを美しく飾り、中身のないスカスカなものを「最高の商品」と偽って売り捌いていた、自分自身の人生。

それこそが、今、この皿の上に再現されていたのだ。


淳平は、サンドイッチに「詐欺」という名前が付けられていた真意を、震える心臓の音と共に理解した。


ガタガタガタ……


彼を襲ったのは、声を上げて自分をここまで追い詰めた詐欺被害者への怒りではなく、自分という人間の底知れない空虚さへの、逃げ場のない恐怖だった。


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## 鏡写しの断罪と、艶やかな来訪者


「……金かかってるし、勿体ないから食べるけどさ。何なんだよこれ。こんなんで金取ったら普通に詐欺だし、控えめに言ってぼったくりだろ」

淳平は毒づきながら、スカスカの「詐欺商材サンドイッチ」のパンの端を千切り、無理やり口に押し込んだ。


ボソボソとした味気ない食感。

喉を通るたびに、かつて自分が他人に売りつけてきた「中身のない価値」が、物理的な不快感となって胃に溜まっていく。

彼はたまらず、熱い珈琲を流し込んだ。


ズズッ……


その時、厨房の暖簾からダークエルフのシェフが、可笑しそうに、けれど深くため息をつきながら顔を出した。

「おや? 詐欺師あんちゃんは、てっきりそっちの方がお好みかと思ったんだけどねえ」


「いやいや、そんなわけないじゃないか! さっき食べた具がぎっしり詰まった方が好きに決まってるよ」

淳平は乾いた笑い声を上げ、必死に「まともな感覚」を持っていることをアピールした。

だが、その笑顔の裏には、己の過去を鋭く抉られたような、消えない痛みが疼いていた。


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### 「鬼のギャル」の降臨、シゴデキ鬼美少女参戦


ガラガラッ


突如として、店の引き戸が勢いよく開いた。

夜の冷気が一瞬だけ店内に流れ込み、淳平は音の方を反射的に振り返った。

その瞬間、彼はダークエルフを見た時以上の衝撃に、文字通り度肝を抜かれることになった。


そこに立っていたのは、女子高生くらいの年頃に見える、息を呑むほどに美しい金髪の美少女だった。

しかし、その姿はあまりにも浮世離れしていた。


漆黒の生地に眩い金色の花刺繍があつらえられた、豪奢な着物を艶やかに着こなしている。

その頭部からは、左右に黒く鋭い、死神の鎌のような形状をした二本の角が天を突くように生えていた。

金色の瞳は爛々と輝き、長い金髪はシュシュによって左側でサイドテール状に束ねられている。


和風の装いでありながら、醸し出している空気感は紛れもなく「ギャル」そのもの。

美しさと凶暴なまでの魔性が共存する、圧倒的な存在感だった。


女鬼じょきねえちゃん、いらっしゃい! 流石のグッドタイミング! えらいこっちゃな超絶シゴデキ鬼美少女!」


えらいこっちゃ嬢が、いつになく興奮した様子で小さな手をぶんぶんと振り、彼女を迎えた。

厨房からは、ダークエルフのシェフも満面の笑みを浮かべる。


「女鬼ちゃん、御疲れさん。準備はばっちりさね」

彼女はパチンとウインクをし、手を挙げて挨拶を交わした。


女鬼と呼ばれた超絶美少女は、ふわりと着物の裾を揺らしながら、妖艶な笑みを浮かべてウインクを返した。


「えらいこっちゃん、ダークエルフちゃん、地蔵店長、おつー♪ あはは、お褒めに預かり光栄の至りってね♪さっすが超絶シゴデキダークエルフちゃん、準備バッチリっぽいねー♪ そんじゃ、お邪魔しまーす♪」


彼女の声は、鈴を転がすように軽やかで、それでいて場を制圧するような不思議な重みがあった。

優雅な、それでいてどこか奔放な動きで、女鬼は淳平の数席隣のカウンター席までやって来た。

漂ってくるのは、花の香りと、どこか焦げたような微かな熱の匂い。


淳平は、口に含んだパンを飲み込むことも忘れ、ただ呆然と、その「鬼美少女」を見つめることしかできなかった。


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カウンター席まで優雅な足取りでやって来た女鬼に対し、厨房の奥からダークエルフが顔を出し、親しげに声をかけた。

「女鬼ちゃん、お疲れさん。仕事終わりの楽しみはばっちり用意してるからね。サンドイッチも焼きたてのパンも準備万端さ。終わったらみんなで盛大に食べようじゃないか」


「やったー♪ ダークエルフちゃんのパン、マジで最高だし! 楽しみにしてるねー♪」

先程までの神秘的な雰囲気とは打って変わって、女鬼は女子高生らしい弾けるような笑顔を見せる。

しかし、彼女の視線が淳平の前の空になった皿に向けられた瞬間、その金色の瞳にスッと理知的な光が宿った。


「あ、詐欺師あんちゃんも、準備できたみたいじゃん」


女鬼はそう言うと、持っていた風呂敷包みをカウンターの上へそっと置いた。

その動作は、派手なギャルの風貌からは想像もつかないほど丁寧で、指先の動き一つひとつが洗練された美しさを放っている。

淳平は、まるで高級料亭の女将のようなその所作に思わず見惚れてしまったが、彼女の吐いた「言葉」を思い出し、すぐさま我に返った。


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### 暴かれる「過去帳」


「あ、あのさ。みんなして俺を『詐欺師』呼ばわりするけど、俺は詐欺師じゃないよ! 失礼なこと言わないでくれ!」


淳平は、込み上げる屈辱感に耐えかねて反論した。


「そりゃあ、昔は少し無茶なビジネスをしたこともあったかもしれない。でも、俺はもう十分すぎるほど制裁を受けてきたんだ。十年以上も底辺で這いずり回って……。大体、あんたたちは俺の何を知ってそんなことを言ってるんだよ!」


その瞬間。


店内の空気が凍りついた。

女鬼の顔から、先程までの人懐っこい笑顔が完全に消失する。

彼女は打って変わって、深淵の底を思わせるような冷徹な表情になり、カウンターの風呂敷包みを静かに解いた。


中から現れたのは、最新式のタブレット端末と、古びた和紙で作られた一冊の折本。

その表紙には、達筆な墨書きで「過去帳写し:今井淳平」と記されていた。


女鬼は過去帳を手に取ると、パラパラと流れるような動作でそれを広げた。

「……へぇ。俺の何を知ってるのか、ねぇ?」


彼女は淡々と、しかし突き放すような冷たい声で読み上げ始める。

「月収300万という虚偽のブランディング。……代金を受け取りながら、未完成の商材を渡し、結局最後まで完成させずに放置。……コンサルティングと称したスカイプ面談では、相手を舐めきって遅刻の常習犯。……出身地は北海道の……」


「な、何で……何でそんなことまで……!?」

淳平の顔から血の気が引き、真っ青を通り越して土気色に変わっていく。

それは誰にも話したことのない、ネットの掲示板にさえ書かれていないような、自分の内側にある「不誠実の記録」そのものだった。


「や、やめてくれ! 頼むからもう読まないでくれ!」


「『何を知っているのか』って言われたから、ただ知り得ることを言っただけなんだけど?」

女鬼は冷ややかなウインクを投げ、言葉を継いだ。


「なんなら、今日の面接でいきなりタメ口を叩いて、同級生に愛想を尽かされた件についても詳しく話そうか?」


「た、頼むから、もうやめてくれ……っ!」

淳平は耐えきれず、カウンターに突っ伏すようにして両手で頭を抱え込んだ。


目の前の少女達が何者なのか、この店が何なのか、もう理解しようとする気力すら湧かない。

ただ一つ確かなのは、自分の人生のすべてが、この異形の者たちには筒抜けであるということだった。


「わかった……わかったから……。あんたたちが何者か知らないけど、俺のことは全部バレてるって信じるよ。だから……それ以上は……」


震える声で懇願する淳平の背中に、厨房から漂う香ばしいパンの匂いだけが、残酷なほど優しく降り注いでいた。


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## 鏡写しの断罪と、空虚な「ビジネス」


淳平が頭を抱えてうなだれる中、カウンターの向こう側からえらいこっちゃ嬢の、冷徹で容赦のない宣告が飛んできた。


「詐欺の償いせんと、事実から目を逸らしとる、えらいこっちゃ」

ビシィッ! と、小さな人差し指が淳平の鼻先を指す。


「……っ!」

淳平は弾かれたように顔を上げた。その顔は屈辱と焦燥で真っ赤に染まり、額からはドロりとした脂汗が滴り落ちる。


「だから! 詐欺みたいなことをしちゃったかもしれないけど、それはもう十数年も昔の話じゃないか! ちゃんと返金出来る人には返金もしたし、これまでの惨めな生活で十分に償ったはずだ! 大体、この鬼みたいな子はともかく……店員のえらいこっちゃんと、その、ダークエルフさん? 二人とも失礼すぎるだろ! さっきから詐欺師、詐欺師って……俺は『客』だぞ!? 客を捕まえて何なんだよ、その態度は!」


怒鳴り散らす淳平の声が、静かな店内に虚しく響き渡る。

しかし、その必死の叫びを聞いた女鬼は、ふぅー……と、心底退屈そうに長い溜息を吐き出した。


「鬼みたいな子かー。あーしはマジモンの鬼なんだけどねー。人間の常識で叫ばれても、マジでレスバする気も起きないっていうかさー。」

彼女は金髪のサイドテールを指先で弄びながら、憐れみのこもった金色の瞳で淳平を流し見た。


そして、厨房の奥から身を乗り出したダークエルフのシェフが、片方の眉を跳ね上げ、心底不思議そうに首をかしげた。

「おや? 驚いたねぇ。詐欺師のあんちゃんは、自分のことを『客』だと思っていたのかい?」


「いや、当然だろ! 何を言ってるんだ、俺はちゃんと注文したし、金だって……さっき佐藤君に貰った5000円、これでちゃんと払うって言ってるだろ!」

淳平はポケットを叩き、唯一の拠り所である現金を盾にして声を荒らげた。


だが、ダークエルフは納得するどころか、さらに深く、暗く、絶望的なまでに呆れ果てた溜息を漏らした。


「ハァ……」

その溜息一つで、店内の空気が一気に冷え込む。ダークエルフの青い瞳が、鋭い刃物のように淳平を射抜いた。


「だって、あんちゃん自身の『ビジネス』じゃあ、『御客様扱いしない』のがモットーだったんじゃないのかい? 自分の『』コンサル生』には『甘えを捨てさせるために客扱いはしない』なんてのたまって、徹底的に追い込んでいた。なのに、アタイ達には自分を客扱いしろってのかい? そいつは、いくらなんでもムシが良すぎやしないかねぇ」


「えらいこっちゃなダブスタブーメラン!」

えらいこっちゃ嬢が、これ以上ないタイミングで、びしっと腰に手を当てて言い放つ。


「い、いや、それは……あの時は、その、御客様扱いして甘やかさないとか、本気で成功させるための、そういう意味で……」

淳平は必死に言葉を絞り出すが、その声は力なく、嘘の重みに耐えきれずに震えていた。


ダークエルフは、もはや怒りすら通り越した、冷ややかな沈黙をしばらく保った。そして、首をゆっくりと振りながら、絞り出すように言った。

「あんちゃん、よくそれで『ビジネス』だとかのたまって、客商売をやってたもんだねぇ。あんたがやってたのは、ただの搾取だよ。まさか、商売の「いろは」すら知らないとか、そっから説明してやらないといけないのかい?」


彼女の言葉は、十数年の時を経てなお、中身がスカスカのままだった淳平の魂を、容赦なく暴き立てていた。

淳平は、かつて自分が吐き出した理屈という名の「呪い」に、今、自分自身ががんじがらめに縛り付けられていることを、逃れようのない事実として突きつけられていた。


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ダークエルフは、カウンターに身を乗り出すようにして、諭すような、けれど芯の冷え切った声で言葉を紡ぎ出した。


「あのねえ、金銭のやり取りが発生している時点で、どうしたってその相手には『御客様・顧客』、呼び方はクライアントってのもあるけどさ、そういう属性がつくわけ。ここまではいいかい?」


彼女の青い瞳が、逃げ道を塞ぐように淳平の視線を捕らえて離さない。

淳平は、蛇に睨まれた蛙のように、小さく頷くことしかできなかった。


「だからね、提供者側、あんちゃんならコンサルティングサービスを提供する側が『御客様扱いしない』なんて言っちゃいけないのさ。御客様自身が自分を戒めるための心構えとして『自分を御客様扱いさせないように心がけよう、客だからと言って偉そうにしないようにしよう』ってんならわかるけどさ。お金を貰ってる側がそれを口にしちゃ、単なる怠慢や不出来、あるいは傲慢に振る舞うための卑怯な言い訳にしかならないんだよ」

その言葉は、淳平がかつて「厳しさ」という美名の下に隠蔽してきた、自らの不誠実さを真っ向から叩き斬るものだった。


「さっすがダークエルフちゃん♪ パン屋として客商売を長年ガチでやってるからこその説得力だよねー、マジ尊敬♪」

女鬼が、パチパチと軽い音を立てて拍手を送りながら、はじけるような笑顔を添える。


「ふふ、ありがとさん♪」

ダークエルフは一瞬だけ柔らかな笑みを浮かべて応えたが、再び淳平に向き直ったその表情は、先ほどよりも一層鋭く、冷ややかな氷の刃へと変貌していた。


「御客様扱いしてなかったから、平気で遅刻して御客様を待たせたり予定変更させてもお構いなし、高いお金を取っておきながら見下して、『向いてないからやめろ』とか『時間の無駄』だとか、そんな失礼なことを平気で吐き捨てられたのかい?」


ゾクッ……


淳平の背筋を、耐え難い悪寒が走り抜ける。

ダークエルフの射抜くような視線は、もはや淳平の肉体ではなく、その奥に隠した醜い本性を直接引き摺り出そうとしているかのようだった。


「それは、その……」

淳平の唇が、酸素を求める魚のように力なく動くが、言葉は形にならない。


「そもそも、コンサルティングの在り方ってさ、基本理念としては『御客様の成果が出ない、あるいは失敗したら、それは教えた側である自分の責任。成功したら、それは御客様自身が努力したから』ってのがあるんじゃないのかい? まあ、理想的な在り方ってなだけで、絶対じゃないし、強制もできないけどさ」


ダークエルフはそこで言葉を切り、深く、深く、奈落の底まで届くようなため息を吐き出した。


「だけど、詐欺師あんちゃんはそれと真逆じゃないか。『成果が出れば教えた自分のおかげ、失敗したら客の努力が足りない、客が人のせいにしているから稼げない、客が悪い、客の自己責任』って。それ、典型的な傲慢詐欺師の思考そのものだよ」


彼女は、もはや怒りを見せることすら無駄だと言わんばかりの、完全に呆れ果てた表情で淳平を見下ろした。


「アタイから観りゃさ、詐欺師あんちゃんは典型的な傲慢成金が、辿り着くべくして辿り着いた悲しい成れの果てに思えるさね」


その一言が、最後の一撃となった。


淳平は、ただただ愕然として、開いた口が塞がらないまま固まっていた。

反論の言葉など、塵一つ浮かんではこない。


自分の誇りだと思っていた「ビジネス」の正体が、ただの自己中心的な略奪であったことを、これ以上ないほど鮮明な鏡で突きつけられたのだ。

彼は石像のように硬直したまま、自分の内側が音を立てて崩れ落ちていく感覚に、ただ震えることしかできなかった。


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女鬼は手元のタブレットを「カタッ」と軽い音を立ててカウンターに置くと、心底呆れたように深い溜息を吐き出した。


「この様子だとさ、自分の『商品』が一体何なのかすら、これっぽっちも分かって無さそうだねー」


「……自分、の……商品……?」

淳平は、彼女の言葉を力なく復唱するのが精一杯だった。思考が泥沼に足を取られたように重く、視界がチカチカと明滅する。


ダークエルフのシェフは、腕を組んで淳平を真っ直ぐに射抜いた。

「なんだか答えられるかい? あんちゃんがかつて、高額な金をふっ掛けて売り捌いていたモノの正体をさ」


淳平は、必死に過去の記憶の断片を繋ぎ合わせようと、脂汗を流しながら言葉を絞り出した。

「それは……アフィリエイトの、ノウハウが書かれた、マニュアルとか。あとは、俺が培ってきた、知識とか……」


「確かに、それもあるね。けど、それはまだほんの一部さね。最も大事な、核となるものがスッポリと抜け落ちちゃってるよ」

ダークエルフの声には、誤魔化しを許さない冷徹な響きがあった。


淳平は、焼けるような焦燥感の中で必死に頭を回転させた。

だが、どれだけ脳細胞を酷使しても、彼女が求める「正解」には辿り着けない。


「あの、それはいったい……何なんですか」

ついに淳平は、白旗を上げるように、観念した面持ちで尋ねた。


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ダークエルフは不敵な笑みを浮かべ、さらなる追撃を仕掛けてきた。

「おや、もう答えを聞いちゃっていいのかい? 自分の御客さんには『簡単に答えを渡さないのが相手の為になる』なんて嘯いて、質問を煙に巻いて突き放しまくっていた割りには、あんちゃん自身は随分とあっさり答えを聞いちゃうんだねぇ」


彼女の言葉は、淳平がかつて『コンサル生』をマインド論で言いくるめるために使っていた、卑怯な盾を粉々に粉砕した。


「それとも……本当は質問されても答えられないのを隠すための、ただの言い訳にしていたのかい?」


「……っ!」

淳平は、最早何も言えなくなった。喉の奥が引き攣れ、胃の底から苦いものがせり上がってくる。


「ま、いじわるする気は無いし、あんちゃんにとっては後の祭りだからいいけどさ。ただ、アタイが口に出して伝えた時点で、あんちゃん自身の力で答えに辿り着けなかったという事実は、永劫に残るって事だけは覚えておきな」


ダークエルフは、冷ややかにウインクを投げてから、言葉の刃を突き立てた。


「それはね『御客様が価格に見合った結果、もしくは価格に見合った以上の結果を手にする事』さね。マニュアルや知識なんてものは、その為のただの付属品に過ぎないんだよ。そんで、あんちゃんはお金を頂いたお客様全員に、その商品を渡したのかい?そして、渡せなかった人がいたら、きちんと冷や汗かいたうえで責任もって返金したのかい?」


重苦しい沈黙が、店内の空気を押し潰す。淳平の唇が、小刻みに震えた。

「……いいえ」


「つまり、あんちゃんはお金だけ受け取って、商品を渡さなかった。……そんなんだから、詐欺って言われるのさ。当然だろ?」

ダークエルフは、カウンターに身を乗り出し、淳平の顔を覗き込むようにして諭した。


「もしアタイが、大切な御客様からお金だけ貰っておいて、商品であるこのパンを渡さなかったら、あんちゃんはどう考え、そしてどう思う? 不誠実極まりないし、詐欺だと言われても仕方ないと思わないかい? ここまで言えば、もう自分が何をしてきたか、わかったんじゃないのかい?」


ダークエルフの声は、怒鳴るよりも遥かに鋭く、淳平の魂の奥底まで突き刺さった。

逃げ場はない。言い訳も通用しない。

自分が「ビジネス」と呼んで誇っていたものの正体は、ただの空虚な、中身のない箱を売りつける卑劣な行為だったのだ。


淳平は、耐えきれずにカウンター席で自分の顔を両手で覆った。


「う、あ……あぁ……っ……!」


指の間から、熱い涙と冷たい脂汗が混じり合って溢れ出す。

自らの罪の重さと、取り返しのつかない不誠実さに、淳平はただ、ガタガタと激しく震え上がるしかなかった。


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##剥がされる虚飾、鬼の審判


打ちひしがれ、カウンターに突っ伏して震える淳平。


しかし、この場に集った異形の者たちに「慈悲」という甘い言葉は存在しなかった。

特に、シゴデキ鬼美少女である女鬼の追撃は、止まることを知らない。


「そもそもさあ……『コンサル生』とか『受講生』って何なん?」


女鬼は、長い爪が彩られた指先で、手元のタブレット端末を「シュッ、シュッ」と鮮やかに操作した。そして、その画面を淳平の目の前に突きつける。

そこには、淳平が10数年前に証拠隠滅の意味も込めて完全に削除したはずのブログ記事、そして今はなき数々のSNSアカウントでの投稿が、まるで昨日のことのように鮮明に映し出されていた。


「な……それは!? だって、もう削除したから見る事なんてできないはずなのに!? ウェブ魚拓にすら取られていないはずのものまで、なんで……っ!」


淳平の目が、驚愕でこぼれ落ちそうになる。ネットの海から消し去ったはずの、自らの醜い足跡。

それが、逃れようのない事実として目の前に並んでいる。


「過去の行いは消せないし、その『ごう』は消えないってこと。そんでさ、この『コンサル生』って何? ……生の昆布とか、棍棒持った猿か何か? 語感からしてマジ意味不明なんだけど」

女鬼は首をコテンと左に傾げ、心底不思議そうに尋ねる。


「コンサルティングを受けるお客様って、あんたの御客様であって『生徒』じゃないよね? それとも何?あんたは学校でも運営してたん? 教育者気取りだったわけ?」

今度は反対側に首を傾げ、冷ややかな金色の瞳で淳平を射抜く。


「……っ、それは、その……」


「『コンサルタントとお客様は対等で、どっちが上とか下とかない』。……へぇ、あんたのブログにそう書いてあるね」


女鬼は、かつての淳平がもっともらしく綴った記事の一節を表示させ、一旦言葉を区切った。

しかし、次の瞬間、彼女の瞳からは体温が完全に消失した。


「でもさー、お客様扱いしないで生徒扱いする『コンサル生』なんて呼び方して、その結果が、人生経験も浅い若造の甘ちゃんが偉そうにお客様を見下すとか、なんなん? マジでどの口が『対等』とか言ってんの? 詐欺師あんちゃん、対等どころかさー、あんたが一番お客様を見下してんじゃん」


吐き捨てるような言葉が、淳平の心臓を無慈悲に踏みつける。


「それに、この『月収300万』ってさ。コンスタントに稼げてたわけじゃないよね?月収0円の時もザラだったのに、一回跳ねただけの数字を『月収』って看板にして掲げたの、なんで?」


「もう、やめてくれ……っ!」

淳平の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。

声にならない悲鳴を上げ、彼は耳を塞ごうとする。


しかし、女鬼の言葉は防壁を突き抜けて脳髄に直接響く。

「不誠実とはったりで大金が舞い込んだことで、運よく成功した風に見えただけ。それを自分の実力だと錯覚して、その成れの果てが、今の惨めな詐欺師あんちゃんってわけ。だからさー……」


女鬼はそこで一旦言葉を止め、椅子から立ち上がった。

彼女の額にピキリと青筋が浮かび、柔和だったギャルの風貌が、瞬時にして獲物を引き裂く「本物の鬼」の形相へと変貌する。


「お客様からお金を巻き上げるだけ巻き上げて、商品も渡さない詐欺をやって、その償いもせずにのうのうと生きて、いざ事実を目の当たりにしたら「やめてくれー」って泣きついて目を逸らして逃げ回ってるし。だから、あんたはいつまで経っても詐欺師のままなんよ。故に呼び方は「詐欺師あんちゃん」。おわかり?」


「ヒッ……!」


本物の鬼、その圧倒的な威圧感と殺気に当てられ、淳平は椅子から転げ落ちんばかりに震え上がった。

目の前にいるのは、単なる美しい少女ではない。人の罪を数え、断罪する異界の住人。

自分の犯してきた悪業、隠してきた不誠実さ、そのすべてが白日の下に晒され、逃げ場はどこにもない。


「あ……あぁ……っ……!」


淳平は言葉を失い、喉を鳴らして慟哭した。

佐藤から渡された5000円の封筒を握りしめたまま、自分の人生がどれほど空虚で罪深いものだったかを突きつけられ、ただただ地面に這いつくばるようにして涙を流すことしかできなかった。


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##偽りの償いと、魂の自律


淳平はカウンターに額を擦り付けるようにして、絞り出すような声で訴えた。


「……た、確かに、ダークエルフさんと女鬼さんの言う通りだよ。俺がやってきたことは、最低で、救いようのないことだった……。でも、償いは……その、社会的制裁ならもう十分に受けてるんだ! ネットで叩かれ、住所を晒され、唯一の頼りだった師匠の純也さんにも、ゴミみたいに見捨てられた。今は……今は心を入れ替えて、日払いのアルバイトで泥に塗れて働きながら、必死に就職活動もしてるんだ。これじゃ、これじゃまだ足りないって言うのか……っ」


喉を鳴らしながら、淳平の目からはボタボタと涙が溢れ落ち、カウンターの木目に吸い込まれていく。

震える指先は、ポケットの中の5000円札を、まるですべての罪を洗い流す免罪符であるかのように強く握りしめていた。


しかし、女鬼の金色の瞳には、同情の欠片さえ浮かばなかった。

「あのさ、社会的制裁を受けたなんてのは、単なる『結果』であって、償ったことには一ミリもなんないし。詐欺師あんちゃんさー、あんたからお金取られた人たちの一人ひとりに、直接頭下げて返金したん?」


容赦のない、氷点下の言葉が淳平の脳髄を叩き割る。

「それは……っ」


「してないよね。返金どころか、ブログとかSNSとか消してなかった事にしようとして、連絡先すらブロックして逃げ回ってたんでしょ? なのにどの口が『償った』なんて言えちゃうわけ?」


淳平は、金縛りにあったように口をごもらせた。

過去の自分が切り捨ててきた、数え切れないほどの「絶望した人々の顔」が、脳裏を濁流のように通り過ぎていく。


女鬼は突き放すように鼻で笑った。

「『自分はこんな可哀そうな目に遭いました、だからもう罪はありません、詐欺行為は反省してるから赦してね、ではこの話はおしまい』……なんて、そんな都合のいい話、この世のどこにあるわけ? そんなもん通用するとでも思ってんの?そもそもさ、あんたは可哀そうでも何でもないし、今の惨めな状況は100%、自業自得でしかないかんね。お門違いなんだよ、お涙頂戴はさ」


びしりと突きつけられた真実に、淳平の心は粉々に砕け散った。

淳平は、今度こそ完全に力尽きたように、ガクリとうなだれた。


「それじゃあ……俺は、一体どうすれば……。どうすれば、俺の人生は……」

空虚な問いが、静寂の中に消えていく。


その時、ダークエルフのシェフが、厳しくもどこか温かみのある微かな笑みを浮かべた。


「それこそ、あんちゃん自身の頭で考えて、もがき苦しみながら見つけて行くしかないさね。アタイ達は、あんちゃんの生き方や人生、ましてや生命の責任なんて、何一つ肩代わりしてあげられないんだからさ」

彼女の手は、いつの間にか淳平の前に置かれた空の皿を、慈しむように撫でていた。


「あんちゃんが自分自身を心の底から顧みて、一歩ずつ正していくしかないねー」

女鬼も、先程までの鬼の形相を和らげ、いたずらっぽく、けれど深い慈愛を感じさせる表情で微笑んだ。


沈黙が店を満たす中、ダークエルフ、女鬼、そしてえらいこっちゃ嬢の三人は、自然と視線を一箇所に集めた。

その視線の先――。


カウンターの向こう側で、ずっと静かにすべてを見守っていた地蔵店長が、ゆっくりと動き出した。


地蔵店長は、まるで春の陽光をそのまま形にしたような、限りなく優しい微笑みを浮かべた。

石造りのようでいて温かな質感を持つその掌を、胸の前で静かに、一寸の乱れもなく合わせる。


スッ……


重厚で、それでいて羽根のように軽い所作で、地蔵店長は淳平に向かってゆっくりと腰を折った。

慈悲に満ちた合掌、そして深々としたお辞儀。

その静謐な沈黙の中に、淳平の魂を揺さぶる、途方もない重圧と救済が同居していた。


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淳平は、縋るような想いで視線の先を追い、カウンターの向こう側に静かに佇む地蔵店長を見上げた。

その石造りのような、それでいて陽だまりのような温かさを湛えた相貌は、どこまでも深く、慈しみに満ちている。


「地蔵店長……俺は、俺は一体どうすればいいんですか?何をすれば、この空っぽな自分を変えられるんですか?」


震える声で問う淳平に対し、地蔵店長は絶えることのない優しいお地蔵さん笑顔を向けたまま、静かに口を開いた。

「淳平さんは今まで、御自身の行い、そして御自身の歩んでこられた過去と、真剣に向き合われた事は御座いましたか?」


「いえ、その……。正直に言えば、ありませんでした。自分に都合の悪いことは全部忘れたふりをして……。でも、今日ここで、皆さんから事実を突きつけられて、初めて自分が何をしていたのか、どれほど酷いことをしていたのかを考えさせられました。……俺が、本当に、取り返しのつかない悪いことをしていたんだって気づかされたのも、今、この瞬間が初めてなんです」


淳平の目からは、絶え間なく涙が溢れ出し、カウンターの木肌を濡らしていく。

それは、これまで虚飾で塗り固めてきた彼の人生において、初めて流された「本当の悔恨」の滴であった。


「つまり、今初めて、善き方を向いて一歩進み出す準備が出来たと言ったところでしょうかねえ」


地蔵店長は、すべてを包み込むようなお地蔵さん笑顔で、柔らかくそう告げた。


「準備? こんなに打ちのめされて、何もかも失った俺に、まだ何かの準備ができたと言うんですか?」


「左様で御座います。淳平さんは今まで、己を顧みることなく、現在の御自身の状態、今の立ち位置……いわば『現在地』を全く知らない状態であられました。暗闇の中で、自分がどこに立っているのかも分からず、ただ闇雲に手足をバタつかせていただけの状態です。ですが今、こうして御自身の過去を真っ直ぐに顧みたことで、過去から連なる歩んできた道の到達地である『現在』を、ようやく見定めることが出来たと言えるでしょう」


地蔵店長の声は、不思議な重みを伴って淳平の胸の奥底へと染み渡っていく。

厨房から漂う香ばしいパンの香りと、店内に流れる静謐な空気が、淳平のささくれ立った心を静かに凪いでいく。


「これからの事を考えるならば、やみくもに未来をあれこれこねくり回すのではなく、まずは御自身に『気づく』事。御自身の現在地に気づく事が、何よりも肝要で御座います。今どこにいるのかが分かればこそ、次はどの方向に進むべきかを、初めて御自身の意志で選択できますからね」


地蔵店長は、温かな眼差しで淳平の魂を優しく包み込む。

その微笑みは、迷い子の手を引く慈母のようでもあり、厳しくも温かく導く師のようでもあった。


「では、もう少しだけ、淳平さんの今立っていらっしゃる場所で、過去の行いについてひも解いて参りましょうか。あなたがこれから、正しき道を歩み出されるために」


地蔵店長はそう言って、再びお地蔵さん笑顔を深めると、胸の前で静かに、そして一点の曇りもなく合掌した。

スッ……と、衣が擦れる微かな音だけが響く中、彼は淳平に向かってゆっくりと、慈愛に満ちた深いお辞儀をした。


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## 断罪の法話、燃え盛る貪欲の残り火


地蔵店長は、カウンターの向こう側で静かに目を閉じ、深く、慈しみに満ちた呼吸を一つ吐いた。

そして、その柔和な「お地蔵さん笑顔」を崩さぬまま、鈴を転がすような、しかし魂の芯を揺さぶるような響きで語り始めた。


「詐欺とは、在りもしないものを在ると偽ったり、淳平さんの場合ですと、簡単に、また確実に稼げるわけではないのに、さも簡単で確実に稼げるように見せかけて騙すような形で、他人様から金銭を引き出した事を指します」


地蔵店長の声は、不思議と店内の隅々まで染み渡っていく。

厨房から聞こえていた調理の音も、今は静まり返り、ただ地蔵店長の言葉だけが淳平の耳に突き刺さった。


「この行為を、仏教においては『偸盗ちゅうとう』と言います。偸盗、盗みと言うと、多くの方は窃盗を連想されるでしょうが、他人様の財産を不正に得ようとする事から、詐欺と言う悪業も偸盗と言えましょう」


地蔵店長は、優しく淳平を見つめ、説いていく。


「そして、嘘をつく事、騙したり意図的に誤解を招く行為を、仏教では『妄語もうご』と言います。つまり、詐欺行為は一度に二つの悪業をなしていると言えましょう。この二つ、『偸盗』と『妄語』については、仏教において五つの重要な戒『五戒ごかい』にも、『不偸盗戒ふちゅうとうかい』『不妄語戒ふもうごかい』として含まれている事であり、古くから厳しく戒められている事で御座います」


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地蔵店長は、かつての智慧を紐解くように、言葉を繋いだ。

「この二つ、偸盗と妄語を犯すと、出家者……僧侶の事を比丘びくといいますが、その僧侶達の教団から追放されて、僧侶としての資格も永久に失う事になります。それほどまでの重罪とされていました」


淳平は、その言葉の重みに息が詰まるのを感じた。

自分が「ビジネス」だの「成功者」だのと呼んでいた行いが、古の時代から僧侶の資格を永久に剥奪されるほどの、救いようのない大罪であった。


「現在でも、詐欺行為は法律によって捌かれる事でありますし、今も昔も罪である事には変わりありません。そして、このような事をしてしまうのは「愚か」である事も根底の原因であり、貪りの在り方、仏教では『貪欲とんよく』と言う、根源的な煩悩にも由来する事でありましょう」


地蔵店長は、一歩だけ淳平に近づくように身を乗り出し、優しくも鋭く、彼の魂を射止めた。


「お金が欲しいから、もっともっと欲しいから。そのような欲に駆り立てられて、嘘をついてでも手に入れようとする。そして、その事に気づかぬ愚かさ。そのような煩悩が、淳平さんの内側で業火のごとく燃え盛っていたかどうか。淳平さんは御自身を振り返られて、思い当たるところが御座いませんか?」


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### 鏡の中の餓鬼、欲望の果て


地蔵店長の問いかけに、淳平の思考は、濁流のような記憶の底へと引きずり込まれていった。


(……思い当たる、どころじゃない)

淳平は、目を開けていることすら苦しくなり、強く瞼を閉じた。

すると、暗闇の中に、かつての自分の姿が鮮明に浮かび上がった。


それは、パソコンの画面に映る「売上300万円」という数字を見て、歪んだ笑みを浮かべる自分の顔だった。

通帳の残高が増えるたびに、自分が偉大な人間にでもなったかのような全能感に酔いしれていた。


「まだ足りない」「もっと稼げる」「次は1000万だ」


その時、淳平の心にあったのは、提供する情報の質でも、顧客の将来でもなかった。

ただ、他人の財布から自分への口座へ、いかに効率よく金を移動させるかという「ゲーム」の快感だけだった。


無料相談のメールを送ってくる「ターゲット」たちの切実な悩みさえ、彼にとっては「金を吐き出させるためのスイッチ」にしか見えていなかった。

相手が生活費を削って、あるいは借金をしてまで振り込んできた金の重みを、淳平は一度も想像したことがなかった。

ただ、その金でブランド品を買い、高級な酒を煽り、自分を見守ってくれていた両親を「敗け組」と切り捨てて優越感に浸る。


(俺は……なんて醜い『貪欲』に支配されていたんだ)


「……あ、あぁ……」

淳平の口から、乾いた呻きが漏れた。

地蔵店長に指摘されるまで、自分はそれを「野心」や「向上心」だと言い聞かせていた。


だが、その正体は、どこまで食っても満たされない、醜く腹の膨れた「餓鬼」そのものだった。

他人の人生を枯らし、自らの欲を満たすためだけに嘘を積み上げた、空っぽな怪物。


淳平は、自分の内に巣食っていたその真っ黒な煩悩と、初めて正面から対峙した。

そのあまりの汚らしさに、吐き気がした。

震える両手で自分の顔を覆い、逃げ場のない真実の重みに、ただただ嗚咽を漏らすしかなかった。


淳平が己の内に潜む、どす黒く肥大化した欲望の化身――「餓鬼」の姿を見つめて震えていると、カウンターの端で頬杖をついていた女鬼が、鼻を鳴らして冷ややかな笑みを浮かべた。


「あーしに言わせてもらえば、今あんちゃんが頭ん中で『餓鬼』を想像してんなら、ある意味、大正解。まさに今のあんちゃんには、三つの意味でその言葉がピッタリだし」


女鬼は指を三本立てて、一つずつ折ってみせる。


「一つ目は、文字通り貪欲に突き動かされて『餓鬼道』を全力で爆走してたって意味。二つ目は、中身がスカスカのくせに欲求だけは一人前な、あんちゃん自身が『餓鬼』そのものになり果ててたって意味。そして最後、娑婆しゃばでの意味……つまり、世間も社会の厳しさもこれっぽっちも分かってねえ、ただの痛い『クソガキ』だったって意味。マジで、これ以上の適役いないんじゃない?」


「うっ……」

淳平は言葉のつぶてを浴び、さらに身を縮めた。


すると、地蔵店長が静かに、しかし「ぴしゃり」と響くような厳格さを伴ってお地蔵さん笑顔で言葉を添えた。


「女鬼さんが一つ目として示して下さった通り、仏教では、貪りの者が落ちる所を餓鬼道と言います。餓鬼とはまさに、永遠に飢えと渇きに苦しみ、どれだけ貪っても決して満たされることのない哀れな存在。まさに淳平さんが歩んできた道と言ったところでありましょうか」


店長の声は、優しくも鋭い。


「肝要は、餓鬼となってしまった御自身を『調ととのえる』事。餓鬼道から脱し、善の道へ踏み出すことで御座います」


「餓鬼道から、善の道へ……」


淳平は、涙でかすむ視線を店長に向けた。

「善の道って、俺に何ができるんですか? 壊して、奪ってばかりだった俺に……」


地蔵店長は、すべてを許容し、なおかつ正しき方へ導くような、限りなく深い慈悲を湛えたお地蔵さん笑顔で淳平を見つめる。

「御自身の為してきた悪行に気づいたのであれば、その逆の善をなし、善行を積み上げる事です。奪ったのであれば与え、嘘をついたのであれば真実を語り、傲慢であったのなら謙虚に尽くす。そうして、一歩ずつ功徳くどくを積んでいくので御座います」


「善行を積む……。悪い事をしないで、これからは良い事をしていけば……それで、俺はやり直せるんですか?」

淳平は、暗闇の中で一本の細い糸を見つけたような思いで、縋るように問いかけた。


「左様で御座います」

地蔵店長は、ニコニコとした満面の「お地蔵さん笑顔」で深く頷いた。


そして、胸の前で大きな、温かな掌を静かに合わせる。


スッ……


その合掌は、揺るぎない確信と、淳平への深い期待を込めた祈りのようでもあった。

店長はそのまま、淳平の魂を真っ直ぐに祝福し、鼓舞するかのように、ゆっくりと、そして深く、丁寧にお辞儀をした。


静まり返った店内に、衣が擦れる微かな音と、淳平の漏らす震える吐息だけが、美しく、重く響いていた。


---


## 奪う者から贈る者へ:慈悲の指針


淳平は、涙に濡れた顔をゆっくりと上げ、地蔵店長の底知れない慈愛を湛えた瞳を見つめた。


「善行……具体的には、どんな善い事をすればいいんでしょうか。それも、やっぱり自分で考えなきゃいけないんですよね?」


その問いは、かつて「答えは自分で見つけろ」と他人を突き放していた男の口から出た、初めての真摯な救いへの渇望だった。

地蔵店長は、春風のようなお地蔵さん笑顔を絶やすことなく答えた。


「仰る通り、これから先、御自身で善き事と思われることをなしてゆく事なりましょう。ただ、淳平さんが善いと思っている事でも、相手にとっては迷惑千万と言う事も多々御座います」


その言葉に、淳平はハッとして肩を揺らした。

良かれと思ってしたことが、実は己の虚栄心を満たすためだけのものではなかったか。

そんな不安が、彼の心を過る。


「独りよがりの善、独善となってしまったり、善の押し付けとなってしまい、かえって悪をなしてしまわない為に、指標を一つお渡ししてみましょうか」

地蔵店長の声は、深い森の静寂に響く鐘の音のように、淳平の脳髄に染み渡っていった。


「『慈悲じひ』と言う言葉を御存じでしょうか。この慈悲に『喜捨きしゃ』をあわせ、仏教においては『四無量心しむりょうしん』として教えて下さっています」

地蔵店長は、穏やかな所作で語りかける。


「『慈悲喜捨じひきしゃ』。生きとし生けるものを慈しみ、苦を取り除き、他者の安楽を嫉妬せずに幸福を喜び、愛憎怨親や依怙贔屓といった偏った気持ちを持たず平等な心を持つ、という教えです」


淳平は、その一語一語を零さないように、懸命に頭を回転させた。

これまで自分が持ち合わせていたのは、SNSで見かける自分より稼いでいる他者の安楽への嫉妬であり、自分にとって利益があるかないかという、極めて偏った自分だけが幸福になればよい、お金持ちになればよいという意地汚い心だけだったからだ。


「仏教の本や御法話にて、基本的には、このように説かれる事、教わる事となりましょう。私はそれに加えて、次ような事も『慈悲喜捨』と言う教えに見出しております。私は「布施行」の教えと共に、この慈悲喜捨を次のようにも頂いております」


地蔵店長は、一息おいてから、より深く、より具体的に言葉を紡いだ。


「生きとし生けるものを慈しみ、悲しみに寄り添い苦を取り除き、他社の安楽や幸福を喜び、和顔わげん愛語あいごの布施を持って祝福し、時には御祝いの品をお受け取り頂き、その贈り物をしたという事を捨てて見返りを求めない事。「慈悲喜捨」について、このような頂き方も御座います」


地蔵店長は、淳平がその教えを内側で静かに咀嚼し、消化しているのを見届けるように、沈黙を置いた。


---


シーン……


店内に、重厚な静寂が満ちていく。

淳平の心の中で、かつての不誠実な自分と、今提示された清らかな在り方が激しくぶつかり合っていた。

その葛藤を慈しむように、地蔵店長は笑顔を深め、確信に満ちた声を放った。


「淳平さんは、今までは他者にゆさぶりをかけて、時にはだますようなことをして、都合よく財産を引き出して懐に収めて来ました。しかも、御客様から頂いた財に対して渡すべき見返りも中途半端なまま、時には全く渡すことなく過ごされました。まさに布施や慈悲喜捨の在り方の逆ですね」


淳平は、その指摘に心臓を素手で掴まれたような衝撃を覚えた。


「今度は、過去に犯した事の逆、つまり、布施する側になる事で、淳平さんからの布施をお受け取り頂く。そうして徳を積んで行かれては如何でありましょうか」


「俺が、布施を……。奪う側じゃなくて、与える側に……」


「もちろん、やり方や、実際に布施をされるかという事それ自体も、強制は出来ません。それこそ、私からすれば『あなた次第』と言う事で御座います」


地蔵店長は、そこで一瞬、射抜くような鋭い光をその瞳に宿した。


「淳平さんはこれまで『稼げるかどうかはあなた次第』と、言い逃れに使っていらっしゃったこの言葉を、今度は『自分次第』として、善き道を歩む際の戒めにしてみては如何でしょうかねえ」


それは、優しくも苛烈な、魂の矯正だった。

かつて他人の失敗を突き放すための逃げ口上にしていた言葉が、今、自分を律するための重い責任の鎖へと変わる。


「奪う側から贈る側。上から目線で『くれてやる、与えてやる』ではなく、見返りを求めず『贈らせて頂く』として徳を積んでいく。このことを一つの指標として持ち、小さなことから実践していくと、徳を積んでいけるのではなかろうかと存じます」


地蔵店長はそう締めくくると、お地蔵さん笑顔で、そっと両手を合わせた。

指の先まで神経の行き届いた、美しくも威厳のある合掌。

そして彼は、かつての詐欺師に対し、一人の修行僧を導く師としての敬意を込め、深々とお辞儀をした。


淳平は、そのお辞儀の深さに、己の人生を丸ごと洗い流されるような感覚を覚え、ただ立ち尽くしていた。


---


##餓鬼の目覚め、善き道の始まり


ガタッ!


淳平は震える膝に力を込め、椅子を鳴らして立ち上がった。

その瞳には、先程までの卑屈な逃避や、保身のための虚勢はもう微塵も残っていない。

ただ、己の罪の深さを真正面から見つめ、絶望の淵でようやく見つけた一条の光を離すまいとする、剥き出しの意志が宿っていた。


「……地蔵店長さん。俺は、今まで人から最低なお金の奪い方をしてしまいました。口先だけで人を動かして、中身のないものを売りつけて……。でも、今、本気の……本気の本気で反省しています。俺、今度はちゃんと、奪う側じゃなくて、与える側……贈る側になります」


淳平はそう言い切ると、腰を深く折った。

スッ……と空気を切るような音を立てて、彼は地蔵店長に向かって深々とお辞儀をした。その背中は、かつての傲慢な自信に満ちたものとは対照的に、どこか小さく、けれど確かな重みを携えていた。


「皆さん、本当に……本当に有難うございました」


淳平は顔を上げると、今度はカウンターの向こうの三人に向き直った。

ダークエルフのシェフ、女鬼、そしてえらいこっちゃ嬢。自分を完膚なきまでに打ちのめし、そして再生への指標を示してくれた彼女たちへ、心からの感謝を込めて再び深く頭を下げた。


「ん、いい顔になったじゃん、淳平さん♪」

金色の瞳を細め、女鬼が初めて彼の名を呼んだ。その声には、先程までの刺すような冷たさはなく、新しい門出を祝うような清々しさが溢れていた。


「ふふ。もう、大丈夫そうだね、淳平さん」

ダークエルフもまた、その凛々しい美貌を和らげ、温かな微笑みを浮かべた。彼女達が名前を呼んだその瞬間、淳平の中で「詐欺師・今井淳平」という過去の残像が静かに崩れ去り、「今井淳平」と言う、一人の人間としての新しい鼓動が始まった。


ぴょんっ!


「わっ……」

驚く淳平の目の前で、えらいこっちゃ嬢が小柄な体で椅子に飛び乗り、身を乗り出してきた。

彼女は柔らかな手つきで、淳平のボサボサになった頭を優しく包み込むように撫で始めた。


「えらいこっちゃ詐欺師から、えらいやっちゃになりよった。えらいやっちゃ、えらいやっちゃ。」


なで、なで……。


彼女の小さな手のひらから伝わってくる温もりが、淳平の乾き切った心に染み渡る。

「えらいこっちゃ(大変だ)」と言われ続けてきた男が、初めて「えらいやっちゃ(見上げた奴だ)」と認められたのだ。


「有難う、ございます……」

淳平の顔に、今日初めて、混じり気のない柔らかな笑顔が戻った。


---


淳平はもう一度深くお辞儀をすると、ポケットから大切に、けれど強く握りしめすぎてしわくちゃになってしまった封筒を取り出した。

佐藤がくれた、再起のための5000円。


「これ、握りしめすぎて、しわくちゃになっちゃったけど、中に5000円入ってます。これで、えらいこっちゃな価格に足りるかな?」


淳平は、その封筒をえらいこっちゃ嬢の小さな手に預けた。

今の彼にとって、これは単なる金ではない。自分の過去を清算し、新しい自分として生きるための、最初の血の通った対価だった。


地蔵店長は、その光景を至福の微笑みを湛えて見つめていた。

「当店は御布施形式にしております。ゆえに、これが淳平さんの最初の布施行と言えましょう。お心遣い、感謝申し上げます」


店長は静かに、そしてゆっくりと、淳平の決意を尊ぶように丁寧なお辞儀を返した。


「毎度あり! 餓鬼道から善き道へ、えらいやっちゃな通行料、確かに預かったで!」

えらいこっちゃ嬢は、しわくちゃの封筒を大事そうに抱えると、軽やかな足取りでレジへと向かった。


「早速、布施行を一つやったね♪ 善き道の一歩目、上々の歩き始めじゃん♪」

女鬼が、パチンと小気味よくウインクを投げる。


「娑婆だとさ、『ギブの精神』なんて言葉を隠れ蓑にして、その実はテイカー共(奪う者達)が搾取し合ってる地獄絵図みたいだけどさ。淳平さんは今、上っ面だけじゃない、真の布施行をやり始めたんだ。胸を張りな」

ダークエルフのシェフも、不敵に、けれど誇らしげにウインクを返した。


「はい。この道から外れないように、一歩一歩、しっかりと踏みしめて進んでいきます」

淳平は、背筋を真っ直ぐに伸ばし、すがすがしい笑顔で店の重厚な扉に手をかけた。

かつて見下していた「普通に生きる人々」の列に、今度こそ、自分も誠実に加わるために。


「御来店、誠に有難うございます。願わくば、淳平様が末永く善き道の歩み手となられる事を、切に願っております」


スッ……


地蔵店長の、春の海のように穏やかなお地蔵さん笑顔が、淳平の背中を優しく押し出した。

胸の前で完璧なまでに美しく合わされた掌と、深々と、深く頭を下げるその姿。

淳平は、その清らかな静寂に見送られながら、夜の街へと踏み出していった。


---


## 炎の帰路、そして確かな一歩


店の外に出ると、そこには先程の異様な威圧感を放つ片輪車が、静かに、しかし力強く燃え盛る車輪を揺らして停車していた。

周囲の夜気は冷え切っているはずなのに、その乗り物の周りだけは、陽炎が立ち昇るほどの圧倒的な熱量に満ちている。


「往復運賃もろてますさかい、帰りもきっちり送らせて貰いますえ」

運転席の窓がスルスルと開き、着物美人の片輪車が、艶やかな、それでいて親しみを感じさせる笑顔を淳平に向けた。


「……そうか、あれって往復運賃だったんだ。それじゃあ、お願いします」

淳平は深々と一礼し、再びあの奇妙な客席へと乗り込んだ。

かつては「金を取るなら一歩も歩きたくない」とさえ思っていた自分を思い出し、今の謙虚な気持ちとの差に、彼は心の中で苦笑した。


「ほな、出発しまっせ!」


ゴォォォォォォォォッ!!


アクセルが力一杯踏み込まれた瞬間、腹の底を激しく揺さぶるような凄まじい咆哮が上がった。

車輪が青白い炎を猛烈に撒き散らしながら回転し、淳平の体は凄まじいGによって座席に深く沈み込む。

窓の外を流れる夜の景色は、一瞬で光の帯となって溶け去り、時空を歪ませるような異質な感覚が淳平の全身を駆け抜けた。


自分がどこにいるのか、現実の街を走っているのかさえ定かではない不思議な浮遊感。

しかし、淳平の心は、かつてないほどに凪いでいた。


あれよあれよという間に加速の衝撃が収まったかと思うと、そこは見覚えのある、あの静まり返った公園だった。

つい数時間前、空腹と絶望に苛まれてうなだれていた自分が、えらいこっちゃ嬢と初めて出会った、あの運命の場所だ。

淳平は牛車が完全に停止するのを待ってから、ゆっくりと、しかし先程とは比較にならないほど確かな足取りで地面に降り立った。


「毎度ありー。ほな、善き道で善き布施行をー♪」

片輪車が運転席の窓からひょいと顔を出し、はじけるような笑顔を見せてから、再び窓を閉めた。


シュオオオオオン!!


猛烈な熱風を巻き起こしながら、炎の牛車は夜の闇の向こうへと、颯爽と走り去っていく。

淳平は、遠ざかる牛車の力強い咆哮に向けて、深く、長く、敬意を込めて頭を下げた。


「慈悲喜捨、布施行、か。……ここからだな、俺の再出発は」

小さく、しかし自分自身に言い聞かせるように呟くと、淳平は顔を上げた。


街灯の光に照らされた彼の横顔は、憑き物が落ちたように澄み渡っている。

ポケットにあるのは、佐藤から貰った封筒の僅かな感触だけ。

しかし、今の淳平には、奪い取った300万円よりもずっと価値のある、自分自身の意志という名の財産が胸の中にあった。


淳平は、自分が住んでいる古びたアパートに向かって、一歩、また一歩と、大地の感触を確かめるように歩き始めた。

冷たい夜風が頬を打つが、それは今までに感じたことがないほど心地よく、彼の決意をより強固なものへと変えていった。


---


##十数年の氷解と、友の背中


翌朝、東京の安アパートに差し込む朝日は、昨日までの澱んだ光とは打って変わって、淳平の瞳に眩しく、そして清々しく映った。

淳平は震える指先で、長い間、記憶の奥底に封印していた実家の電話番号を押し、受話器を耳に当てた。


プルルル……プルルル……。


呼び出し音が鳴るたびに、心臓が喉元までせり上がるような緊張が走る。

三回、四回……。


ガチャッ。


受話器が上がる音がして、受話口から、懐かしくも少し年老いた女性の声が響いた。

「もしもし?」


その一言を聞いた瞬間、淳平の視界が急激に滲んだ。


「……あの、今井淳平です」


「え? 淳平かい!? 本当に、本当に淳平なの!?」

電話越しの母親の声が、驚きと喜びで上擦る。


淳平は溢れそうになる涙を堪え、絞り出すように言葉を繋いだ。

「うん、正真正銘の淳平だよ。その……あの時は、本当に失礼なことを言って、家からも勝手にいなくなって……ごめん。本当に、ごめんなさい」


十数年分の謝罪が、震える声と共に零れ落ちる。

しかし、返ってきた母親の言葉は、淳平が予想していた罵倒や拒絶とは正反対の、拍子抜けするほど穏やかなものだった。


「ふふ、いいよ。あれは未熟な学生の若気の至りってやつだったね、今にして思えば。もう、とっくに気にしてなんかいないから。それで、あんた今どこにいるの? 実家の近くまで来てるのかい?」


「いや、まだ東京にいて、こっちでバイトしたりして食いつないでたんだ。それでさ……昨日、すごく美味いツナサンドとハムサンドを食べて……。それを食べてたら、急に実家のこと、母さんのこと思い出して。どうしても謝らなきゃいけないと思って。俺のこと、恨んでる?」


淳平が恐る恐る尋ねると、母親は電話の向こうで「困ったねぇ」と楽しそうに笑った。

「そりゃ、当時は困ったなあとは思ったけど、恨んでなんかいやしないよ。頭が冷えたら、いつか自分から帰ってくるだろうと思ってたからね。……頭が冷えるまで、十年以上もかかったみたいだけどさ」


「うん……本当に長い時間をかけて、やっと目が覚めたんだ。目を覚ましてもらったっていうか……」


淳平がそう呟くと、母親がハッとしたように声を弾ませた。

「目を覚ましてもらったって……ああ、もしかして、佐藤君と会えたのかい?」


---


### 沈黙の守護者


淳平は、思わず受話器を握る手に力を込めた。

「え? なんで……佐藤君のこと知ってるの?」


「あの子……いや、もういい大人だからあの子って言っちゃ失礼よね、結婚してお子さんもいるみたいだし。佐藤君ね、淳平がいなくなってから、ずっと定期的に連絡をくれていたのよ」


母親の口から語られた事実は、淳平の想像を遥かに超えるものだった。


「彼、ずっとあんたのことを気にかけてくれてね。多分、友達はもう誰もいなくなっているだろうから、もし淳平が実家に帰ってきたらすぐに知らせてほしいって、ずっと言ってくれていたのよ」


「……っ」

淳平の喉の奥が、熱い塊で塞がれた。


「いい友達じゃないか。あんたが大学で四面楚歌だってことも、佐藤君から聞いて心配してたのよ。それでも佐藤君だけは、あんたを見捨てずにいてくれたんだから。大事にしなさいよ。彼にまで縁を切られたら、あんた本当に友達ゼロになっちゃうよ。なんて言うんだっけ? ボッチっていうんだっけ、最近の若い子は」


「……うん。うん……。絶対、絶対にもう手放さないから」

淳平は、嗚咽を堪えながら何度も頷いた。

目の前には、昨日佐藤から手渡された、あのしわくちゃの封筒の中身が浮かんでいた。


5000円札と、777円の端数。

あれは単なる交通費でも、不採用の慰め金でもなかったのだ。


「幸運を」というメッセージ。

そして、あえて「777」という縁起を担いだ端数まで用意してくれた、佐藤の不器用で、底知れないほど深い慈愛。

自分が「負け組」と見下し、冷たくあしらっていたあの頃から、佐藤はずっと淳平の「たった一人の友」であり続けてくれた。


会社の利益を考え、プロとして不採用を突きつける厳しさと、一人の人間として再起を信じて、交通費と言う名目で金を託す優しさ。

その両方を、佐藤はあの短い面接の時間の中に込めていたのだ。


淳平は受話器を胸に抱き、静かに泣き続けた。

心の中に灯ったのは、かつての虚飾に満ちた熱狂ではなく、佐藤の誠実さと、母の無償の愛が生み出した、穏やかで消えることのない温かな火だった。


「母さん、俺、頑張るよ。今度こそ……ちゃんと、一歩ずつ進んでいくから」


朝の光の中で、淳平は確かな誓いを立てた。

佐藤が守ってくれた自分の人生を、今度は自分の足で、正しく歩んでいくために。


---


##母の温もり、そして友との再会


受話器を握る淳平の手は、まだ微かに震えていた。

十数年という月日の重みが、デジタルの電子音を超えて淳平の胸にのしかかる。


「……母さん。俺、バイトして交通費が貯まったら……実家に帰ってもいいかな?」

その問いは、かつて自分が捨てた「普通の生活」への帰還を願う、魂の切実な叫びだった。


すると、電話の向こうで母親が「ふふっ」と、どこか呆れたような、それでいて深い慈しみを湛えた声を上げた。

「……何さあんた。何だか気まずかったり、変な遠慮をしたりして、今まで帰ってこなかったのかい? 実家なんだから、さっさと帰って来ればいいのに」


カサッ

受話器の向こうで母親が姿勢を直す音が聞こえる。

「東京にいるなら、飛行機で帰って来るのよね。いいかい、空港に着いたらすぐに電話しな。お父さんに車で迎えに行って貰うからさ」


「……うん、有難う。……本当に、有難う」

淳平の視界が、再び熱い涙で滲んでいく。


「それじゃあ、これからまたバイト探しするから。……また、電話するよ」


「ええ、待ってるよ。風邪ひかないようにね」


プツッ……ツー、ツー……


電話が切れた後の静寂の中で、淳平は深く息を吐き出した。

自分がどれほど傲慢だったか。自分を愛してくれる人々を「敗け組」と呼び、どれほど残酷に突き放していたか。

しかし、彼らは淳平が頭を冷やすのを、十数年もの間、ただ静かに待っていてくれたのだ。


---


### 「佐藤課長」への再訪


一時間後。


淳平は、古びたアパートの鏡の前で、背筋を伸ばしてネクタイを締めていた。

それは、かつての「成功者」を演じるための武装ではない。

一人の誠実な人間として、恩人に相対するための正装だ。


淳平は佐藤の会社に電話を入れ、昨日の面接の無礼を詫び、どうしても直接お礼がしたいと告げた。

応対した社員は、佐藤のスケジュールを確認し、「午前中に少しだけなら」と、面会の時間を捻り出してくれた。


「コツ、コツ、コツ……」


整備されたオフィスビルのエントランスに、淳平の革靴の音が響く。

受付で佐藤を呼び出してもらうと、数分後、エレベーターから一人の男が姿を現した。

昨日と変わらぬ、プロフェッショナルとしての隙のないスーツ姿。しかし、その瞳にはどこか淳平を案じるような色が滲んでいた。


「先日は面接をして頂き、誠に有難うございます。……佐藤課長」

淳平は、佐藤の目の前で直立不動になり、腰を45度に折って深々とお辞儀をした。

それは、昨日彼が拒絶した「社会のルール」に対する、淳平なりの最初の一歩だった。


佐藤もまた、淳平のその変化を即座に感じ取ったのか、昨日よりも柔らかい表情で頭を下げた。

「こちらこそ、御足労頂きまして、誠に有難うございます。……何か、急用でもありましたか?」


淳平は顔を上げ、佐藤の目を見つめた。

「それで、ここからは一人の同級生として、お礼が言いたい。少しだけ、時間を貰えるかな?」


佐藤は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに「ふっ」と口角を緩めた。

「……ああ。社食へ行こう。社員用の珈琲がある。そこで話そうか」


---


### 社食の珈琲、心の精算


佐藤に導かれ、淳平は社員専用の食堂へと足を踏み入れた。


ガヤガヤ……


昼食前ということもあり、まだ人はまばらだが、清潔なテーブルが並び、コーヒーマシンの香ばしい香りが漂っている。


佐藤は自ら二つの紙コップに珈琲を注ぐと、淳平を窓際の席へと促した。

「どうぞ。安物だが、ここの珈琲は悪くない」


「有難う……」

淳平は、湯気が立ち昇る珈琲を両手で包み込んだ。

その熱さは、昨日の牛車で感じた業火のような熱さではなく、今の淳平の凍えた心に染み渡る、慈悲の温かさだった。


窓の外には、忙しく行き交う東京の街並みが広がっている。

かつては「搾取の対象」としか見ていなかったこの街が、今は、自分と同じように懸命に、誠実に生きる人々で溢れているように見えた。


淳平は、一口だけ珈琲を飲み、意を決して言葉を紡ぎ出した。

それは、昨日手渡された5777円への感謝と、自分の愚かさ、そしてこれからの「布施行」としての誓いだった。


---


## 終幕、そして新生のわだち


社員食堂の窓からは、昼前の柔らかな光が差し込み、二人の男を静かに照らしていた。

昨日までの刺すような拒絶の空気は消え、そこにはただ、使い捨ての紙コップから立ち昇る珈琲の芳醇な香りと、長い年月を経てようやく重なり合った二人の時間が流れていた。


淳平は、熱い珈琲を一口含んでから、真っ直ぐに佐藤の目を見つめた。

「佐藤君……先日頂いた5777円と、君からのエール。確かに、魂で受け取ったよ。さっき実家に連絡して、ようやく両親と和解できたんだ。本当に有難う。俺みたいな奴を、ずっと気にかけてくれていて……」


淳平は、椅子に座ったまま深く頭を下げた。

昨日の虚勢を張った自分が見れば「負け組に頭を下げるな」と嗤っただろう。

だが、今の淳平にとって、この一礼こそが自分を人間として繋ぎ止めるための、唯一の重りだった。


「それから、交通費のことだけど。実は、布施行に使わせてもらった。君から受け取ったお金で、命を繋ぐようなサンドイッチを食べて、タクシー代……いや、タクシーだったのかは分からないけれど、とにかく777円を交通費に使わせてもらったよ。残りの5000円は、ある場所に贈らせてもらったんだ」


「使い道までわざわざ言わなくていいのに。君のものなんだから」

佐藤は少し困ったように眉を下げて笑った。その表情は、昨日までの冷徹な「課長」の仮面を脱ぎ捨てた、かつての旧友の顔だった。


「いや、交通費として貰ったのに、別のことに使ったから。報告しておかないといけないと思ってね。」


「なるほど。布施行、か。仏教でよく言う、あの『布施』のことかい?」


佐藤が不思議そうに尋ねると、淳平は確かな足取りで一歩を踏み出すように力強く頷いた。

「うん、その布施行だ。俺は、その布施行からしっかりと人生をやり直そうと思う。バイトをして飛行機代が溜まったら、すぐに実家に帰るよ。両親にお詫びをして、まずは身近な人への布施から始めるつもりだ」


---


### 「地」を踏みしめる足音


「そうか。御両親は本当に心配されていたから……良かったよ」


佐藤は、心の底から安堵したように、ふっと肩の力を抜いて微笑んだ。

「良い風に変わったな、淳平。昨日とは、まるで別人みたいだ。瞳の濁りが消えているよ」


「俺の愚かさを、これでもかってくらい気付かせてくれる人達がいてね。あ、角が生えていたり、耳が尖っていたりしたから、もしかしたら人じゃなかったのかもしれない。お地蔵さんもいたし、えらいこっちゃって言ってた面白い小柄な女の子もいた。まあ、とにかく。佐藤君を含めた、たくさんの恩人のお陰で目が覚めたんだ」


淳平は、昨夜の不思議な食堂での光景を思い出し、どこか吹っ切れたような笑顔を見せた。

「佐藤君。改めて、大学生の頃は本当に申し訳ありませんでした。君に対して、あんなにも失礼なことをしてしまって。それなのに、最後まで見捨てずに助けてくれて……有難う」


再び深く頭を下げる淳平に対し、佐藤は少しだけ真剣な面持ちになって答えた。

「正直に言えば、昨日会って、それでも改善の兆しがなかったら、完全に絶縁するつもりだったんだ。でも、今の淳平を見て安心したよ。あの頃のように、浮き足立って地に足がついていない状態じゃない。今は、ちゃんと自分の重みを感じているように見える。布施行、しっかりな」


「地に足がついていない、か。確かにその通りだ。もう、あんな過ちは二度と犯さない。今度こそ、泥に塗れてでも地に足をつけて、真っ当に生きる。約束するよ」


二人は残りの珈琲を飲み干すと、席を立った。会社のエントランスまで見送りに来た佐藤は、最後に右手を差し出した。

淳平はその手を、壊れ物を扱うように、けれど力強く握り返した。


ギュッ


温かな手のひらの感触。それは、十数年ぶりに取り戻した「信頼」という名の、何物にも代えがたい感触だった。


---


### 誠実への帰路


佐藤の会社を後にし、淳平は眩しい都会の喧騒の中へと歩き出した。

アスファルトを踏みしめる靴音が、昨日までの虚無な響きとは違い、力強いリズムを刻んでいる。


「今度こそ、絶対に道を踏み外したりしない。苦しめた人達に対しても、ちゃんと謝罪して、時間をかけてでも返金する。誠実に生きるんだ、俺は」


淳平は、立ち並ぶ高層ビルの間から見える青空を見上げた。

そこにはもう、自分を嘲笑う幻影も、空虚な「成功」への執着もない。

あるのは、これから自分が一歩ずつ積み上げていく、泥臭くも清らかな、新しい人生の轍だけだった。


「さあ、行こう」


淳平は、自分の住む小さなアパートに向かって、迷いのない足取りで歩いていった。

それは、一人の男が「自分自身」を取り戻すための、再生の物語の序章だった。



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