第九話 笑うたびに、取引が進む
最初の来客は、香の匂いより先に金の匂いを連れてきた。
神殿の西側、小さな応接の間。白壁に青い織物が掛けられ、低い卓には蜜酒と果実、銀皿に盛られた干し葡萄。普段なら巡礼の有力者を迎える程度の部屋だが、今夜は灯火が多く、布も器もひとつ上等なものに替えられていた。
つまり、祖母は最初から「見せる場」にする気だったのだ。
「緊張してる?」
入る前にソエミアスが囁いた。
「少し」
「正直でよろしい」
「でも、顔には出してないつもり」
「そこは立派」
母はそう言って、最後に彼の肩の皺を整えた。
「無理に大人になろうとしなくていいのよ」
「でも、子どもすぎても困るでしょう」
「……そうなのよね」
そこが一番厄介なのだろう。
幼すぎれば神輿。
大人びすぎれば警戒。
その間の、もっとも都合よく、もっとも魅力的な場所に立たされる。
「お時間です」
侍女に促され、母と祖母とともにバッシアヌスは一歩踏み出した。ルキウスは一歩後ろ。近いのに、気配を消すのが妙に上手い。
部屋に入ると、男が二人、すでに席についていた。
どちらもよく肥えた中年で、指には太い金の指輪。髭は整えられ、外衣には高価な染料の色が沈んでいる。街道と市場で財を成した商人だと一目で分かった。
彼らは立ち上がり、深々と礼をした。
「お目にかかれて光栄にございます、神子さま」
「噂に違わぬお美しさで」
早速それだ、とバッシアヌスは内心で思う。
顔。
まず顔。
やはり人は分かりやすい。
「ようこそ」
彼は柔らかく笑った。
「そんなに見つめられると、少しだけ困ってしまうわ」
その一言で、空気が少し和む。商人たちは笑い、ソエミアスは安堵し、ルキウスだけが無表情だった。
席につく。
蜜酒が注がれ、果実が勧められ、当たり障りのない挨拶がいくつか交わされる。エメサの天候、街道の安全、近頃の交易品。けれどそんなものは前置きだ。全員が分かっている。
最初に本題へ触れたのは、鼻の高い方の商人だった。
「昨夜のこと、もう市中の者は皆、話しております」
「噂は早いのね」
「早いものほど、価値がございます」
商人らしい言い回しに、バッシアヌスは少しだけ目を細めた。
「価値、ね」
「はい。今、皆が知りたがっております。あなたが何者で、どこへ向かわれるのか」
「もし、わたしが“ただの神官”だと言ったら?」
商人は笑みを崩さず答える。
「そうおっしゃるでしょう。ですが、世間はそれだけでは納得いたしますまい」
上手い。否定もしないし、踏み込みすぎもしない。
だが結局は、こちらが名乗る前から相場を読み始めている。
「では、あなたはどう見ているの」
バッシアヌスが問うと、もう一人の商人が答えた。
「商いをする者として申し上げるなら――」
彼は一拍置く。
「今のあなたは、まだ金にはなりません」
ソエミアスの眉がぴくりと動いた。
侍女が息を呑む。
ルキウスは無反応。
バッシアヌスは怒らなかった。むしろ少し面白かった。
「正直ね」
「ですが」
商人は続けた。
「あなたが本当にローマへ向かわれ、兵が集まり、名が立てば、話は変わります。金は噂に集まり、噂は金で大きくなる」
「つまり?」
「今はまだ、先物です」
なるほど。
値札どころか、投機の対象になっている。
バッシアヌスは杯を持ち上げる。
「ずいぶん失礼な話を、ずいぶん上品に言うのね」
「お許しを。ですが、嘘を申し上げても意味がありません」
「そうね。むしろ気に入ったかも」
商人たちは少し安心したように微笑んだ。
ここで怒れば、彼らはただの美しい神子として自分を扱う。
笑えば、少しだけ話が進む。
「では、聞かせて」
バッシアヌスは杯を卓に戻した。
「あなたたちは何を見て、わたしに値をつけるの?」
部屋が静かになる。
商人たちは一瞬だけ視線を交わした。
先に口を開いたのは鼻の高い方だ。
「顔」
「やっぱり」
「血筋」
「それもでしょうね」
「兵の反応」
「それと?」
「昨夜の件」
「他には?」
商人は、今度は少しだけ真顔になった。
「ご本人の胆力です」
その答えに、バッシアヌスは少し驚いた。
「顔より?」
「顔は入口です。ですが、入口だけでは屋敷の値は決まりません」
意外と、悪くないことを言う。
「あなたは昨夜、ただ座っていただけではなく、ご自分で話し、ご自分で空気を動かしたと聞きました。それが本当なら、価値は上がります」
ルキウスが、ほんのわずかに視線を動かした。
たぶんさっきの「高い」と同じ類の評価なのだろう。
「もし本当なら、ね」
「今こうしてお話しして、それが噂だけではないと分かりました」
商人は深く頭を下げた。
「我らは、勝ち目のないものには賭けません」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
バッシアヌスは数秒だけ黙り、それから笑った。
「じゃあ、今夜のわたしは少しは高くなった?」
「ええ」
即答だった。
「門前で声をかけた件も含めて」
それを聞いて、彼は思わずルキウスを見る。
護衛は表情ひとつ変えず立っている。だが、商人にまで伝わっているのかと思うと少し可笑しい。
「ねえ、祖母さま」
隣席のマエサへ顔を向ける。
「わたし、今日一日でいくら値上がりしたのかしら」
マエサは涼しい顔で答えた。
「今朝よりはかなり」
「嫌な会話」
「でも大事よ」
ソエミアスは不快そうに杯を置いた。
「人に値札の話ばかり」
「それが今夜の客でしょう」
マエサは商人たちを見た。
「で、あなた方は、いくら払う気があるの」
空気が変わった。
これだ。
ここからは完全に祖母の場だ。
商人たちは姿勢を正し、金額ではなく、物資、街道の協力、情報網、荷車の融通について話し始める。露骨に軍資金とは言わない。だが意味は明白だった。
バッシアヌスは黙って聞きながら、ようやく理解する。
笑うたびに、取引が進むのだ。
自分の顔が和らげた空気の中で、祖母が条件を引き出す。
自分が上品に返した一言一言が、「この少年には見込みがある」という値札を少しずつ吊り上げる。
綺麗なだけではだめ。
綺麗に振る舞い、その美しさを相手の利得に見せて初めて、金も人も動く。
「……なんだか、ずるいわね」
思わず小さく漏らすと、隣のルキウスだけが聞き取ったらしい。
「何がです」
「全部」
「そういうものです」
「あなた、その答えばっかり」
「たいてい本当なので」
会談が終わる頃には、外はすっかり夜になっていた。商人たちは満足げに去っていく。来た時より礼が深い。値札が少し変わった証拠だ。
部屋に静けさが戻ると、バッシアヌスは椅子の背にぐったりもたれた。
「疲れた」
「当然よ」
ソエミアスが髪を撫でる。
「よく頑張ったわ」
「頑張ったの、わたし?」
「ええ」
「祖母さまが全部やった気がする」
マエサは笑う。
「わたし一人ではああはいかないわ」
「どうして」
「おまえがいたから、向こうは未来の話を信じたのよ」
その一言は、思ったより重かった。
未来。
まだ何も手にしていないのに、自分はもう人にそれを買わせている。
バッシアヌスは少しだけ目を伏せた。
「ねえ、ルキウス」
「はい」
「さっきのわたし、いくらくらいだったと思う?」
彼は少し考えてから答えた。
「高いままです」
「雑」
「ですが、今朝よりは確実に」
「商人みたいなこと言う」
「見ていただけです」
バッシアヌスは小さく笑った。
でも、その言葉は少しだけ嬉しかった。
ご一読くださり、ありがとうございました




