表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/18

第九話 笑うたびに、取引が進む

 最初の来客は、香の匂いより先に金の匂いを連れてきた。


 神殿の西側、小さな応接の間。白壁に青い織物が掛けられ、低い卓には蜜酒と果実、銀皿に盛られた干し葡萄。普段なら巡礼の有力者を迎える程度の部屋だが、今夜は灯火が多く、布も器もひとつ上等なものに替えられていた。


 つまり、祖母は最初から「見せる場」にする気だったのだ。


「緊張してる?」


 入る前にソエミアスが囁いた。


「少し」


「正直でよろしい」


「でも、顔には出してないつもり」


「そこは立派」


 母はそう言って、最後に彼の肩の皺を整えた。


「無理に大人になろうとしなくていいのよ」


「でも、子どもすぎても困るでしょう」


「……そうなのよね」


 そこが一番厄介なのだろう。

 幼すぎれば神輿。

 大人びすぎれば警戒。

 その間の、もっとも都合よく、もっとも魅力的な場所に立たされる。


「お時間です」


 侍女に促され、母と祖母とともにバッシアヌスは一歩踏み出した。ルキウスは一歩後ろ。近いのに、気配を消すのが妙に上手い。


 部屋に入ると、男が二人、すでに席についていた。


 どちらもよく肥えた中年で、指には太い金の指輪。髭は整えられ、外衣には高価な染料の色が沈んでいる。街道と市場で財を成した商人だと一目で分かった。


 彼らは立ち上がり、深々と礼をした。


「お目にかかれて光栄にございます、神子さま」


「噂に違わぬお美しさで」


 早速それだ、とバッシアヌスは内心で思う。


 顔。

 まず顔。

 やはり人は分かりやすい。


「ようこそ」


 彼は柔らかく笑った。


「そんなに見つめられると、少しだけ困ってしまうわ」


 その一言で、空気が少し和む。商人たちは笑い、ソエミアスは安堵し、ルキウスだけが無表情だった。


 席につく。

 蜜酒が注がれ、果実が勧められ、当たり障りのない挨拶がいくつか交わされる。エメサの天候、街道の安全、近頃の交易品。けれどそんなものは前置きだ。全員が分かっている。


 最初に本題へ触れたのは、鼻の高い方の商人だった。


「昨夜のこと、もう市中の者は皆、話しております」


「噂は早いのね」


「早いものほど、価値がございます」


 商人らしい言い回しに、バッシアヌスは少しだけ目を細めた。


「価値、ね」


「はい。今、皆が知りたがっております。あなたが何者で、どこへ向かわれるのか」


「もし、わたしが“ただの神官”だと言ったら?」


 商人は笑みを崩さず答える。


「そうおっしゃるでしょう。ですが、世間はそれだけでは納得いたしますまい」


 上手い。否定もしないし、踏み込みすぎもしない。

 だが結局は、こちらが名乗る前から相場を読み始めている。


「では、あなたはどう見ているの」


 バッシアヌスが問うと、もう一人の商人が答えた。


「商いをする者として申し上げるなら――」


 彼は一拍置く。


「今のあなたは、まだ金にはなりません」


 ソエミアスの眉がぴくりと動いた。

 侍女が息を呑む。

 ルキウスは無反応。


 バッシアヌスは怒らなかった。むしろ少し面白かった。


「正直ね」


「ですが」


 商人は続けた。


「あなたが本当にローマへ向かわれ、兵が集まり、名が立てば、話は変わります。金は噂に集まり、噂は金で大きくなる」


「つまり?」


「今はまだ、先物です」


 なるほど。

 値札どころか、投機の対象になっている。


 バッシアヌスは杯を持ち上げる。


「ずいぶん失礼な話を、ずいぶん上品に言うのね」


「お許しを。ですが、嘘を申し上げても意味がありません」


「そうね。むしろ気に入ったかも」


 商人たちは少し安心したように微笑んだ。


 ここで怒れば、彼らはただの美しい神子として自分を扱う。

 笑えば、少しだけ話が進む。


「では、聞かせて」


 バッシアヌスは杯を卓に戻した。


「あなたたちは何を見て、わたしに値をつけるの?」


 部屋が静かになる。

 商人たちは一瞬だけ視線を交わした。


 先に口を開いたのは鼻の高い方だ。


「顔」


「やっぱり」


「血筋」


「それもでしょうね」


「兵の反応」


「それと?」


「昨夜の件」


「他には?」


 商人は、今度は少しだけ真顔になった。


「ご本人の胆力です」


 その答えに、バッシアヌスは少し驚いた。


「顔より?」


「顔は入口です。ですが、入口だけでは屋敷の値は決まりません」


 意外と、悪くないことを言う。


「あなたは昨夜、ただ座っていただけではなく、ご自分で話し、ご自分で空気を動かしたと聞きました。それが本当なら、価値は上がります」


 ルキウスが、ほんのわずかに視線を動かした。

 たぶんさっきの「高い」と同じ類の評価なのだろう。


「もし本当なら、ね」


「今こうしてお話しして、それが噂だけではないと分かりました」


 商人は深く頭を下げた。


「我らは、勝ち目のないものには賭けません」


 その言葉は、妙にまっすぐだった。


 バッシアヌスは数秒だけ黙り、それから笑った。


「じゃあ、今夜のわたしは少しは高くなった?」


「ええ」


 即答だった。


「門前で声をかけた件も含めて」


 それを聞いて、彼は思わずルキウスを見る。

 護衛は表情ひとつ変えず立っている。だが、商人にまで伝わっているのかと思うと少し可笑しい。


「ねえ、祖母さま」


 隣席のマエサへ顔を向ける。


「わたし、今日一日でいくら値上がりしたのかしら」


 マエサは涼しい顔で答えた。


「今朝よりはかなり」


「嫌な会話」


「でも大事よ」


 ソエミアスは不快そうに杯を置いた。


「人に値札の話ばかり」


「それが今夜の客でしょう」


 マエサは商人たちを見た。


「で、あなた方は、いくら払う気があるの」


 空気が変わった。

 これだ。

 ここからは完全に祖母の場だ。


 商人たちは姿勢を正し、金額ではなく、物資、街道の協力、情報網、荷車の融通について話し始める。露骨に軍資金とは言わない。だが意味は明白だった。


 バッシアヌスは黙って聞きながら、ようやく理解する。


 笑うたびに、取引が進むのだ。


 自分の顔が和らげた空気の中で、祖母が条件を引き出す。

 自分が上品に返した一言一言が、「この少年には見込みがある」という値札を少しずつ吊り上げる。


 綺麗なだけではだめ。

 綺麗に振る舞い、その美しさを相手の利得に見せて初めて、金も人も動く。


「……なんだか、ずるいわね」


 思わず小さく漏らすと、隣のルキウスだけが聞き取ったらしい。


「何がです」


「全部」


「そういうものです」


「あなた、その答えばっかり」


「たいてい本当なので」


 会談が終わる頃には、外はすっかり夜になっていた。商人たちは満足げに去っていく。来た時より礼が深い。値札が少し変わった証拠だ。


 部屋に静けさが戻ると、バッシアヌスは椅子の背にぐったりもたれた。


「疲れた」


「当然よ」


 ソエミアスが髪を撫でる。


「よく頑張ったわ」


「頑張ったの、わたし?」


「ええ」


「祖母さまが全部やった気がする」


 マエサは笑う。


「わたし一人ではああはいかないわ」


「どうして」


「おまえがいたから、向こうは未来の話を信じたのよ」


 その一言は、思ったより重かった。


 未来。

 まだ何も手にしていないのに、自分はもう人にそれを買わせている。


 バッシアヌスは少しだけ目を伏せた。


「ねえ、ルキウス」


「はい」


「さっきのわたし、いくらくらいだったと思う?」


 彼は少し考えてから答えた。


「高いままです」


「雑」


「ですが、今朝よりは確実に」


「商人みたいなこと言う」


「見ていただけです」


 バッシアヌスは小さく笑った。


 でも、その言葉は少しだけ嬉しかった。

ご一読くださり、ありがとうございました

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ