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第八話 美しい顔には、値札がつく

 夕方になると、神殿はまた別の顔になる。


 昼間の熱が石に残ったまま、空だけがゆっくりと藍へ沈んでいく時間だ。回廊には灯がともりはじめ、香の煙は白く細くのぼる。巫女たちの歌声も、日が高いうちより少し低く、やわらかく聞こえる。


 けれどその静けさの下で、今日はずっと人が動いていた。


 衣装の準備。

 来客の確認。

 席順。

 献酒の器。

 使者への返書。


 バッシアヌスは自室で、半ばうんざりしながら椅子にもたれていた。


「まだあるの?」


 鏡代わりの銀盤の前で髪を整えている侍女に向かって、彼は心底疲れた声で言う。


「あります」


「今日だけで何回着替えたと思ってるの」


「四回です」


 今日の装いは昼よりもずっと華やかだった。白い長衣の上に薄い紫の外衣を重ね、肩には金の留め具。耳には細い鎖の下がる飾り、喉元には真珠と紅玉。額の飾りは細く控えめだが、そのぶん顔立ちがよく映える。


 いかにも見られるための支度だった。


「祖母さまは本当に容赦ない」


「でも、お似合いです」


「知ってる」


「ご自分で言いますね」


「言わないとやってられないもの」


 侍女が笑う。


 自分でも分かっていた。こういう装いが似合うことくらい。

 むしろ似合いすぎるのが問題なのだ。人は似合うものを見ると、それがその人の本質だと勝手に決めつける。宝石が似合えば贅沢好き。紫が似合えば高慢。美しければ軽薄。異国的なら危険。


 顔というのは、本当に勝手なものだ。


「そんな顔をなさらないでください」


 侍女が髪を結いながら言った。


「どんな顔」


「お綺麗なのに不機嫌そうな顔」


「褒めてる?」


「半分は」


 最近、半分はが多い気がする。

 祖母のせいだろう。


 扉の外で、短く二度、控えめなノックが響いた。


「どうぞ」


 侍女が応じると、入ってきたのはルキウスだった。


 相変わらず質素で、相変わらず愛想がない。

 灯りの多い室内では、その実務的な軍装がやけに浮いて見える。


「支度は済みましたか」


 第一声がそれだった。


 バッシアヌスは椅子の背にもたれたまま、わざとらしく眉を上げる。


「挨拶もなし?」


「必要ですか」


「必要でしょう」


「では」


 ルキウスは一拍置いてから言った。


「今夜もお綺麗です」


 棒読みだった。


 侍女が吹き出しそうになっている。

 バッシアヌスは額を押さえた。


「だめ」


「何がです」


「褒めるなら、もう少し心を込めて」


「事実を述べました」


「事実でも言い方ってものがあるでしょう」


「難しいご命令です」


 そう言いながらも、ルキウスは彼の全身をひととおり確認していた。装飾、裾の長さ、歩きにくさ、護衛のしづらさ。そういう目だ。


「何を見てるの」


「転びそうかどうかを」


「失礼ね」


「護衛ですので」


「ねえ、あなた、それ万能の言い訳だと思ってる?」


「かなり」


 その答えに、とうとう侍女が声を立てて笑った。

 バッシアヌスも、少しだけ口元がゆるむ。


「今夜は誰に会うの?」


 問いかけると、ルキウスは答えた。


「商人が二人、地元の有力者が一人、兵の連絡役が一人。途中で増えるかもしれません」


「わたし、今夜ずっと笑ってないと駄目?」


「少なくとも、不機嫌そうな顔よりは」


 侍女とまったく同じことを言われて、バッシアヌスは不満そうに唇を尖らせた。


「皆してそう言う」


「顔に出やすいので」


「わたしの顔、そんなに分かりやすい?」


「見る側には」


「嫌だなあ」


「武器にもなります」


 その言葉に、彼は少しだけ黙った。


 そうだ。嫌だと思っても、これは武器なのだ。

 祖母が使おうとするまでもなく、自分の顔は最初からそういう働きをしてしまう。見た者の感情を揺らす。好かれる。妬まれる。侮られる。警戒される。


 そして価値がつく。


「ねえ、ルキウス」


「はい」


「美しい顔って、得だと思う?」


 不意の問いに、侍女の手が少し止まる。

 ルキウスは考え込むことなく答えた。


「場合によります」


「つまらない答え」


「本当なので」


「もっと夢のある言い方はできないの?」


「できますが、役には立ちません」


 それから彼は続けた。


「注目を集めるという意味では得でしょう。先に覚えてもらえる。好意も引きやすい。油断もさせやすい」


「最後、ちょっと物騒」


「逆もあります」


「逆?」


「覚えられすぎる。嫉妬される。欲しがられる。値踏みされる」


 バッシアヌスは目を細める。


「……値踏み」


「はい」


「それ、嫌ね」


「でしょうね」


 ルキウスは淡々としていた。


「ですが、今夜来る者たちの半分は、最初にあなたの顔へ値をつけます」


「最低」


「でも事実です」


 その値札という感覚は、彼にも少し分かった。

 兵たちは昨日、自分の顔に死んだ皇帝の幻を見てひざまずいた。市井の人々は門の向こうの声だけで物語を作った。今夜来る商人たちは、たぶんもっと露骨だ。顔、血、名、噂、その全部に値をつけるだろう。


「じゃあ、どうすればいいの」


 自分でも意外なくらい、素直に聞いていた。


 ルキウスはわずかに肩を動かす。


「先に相手へ値をつけることです」


「え?」


「見られるだけだと疲れる。ですが、こちらも相手を見ると少し変わる」


 その返答は、思ったよりよかった。


「あなた、たまに本当にいいこと言うね」


「たまに、ですか」


「うん。たまに」


 侍女が最後の飾りを留め、満足げに一歩下がる。


「できました」


 銀盤に映る自分は、やはり綺麗だった。

 綺麗で、若くて、柔らかくて、いかにも壊れやすそうで、同時に人を翻弄しそうな顔をしている。


 この顔に、今夜もたくさんの値札が貼られるのだろう。


「笑ってください」


 侍女が言う。


「今のままだと、少し怖いです」


「怖い顔してた?」


「少しだけ」


「どんなふうに」


「綺麗なのに近づきにくい感じです」


 それは褒め言葉でもあり、困る評価でもある。


「ねえ、ルキウス」


「はい」


「今のわたし、どう見える?」


 彼は正面から見て、短く答えた。


「高い」


「……は?」


 バッシアヌスは思わず笑ってしまった。


「それ、感想?」


「ええ」


「綺麗とかじゃなくて?」


「綺麗です。でも、それだけだと今夜は足りないでしょう」


 そして彼は続けた。


「簡単には手が届かなさそうで、少し機嫌を損ねたら大きな損をしそうで、でも、うまく好かれれば見返りが大きそうです」


 侍女がぽかんとする。

 バッシアヌスは数秒遅れて、ますます笑った。


「最低」


「褒めています」


「褒め方が商人なのよ」


「今夜の相手に近いかと」


 なるほど、と彼は思う。

 たしかにその視点は役に立つ。


 美しい、だけで満足しては駄目だ。

 相手の目に自分がどう映るか、その値札まで読んで初めて、この顔は武器になる。


「分かった」


 バッシアヌスは立ち上がった。裾がふわりと落ちる。


「今夜は見られるだけじゃなく、見る」


「そのほうがいいでしょう」


「商人が来るなら、こっちも少しは商売しないとね」


「何を売るつもりです」


「希望とか、夢とか、そういう高くつくもの」


 ルキウスは一瞬だけ黙り、それから言った。


「似合います」


「今のは少し上手だった」


「努力しました」


「えらい」


 扉の外から、来客の到着を告げる足音が近づいてくる。


 いよいよだ。


 バッシアヌスは深く息を吸った。香の匂い。花。灯火。夜の始まり。

 そこへ、自分の顔と声と微笑みを乗せる。


 見られる。

 値踏みされる。

 なら、こちらも相手を量ってやる。


 彼は扉へ向かって歩き出した。

ご一読くださり、ありがとうございました

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