第七話 はじめての護衛は、無礼だった
午後の陽が傾きはじめたころ、バッシアヌスはまた祖母に呼ばれた。
今度は広間ではない。神殿の南側、普段は巡礼を通さない中庭だった。白い石畳の中央に浅い水盤があり、そのまわりを糸杉が囲んでいる。昼間でもどこか薄暗く、風が吹くたび水面に細かな波が立つ。
「今度はなに?」
中庭へ足を踏み入れた瞬間、彼は率直にそう言った。
「今日はずいぶん働かせるのね、祖母さま」
「まだ働いたうちに入らないわ」
ユリア・マエサは水盤の向こうに立ち、隣にもう一人、人影を従えていた。
男だった。若い。二十代半ばほどだろうか。背が高く、肩幅が広い。日に焼けた肌に短く刈った黒髪。装飾のない軍装は実用一点張りで、神殿の白と金の中ではやけに質素に見える。
男はバッシアヌスが来ても膝をつかなかった。ただ一礼しただけだ。
それを見て、バッシアヌスはわずかに眉を上げる。
「……へえ」
マエサが言う。
「紹介するわ。ルキウス・マルケルス。今後しばらく、おまえの護衛に付ける男よ」
「しばらく?」
「エメサを発つまで、いえ、発ってからも必要になるでしょうね」
男――ルキウス・マルケルスは、無言のまま頭を下げた。
恭順というより、確認のための動作に見える。
「この人、わたしに膝をつかないの?」
バッシアヌスがわざとらしく言うと、マエサが先に答えた。
「つかせていないの」
「どうして」
「おまえのまわりに、最初から全員が平伏していたら困るからよ」
「何が困るの」
「駄目だと、誰もおまえに言わないのは危険だわ」
なるほど、と一瞬だけ思う。
だが、納得したくない気持ちも半分あった。
「では、この人はわたしに駄目と言えるのね」
ルキウスが初めて口を開いた。
「必要なら」
低い声だった。
愛想はない。
しかも、思ったよりずっとはっきりしている。
バッシアヌスは少し楽しくなった。
「無礼ね」
「そうかもしれません」
「否定しないんだ」
「取り繕っても仕方がないので」
マエサが満足そうに目を細める。
完全に祖母の好みの人選だった。
「この男は、見た目に惑わされにくいわ」
「ひどい褒め方」
「護衛には必要でしょ」
「まあ、そうだけど」
バッシアヌスは水盤の縁へ歩み寄り、ルキウスをまじまじと見た。
相手も視線をそらさない。
兵たちの多くは、彼を見ると最初にほんの少し目を泳がせる。美貌に気圧されるのか、どう扱うべきか迷うのかは知らない。だがこの男は違った。顔の作りや装飾より先に、距離や癖や立ち位置を見ている。
嫌いではない。
でも少し腹は立つ。
「あなた、わたしが気に入らない?」
ストレートに聞くと、ソエミアスなら止めたであろうタイミングで、マエサは止めなかった。面白がっている顔だ。
ルキウスは一拍だけ黙り、それから答える。
「まだ判断していません」
「感じ悪い」
「見た目だけで判断しないのは、むしろ誠実では」
「祖母さま、この人ほんとうに護衛?」
「優秀よ」
「でも感じ悪い」
「なお優秀ね」
会話が成立していない。
バッシアヌスはわざと深いため息をついた。
「分かった。で、この人は何ができるの」
「剣」
ルキウスは短く答えた。
「護衛」
「わたしのこと、誰に守れって言われたの?」
バッシアヌスが改めて問うと、ルキウスは答えた。
「ユリア・マエサ様に」
「じゃあ祖母さまの人なんだ」
「今のところは」
それも正直すぎる。
バッシアヌスは笑ってしまった。
「ねえ、あなた、出世できないタイプでしょ」
「する気があれば、もう少し愛想を覚えます」
「じゃあする気ないんだ」
「少なくとも、笑顔で生き残れる立場ではないので」
その返しに、バッシアヌスはちょっとだけ黙った。
自分とは真逆の人間だ、と思う。
こちらは笑顔が武器になる。
向こうはたぶん、ならない。
だからこそ、祖母はこの男を寄こしたのだろう。
「話は終わり」
マエサが告げる。
「今日からルキウスを近くに置く。おまえが神殿のどこへ行くにも、できる限り付き添わせる」
「窮屈」
「今朝、門の前で勝手なことをした子が何を言うの」
「もうその話する?」
「するわ」
祖母は涼しい顔だ。
「門の前で声をかける程度で済んだからよかったものの、誰かが紛れ込んでいたらどうするつもりだったの」
「門番もいた」
「足りないわ。これからは見たいだけの者ばかりじゃ済まない」
その一言で、場の空気が少しだけ冷えた。
バッシアヌスも分かっている。
自分が噂になるということは、見たがる者だけでなく、消したがる者も出てくるということだ。
「……分かった」
素直にうなずくと、マエサは少し意外そうな顔をした。
「聞き分けがいいのね」
「だって、殺されるのは嫌だもの」
「そのくらい率直でいいのよ」
祖母は満足げに去っていく。
あとに残されたのは、バッシアヌスとルキウスだけだった。
中庭に沈黙が落ちる。
水盤の水音だけが小さく揺れている。
「……何か言ったら?」
先に沈黙に耐えられなくなったのはバッシアヌスのほうだった。
ルキウスは少し考えてから言う。
「似合っています」
「何が」
「その格好」
「急にそこ?」
「褒めたほうがいいかと」
また、少しだけ笑ってしまう。
「ねえ、あなた」
「はい」
「正直に答えて。わたしのこと、護衛しにくそう?」
「かなり」
「即答ね」
「ですが、不可能ではありません」
バッシアヌスは水盤の縁に腰掛ける。
風が吹いて、額飾りの鎖が微かに鳴った。
「どうして、かなりなの」
「目立つからです」
「それは知ってる」
「じっとしていなさそうだからです」
「失礼」
「それに、自分がどう見えるか分かったうえで使うでしょう」
その指摘に、彼は口をつぐんだ。
それも図星だった。
「……あなた、嫌なところばかり見つけるのね」
「護衛はそういうものです」
「褒めるところはないの?」
「今のところは、度胸」
「今のところは?」
「ええ」
「少ないなあ」
ルキウスが、ほんの少しだけ口元を緩めた気がした。
「十分では」
「まるで兵の評価みたい」
「実際、昨夜の話は聞きました」
「ああ、兵たちの前に出たこと?」
「はい」
「どう思った?」
問うと、ルキウスは即答しなかった。
少しだけ目を細めてから答える。
「危ういと思いました」
「またそれ」
「でも、兵はああいう危うさに惹かれることがあります」
「つまり?」
「上に立つか、早死にするか、どちらかだと」
「縁起悪い」
「護衛なので」
本当に夢がない。
けれど、その率直さは不思議と不快ではなかった。
甘やかさない言葉は、ときどき息がしやすい。
「じゃあ、あなたはどっちになると思う」
「何がです」
「わたし。上に立つ? 早死にする?」
ルキウスは答えない。
沈黙が、むしろ答えより雄弁だった。
「言えないんだ」
「言うべきではないので」
「そう」
「ただ」
そこで彼は続けた。
「死にたくないなら、もっと不用意に人前へ出ないことです」
「今日の門の件、もう知ってるんだ」
「神殿じゅう知っています」
バッシアヌスは顔をしかめた。
「最悪」
「そうでもありません」
「え?」
「声だけであの場を抑えたと聞きました」
「抑えた、のかな」
「少なくとも、混乱にはしなかった」
それは祖母と少し似た評価だった。
無駄ではなかったが、危なかった。
バッシアヌスは水面を見つめる。
風に揺れる自分の姿は、形が定まらない。
「ねえ、ルキウス」
「はい」
「あなたは、わたしを先帝の影だと思う?」
その問いに、ルキウスはすぐには答えなかった。
やがて、静かに言う。
「似ているとは聞いています」
「でも?」
「影ではないでしょう」
バッシアヌスは顔を上げる。
「どうして」
「影なら、あんなふうに自分から喋りません」
一瞬、間があって、彼は吹き出した。
「なにそれ」
「違いますか」
「違わないけど」
「では、そういうことです」
思ったより、悪くない返事だった。
少なくとも見た目は似ていても中身は別だとは言っている。
そのとき、回廊の向こうから侍女が走ってきた。
「バッシアヌスさま!」
呼び方が変わってしまっているのは、もう諦めるしかないらしい。
「なに?」
「ユリア・ソエミアス様がお探しです。お支度の続きをと」
「また?」
「はい。今夜、お会いになる方が増えるそうで」
ああ、とバッシアヌスは空を仰いだ。水盤から立ち上がると、軽く裾を払った。
「じゃあ、来るの?」
「護衛ですので」
そう言いながら歩き出すと、ルキウスは一歩後ろについた。近すぎず、遠すぎず、剣に手が届く位置。たしかに慣れた動きだ。
回廊を進みながら、バッシアヌスはふと思う。
この男はたぶん、自分の美しさにも、噂にも、いちいち心を乱されない。少なくとも表には出さない。そういう人間がそばにいるのは、少しだけ楽かもしれなかった。
「ねえ」
「はい」
「あなた、花は好き?」
前触れなくそう聞くと、ルキウスは眉をひそめた。
「急に何ですか」
「いいから」
「……嫌いではありません」
「薔薇は?」
「棘があります」
「好きか嫌いか聞いてるの」
「扱いづらいと思います」
「まったく」
バッシアヌスは笑った。
「じゃあ覚えておいて。わたしは好き。すごく」
「承知しました。あなたが何を好むか知っておくのは、護衛にも役立ちます」
「役立つんだ」
「誘い出される時に使われるかもしれない」
夢がない。
でもやっぱり、少しだけ頼もしかった。
回廊の先には、もう次の支度と次の視線が待っている。
忙しない午後だ。
なのに、後ろに無愛想な護衛が一人増えただけで、ほんの少しだけ足元が安定した気がした。
ご一読くださり、ありがとうございました




