表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/18

第六話 噂は花より早く散る

 昼の祈りを終えたころには、神殿の外の空気がもう変わっていた。


 回廊を抜けて中庭へ出ると、門の向こうに人影が増えている。巡礼、商人、物売り、兵士の使い走り、近隣の女たち。普段から人の出入りはあるが、今日は視線の向きが違った。皆、神殿そのものではなく、その奥にいる誰かを見に来ている。


「……やっぱり増えてる」


 バッシアヌスが呟くと、隣を歩く侍女が小さくうなずいた。


「朝より多いです」


「わたし、見世物になったの?」


「少なくとも、珍しいものではあります」


「珍獣みたいに言わないで」


「神獣のほうが近いかと」


「少しやかましいわね」


 侍女は笑ったが、声は少し硬かった。門の外からこちらを見る目の多さに、彼女も落ち着かないのだろう。


 バッシアヌスは足を止める。

 石畳の向こう、半開きの門扉の隙間から、外のざわめきが絶えず流れ込んでくる。


 昨夜のことが、もうここまで広がっている。


 兵がひざまずいた。

 死んだ皇帝に似た顔だった。

 神殿の美しい神子が、いよいよ帝都へ向かうらしい。


 言葉は勝手に育つ。

 人の口に移るたび、少しずつ形を変えながら。


「神子さま」


 門番の衛士が、困ったように声をかけてきた。


「中へお戻りください。門前が落ち着きません」


「落ち着いてないのは誰のせい?」


「皆があなたを見たがるからです」


 それもそうだった。


 バッシアヌスは門へ近づく。衛士が慌てて制止しかけたが、彼は軽く手を上げて止めた。


「少しだけ見るだけ」


「神子さま」


「大丈夫。食べられたりしないでしょう」


 門のすぐ手前まで進むと、外の声が一気に鮮明になる。


「本当にあの方なのか」

「カラカラ帝のご落胤だって」

「神殿の神子さまだろう?」

「えらく綺麗なお顔らしいぞ」

「兵が跪いたって聞いた」

「そんな馬鹿な」


 バッシアヌスは門の影に立ったまま、少しだけ首を傾げた。

 声だけなら、人はずいぶん勝手になれる。顔が見えないからだろう。目の前に本人がいたら、同じ調子で言える者はそう多くない。


「開けて」


 小さく言うと、門番が青ざめた。


「いけません」


「どうして」


「危険です」


 彼は少し考えた。

 たしかに、ここで不用意に姿を見せるべきではないのかもしれない。祖母ならそう言うだろう。顔は価値だ。安売りするな、と。


 でも同時に、顔を見せず噂だけが育つのも癪だった。


「じゃあ、少しだけ」


「神子さま!」


「声を出すだけ」


 そう言うや否や、バッシアヌスは門の隙間へ一歩寄った。


「そんなに気になるなら、もっと上品に噂なさい」


 門の外のざわめきが、ぴたりと止まる。


 姿は見えない。

 だが声は届いた。


「神殿の前で人のことを値踏みするなんて、あまり綺麗ではなくてよ」


 何人かが息を呑む気配がした。

 ついで、抑えたざわめきが波のように広がる。


「今の声……」

「本人か?」

「まさか」

「でも……」


 門番は完全に頭を抱えていた。侍女は口元を押さえて笑いをこらえている。


「神子さま、やりすぎです」


「そう?」


 門の向こうから、今度は年若い女の声がした。


「お許しください、神子さま! でも、本当にお綺麗なのか気になって」


 率直すぎて、バッシアヌスは思わず笑ってしまう。


「綺麗かどうかは、ご自分の目で決めればいいでしょう」


 門番がぎょっとする。


「神子さま」


「でも今は駄目」


 すぐ続けると、今度は外から不満そうな声が上がった。


 バッシアヌスは少しだけ顎を上げる。

 姿を見せていないのに、不思議とその仕草まで伝わる気がした。


「神殿は市ではないの。見世物小屋でもないわ。見たいからといって、なんでも覗けると思わないこと」


 ざわめきが引く。

 今度は少しだけ、畏れが混じった沈黙だった。


 その時、背後から冷えた声が飛んだ。


「ずいぶん楽しそうね」


 振り向くまでもない。

 マエサだった。


 門番が蒼白になる。侍女は即座に頭を下げた。

 バッシアヌスだけが、少し気まずそうに笑う。


「祖母さま」


「わたしは、門の前で噂に返事をしろと言ったかしら」


「言ってないけど」


「では、なぜそうなったの」


「向こうがあんまり好き勝手だから」


「だからといって、おまえが直々に相手をする必要はないわ」


 正論である。

 ぐうの音も出ない。


 だが門の向こうで、誰かが小さく囁く。


「今の、ユリア・マエサ様か」

「じゃあ本物だ」

「やっぱり中にいるんだ」


 祖母は一瞬だけ目を細めた。


「こちらへ」


 マエサが顎で示す。

 バッシアヌスはおとなしく従った。


 回廊を少し歩いたところで、祖母が言う。


「顔を見せなかったのは正しかったわ」


「褒めてる?」


「半分は」


「もう半分は?」


「声だけでも十分すぎるほど印象を残した」


 やっぱり怒られる流れかと思ったが、声音はそこまで険しくない。

 バッシアヌスは少しだけ肩の力を抜いた。


「でも、向こうも少しは静かになったでしょう」


「静かになったのではなく、餌を与えたの」


「餌?」


「ええ。『姿は見えないが、声は甘く、気位が高い神子』という新しい餌よ」


 そう言われてみると、確かにそうだった。


 美しい神子に、さらに新しい形容がつく。

 気まぐれだとか、高慢だとか、生意気だとか。

 あるいは、面白いとか。


「何も言わなくても勝手に噂されるし、言い返せばもっと増える」


「そういうものよ」


「じゃあ、どうすればいいの」


 マエサは立ち止まり、彼を見る。


「選ぶの」


「なにを?」


「どんな噂を生かし、どんな噂を殺すか」


 噂は全部止めるものではない。

 選ぶもの。育てるもの。切り捨てるもの。


「昨夜から今朝にかけてで言えば、『美しい』『先帝に似ている』『兵が膝をついた』は使える。『軽率』『神殿の奥で守られているだけの子ども』は消したい」


「今のやり取りで、後ろ二つは少し薄れる?」


「少なくとも黙って守られているだけではなくなったわね」


「じゃあ、少しはよかったんだ」


「危なかったけれど、無駄ではなかった」


 それは祖母なりの合格点らしい。


 バッシアヌスは回廊の柱にもたれ、息をついた。


「ローマって、こういうのばっかり?」


「もっと酷いわ」


「いや」


「でも、おまえなら嫌いきれないでしょうね」


 彼は顔を上げる。


「どうして」


「人の目を嫌がるくせに、惹きつけること自体は嫌いじゃないもの」


 図星で、返す言葉がない。


 たしかに彼は視線を怖がる。

 だが、完全に拒んでいるわけでもない。

 見られることは怖い。けれど、誰の目にも映らないことは、それ以上に寂しい。


「……祖母さまは」


 少し考えてから、彼は尋ねた。


「わたしが目立つの、好き?」


「好き嫌いではないわ」


「またそういう言い方」


「必要だから目立ってもらうの。でも」


 マエサは珍しく、少しだけやわらいだ目をした。


「おまえは目立つべくして目立つ子よ。だから使える」


「最後が台無し」


「褒めたつもりだったのだけれど」


 門の向こうで聞こえた声。

 本人の知らないところで膨らむ物語。

 自分の顔より先に歩いていく噂。


 それらはもう止まらないのだろう。


「ねえ、祖母さま」


「なに」


「わたし、これからもっと変なふうに語られる?」


「もちろん」


 マエサは涼しい顔で言う。


「美しい者、若い者、異国の者、権力に近い者。どれか一つでも噂の的になるのに、おまえは全部持っているもの」


「最悪」


「最高とも言えるわ」


「祖母さまにとっては、でしょ」


「ええ」


 あまりに迷いがなくて、逆に気持ちがいい。


 バッシアヌスは少しだけ考え、それから笑った。


「じゃあ、せめて退屈な噂だけは嫌だな」


「それでいいのよ」


「いいんだ」


「人は退屈な者を王にはしない」


 その言葉は、妙に胸へ残った。


 退屈でないこと。

 それは祝福なのか、災いなのか。

 まだ分からない。


 ただ一つ確かなのは、昨夜から今日にかけて、自分が少しずつ“静かな神殿の神子”ではなくなっているということだった。


 門の外では、まだ噂が花びらみたいに飛び交っているのだろう。

 掴めもしないのに、やけに人の手を汚す花びら。


 バッシアヌスは回廊の先を見た。


 その先には聖域がある。

 さらにその先には、まだ見ぬローマがある。

ご一読くださり、ありがとうございました

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ