第六話 噂は花より早く散る
昼の祈りを終えたころには、神殿の外の空気がもう変わっていた。
回廊を抜けて中庭へ出ると、門の向こうに人影が増えている。巡礼、商人、物売り、兵士の使い走り、近隣の女たち。普段から人の出入りはあるが、今日は視線の向きが違った。皆、神殿そのものではなく、その奥にいる誰かを見に来ている。
「……やっぱり増えてる」
バッシアヌスが呟くと、隣を歩く侍女が小さくうなずいた。
「朝より多いです」
「わたし、見世物になったの?」
「少なくとも、珍しいものではあります」
「珍獣みたいに言わないで」
「神獣のほうが近いかと」
「少しやかましいわね」
侍女は笑ったが、声は少し硬かった。門の外からこちらを見る目の多さに、彼女も落ち着かないのだろう。
バッシアヌスは足を止める。
石畳の向こう、半開きの門扉の隙間から、外のざわめきが絶えず流れ込んでくる。
昨夜のことが、もうここまで広がっている。
兵がひざまずいた。
死んだ皇帝に似た顔だった。
神殿の美しい神子が、いよいよ帝都へ向かうらしい。
言葉は勝手に育つ。
人の口に移るたび、少しずつ形を変えながら。
「神子さま」
門番の衛士が、困ったように声をかけてきた。
「中へお戻りください。門前が落ち着きません」
「落ち着いてないのは誰のせい?」
「皆があなたを見たがるからです」
それもそうだった。
バッシアヌスは門へ近づく。衛士が慌てて制止しかけたが、彼は軽く手を上げて止めた。
「少しだけ見るだけ」
「神子さま」
「大丈夫。食べられたりしないでしょう」
門のすぐ手前まで進むと、外の声が一気に鮮明になる。
「本当にあの方なのか」
「カラカラ帝のご落胤だって」
「神殿の神子さまだろう?」
「えらく綺麗なお顔らしいぞ」
「兵が跪いたって聞いた」
「そんな馬鹿な」
バッシアヌスは門の影に立ったまま、少しだけ首を傾げた。
声だけなら、人はずいぶん勝手になれる。顔が見えないからだろう。目の前に本人がいたら、同じ調子で言える者はそう多くない。
「開けて」
小さく言うと、門番が青ざめた。
「いけません」
「どうして」
「危険です」
彼は少し考えた。
たしかに、ここで不用意に姿を見せるべきではないのかもしれない。祖母ならそう言うだろう。顔は価値だ。安売りするな、と。
でも同時に、顔を見せず噂だけが育つのも癪だった。
「じゃあ、少しだけ」
「神子さま!」
「声を出すだけ」
そう言うや否や、バッシアヌスは門の隙間へ一歩寄った。
「そんなに気になるなら、もっと上品に噂なさい」
門の外のざわめきが、ぴたりと止まる。
姿は見えない。
だが声は届いた。
「神殿の前で人のことを値踏みするなんて、あまり綺麗ではなくてよ」
何人かが息を呑む気配がした。
ついで、抑えたざわめきが波のように広がる。
「今の声……」
「本人か?」
「まさか」
「でも……」
門番は完全に頭を抱えていた。侍女は口元を押さえて笑いをこらえている。
「神子さま、やりすぎです」
「そう?」
門の向こうから、今度は年若い女の声がした。
「お許しください、神子さま! でも、本当にお綺麗なのか気になって」
率直すぎて、バッシアヌスは思わず笑ってしまう。
「綺麗かどうかは、ご自分の目で決めればいいでしょう」
門番がぎょっとする。
「神子さま」
「でも今は駄目」
すぐ続けると、今度は外から不満そうな声が上がった。
バッシアヌスは少しだけ顎を上げる。
姿を見せていないのに、不思議とその仕草まで伝わる気がした。
「神殿は市ではないの。見世物小屋でもないわ。見たいからといって、なんでも覗けると思わないこと」
ざわめきが引く。
今度は少しだけ、畏れが混じった沈黙だった。
その時、背後から冷えた声が飛んだ。
「ずいぶん楽しそうね」
振り向くまでもない。
マエサだった。
門番が蒼白になる。侍女は即座に頭を下げた。
バッシアヌスだけが、少し気まずそうに笑う。
「祖母さま」
「わたしは、門の前で噂に返事をしろと言ったかしら」
「言ってないけど」
「では、なぜそうなったの」
「向こうがあんまり好き勝手だから」
「だからといって、おまえが直々に相手をする必要はないわ」
正論である。
ぐうの音も出ない。
だが門の向こうで、誰かが小さく囁く。
「今の、ユリア・マエサ様か」
「じゃあ本物だ」
「やっぱり中にいるんだ」
祖母は一瞬だけ目を細めた。
「こちらへ」
マエサが顎で示す。
バッシアヌスはおとなしく従った。
回廊を少し歩いたところで、祖母が言う。
「顔を見せなかったのは正しかったわ」
「褒めてる?」
「半分は」
「もう半分は?」
「声だけでも十分すぎるほど印象を残した」
やっぱり怒られる流れかと思ったが、声音はそこまで険しくない。
バッシアヌスは少しだけ肩の力を抜いた。
「でも、向こうも少しは静かになったでしょう」
「静かになったのではなく、餌を与えたの」
「餌?」
「ええ。『姿は見えないが、声は甘く、気位が高い神子』という新しい餌よ」
そう言われてみると、確かにそうだった。
美しい神子に、さらに新しい形容がつく。
気まぐれだとか、高慢だとか、生意気だとか。
あるいは、面白いとか。
「何も言わなくても勝手に噂されるし、言い返せばもっと増える」
「そういうものよ」
「じゃあ、どうすればいいの」
マエサは立ち止まり、彼を見る。
「選ぶの」
「なにを?」
「どんな噂を生かし、どんな噂を殺すか」
噂は全部止めるものではない。
選ぶもの。育てるもの。切り捨てるもの。
「昨夜から今朝にかけてで言えば、『美しい』『先帝に似ている』『兵が膝をついた』は使える。『軽率』『神殿の奥で守られているだけの子ども』は消したい」
「今のやり取りで、後ろ二つは少し薄れる?」
「少なくとも黙って守られているだけではなくなったわね」
「じゃあ、少しはよかったんだ」
「危なかったけれど、無駄ではなかった」
それは祖母なりの合格点らしい。
バッシアヌスは回廊の柱にもたれ、息をついた。
「ローマって、こういうのばっかり?」
「もっと酷いわ」
「いや」
「でも、おまえなら嫌いきれないでしょうね」
彼は顔を上げる。
「どうして」
「人の目を嫌がるくせに、惹きつけること自体は嫌いじゃないもの」
図星で、返す言葉がない。
たしかに彼は視線を怖がる。
だが、完全に拒んでいるわけでもない。
見られることは怖い。けれど、誰の目にも映らないことは、それ以上に寂しい。
「……祖母さまは」
少し考えてから、彼は尋ねた。
「わたしが目立つの、好き?」
「好き嫌いではないわ」
「またそういう言い方」
「必要だから目立ってもらうの。でも」
マエサは珍しく、少しだけやわらいだ目をした。
「おまえは目立つべくして目立つ子よ。だから使える」
「最後が台無し」
「褒めたつもりだったのだけれど」
門の向こうで聞こえた声。
本人の知らないところで膨らむ物語。
自分の顔より先に歩いていく噂。
それらはもう止まらないのだろう。
「ねえ、祖母さま」
「なに」
「わたし、これからもっと変なふうに語られる?」
「もちろん」
マエサは涼しい顔で言う。
「美しい者、若い者、異国の者、権力に近い者。どれか一つでも噂の的になるのに、おまえは全部持っているもの」
「最悪」
「最高とも言えるわ」
「祖母さまにとっては、でしょ」
「ええ」
あまりに迷いがなくて、逆に気持ちがいい。
バッシアヌスは少しだけ考え、それから笑った。
「じゃあ、せめて退屈な噂だけは嫌だな」
「それでいいのよ」
「いいんだ」
「人は退屈な者を王にはしない」
その言葉は、妙に胸へ残った。
退屈でないこと。
それは祝福なのか、災いなのか。
まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、昨夜から今日にかけて、自分が少しずつ“静かな神殿の神子”ではなくなっているということだった。
門の外では、まだ噂が花びらみたいに飛び交っているのだろう。
掴めもしないのに、やけに人の手を汚す花びら。
バッシアヌスは回廊の先を見た。
その先には聖域がある。
さらにその先には、まだ見ぬローマがある。
ご一読くださり、ありがとうございました




