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第五話 母は旅支度を嫌う

 翌朝、神殿はひどく騒がしかった。


 まだ日が高くなる前だというのに、回廊という回廊を人が行き交っている。巫女たちは香炉や布を運び、侍女たちは衣装箱を開けては閉め、衛兵たちは低い声で連絡を飛ばし合っていた。


 まるで祭りの前みたいだ、とバッシアヌスは思う。


 ただし、誰の顔にも浮き立つ気配はない。あるのは緊張と忙しさ、そして何かがもう後戻りできないところまで動き出してしまったという空気だけだった。


「……本当にやるのね」


 寝台に座ったまま呟くと、侍女たちが一斉に振り向いた。


「はい、陛下さま」


「やめて、その呼び方」

「では、若さま」

「それも違う気がする」

「では、なんと」


 困られて、バッシアヌスは肩を落とす。


「バッシアヌスでいいわ」


「私どもがそんな恐れ多いことを」


「昨夜まで普通にそう呼んでいたでしょう」


「昨夜までと今朝では、事情が違います」


 窓から差し込む朝の光は昨日と同じなのに、神殿の空気そのものが違う。広げられた衣装箱には、旅に向いた実用的な服よりも、明らかに“見せるため”の豪奢な装いが多かった。白、紫、金、深紅。宝飾の箱まである。


「どうして旅に真珠の首飾りが三本も必要なの」


「必要です」


「必要なんだ」


「はい。第一印象は戦より大切です」


 その台詞は、どう考えても祖母の受け売りだった。


「祖母さま?」


「ユリア様のご指示です」


「でしょうね……」


 昨夜は、聖石をローマへ運ぶという話に胸が熱くなった。けれど朝になって現実が動き出すと、別の種類のめまいがする。


 本当に旅が始まるのだ。

 本当にエメサを離れるのだ。

 本当にローマへ行くのだ。


「お召し替えを。ユリア様がお呼びです」


「祖母さまが? 母さまじゃなくて?」


「お二人ともです」


 それは、だいぶ嫌な予感がした。


 選ばれたのは、やはり人目を引く装いだった。軽い白の長衣に、肩から落ちる細い紫布。胸元と袖口には金糸の太陽紋。髪はゆるく結い上げられ、額には細い日輪飾りが置かれる。


「どうして朝からこんなに飾るの」


「今朝から、見られる側だからです」


「神殿の中で?」


「神殿の中でも、です」


 磨かれた銀盤に映る自分を見ながら、バッシアヌスはふっと笑った。


「見られる側、ね」


 これまでも見られてはきた。舞うときも、巡礼に姿を見せるときも、“神殿の美しい神子”として。だが今朝からは違う。これから向けられるのは、値踏みし、期待し、利用しようとする視線だ。


 見られる、というのは案外疲れる。


 回廊へ出ると、神殿は本当に別世界だった。運び込まれる箱、確認される名簿、立ち止まって頭を下げる人々。昨日までと、礼の深さが違う。


「……いや」


「なにがですか?」


「慣れない」


「すぐ慣れます」


「慣れたくないものってあるでしょう」


「でも、慣れたほうが楽なものもあります」


「それもそうだけど」


 囁き合ううちに、会議の広間へ着いた。


 中にはすでにマエサとソエミアスがいる。


「ああ、来たのね」


 マエサは一目見てうなずいた。


「悪くないわ」


「祖母さまの侍女たちが全力でしたから」


「当然でしょ」


 一方、ソエミアスは見るなり顔を曇らせた。


「……もう旅支度みたいな格好をさせて」


「旅支度というより、見せるための支度ね」


「だから嫌なのよ」


 バッシアヌスが近づくと、ソエミアスは髪を少し直し、小さくため息をつく。


「似合いすぎるのが、ほんとうに腹立たしいわ」


「褒めてる?」


「半分はね」


 もう半分は不安だと、彼にも分かった。だからこそ軽く返す。


「安心して。ローマへ行っても、母さまより綺麗な人には鏡を見なきゃ会わないわ」


「そういう口だけは立派ね」


「口だけ?」


「そういうとこ」


 ほんの少し、母の顔が和らいだ。


 その様子を見て、マエサが本題に入る。


「出立までに準備すべきことが山ほどある。商人、使者、神官、一族の協力者――会わせたい者たちがいるわ。今すぐ深く関わる必要はないけれど、顔だけは見せる」


「顔ね」


「おまえほどの顔ならなおさら」


 さらりと言われ、バッシアヌスは目を細めた。


 卓上の地図には街道と合流地点、宿営地、連絡点が記されている。旅というより作戦だ。


「……母さまは、まだ反対?」


「反対よ」


 ソエミアスは即答した。


「でも行くわ。おまえを一人で行かせないために」

「わたし、そんなに頼りない?」


「ええ、とても」


「ひどい」


「そういう意味じゃないの」


 彼女は歩み寄り、肩に手を置く。


「おまえは一人で笑えるし、一人で立てる。でも、そういう子ほど、誰かが隣にいないと急に壊れるのよ」


「じゃあ、ずっと隣にいてね」


「いるわ」


 本気でうなずかれて、少し困る。けれど、それが母らしかった。


 マエサが咳払いをひとつした。


「しんみりするのは夜にしなさい。今は、おまえが持っていくものを決める」


「聖石?」


「それは最後よ」


 示された小箱には、印章、香料、書簡、護符、紋章布が収められていた。


「おまえを誰として見せるかを決める品々よ」


 金の印章を手に取る。太陽の紋と、一族の印。


「綺麗」


「それを見て最初に綺麗って言うのね、おまえ」


「だって綺麗だもの」


 光にかざすと、小さな太陽がきらりと光った。ローマへ行けば、こういうもの一つひとつが血であり、正統であり、権威になるのだろう。


 そのとき、衛士が来客を告げた。


 通されたのは、エメサ神殿の大神官だった。白髭をたくわえた老神官は、礼のあとで卓上の旅支度を見やり、重く息を吐く。


「本当にお連れになるおつもりですか」


 誰を、とは言わない。だが、この場にいる全員に分かった。神子ではない。神を、だ。


「ええ」とマエサは言った。


「聖石はこの地の心です。それをローマへ運ぶなど」


「だからこそ意味がある」


「だからこそ罰が当たるやもしれぬ」


 静まり返る広間の中で、老神官はバッシアヌスへ視線を向けた。


「神子さま。あなたは、どうお考えです」


 試されている、と思った。祖母も母もそれぞれの理屈で進むだろう。だが神殿の者たちにとって、聖石は世界の中心だ。


「……連れていきたい」


 気づけば、言葉はまっすぐ出ていた。


「わたしだけがローマへ行くのは、違う気がする。あの都は、わたしをわたしとして見ないかもしれない。でも聖石が一緒なら、少なくとも私はエメサの神子でいられる。ローマの冠を被っても、ここから来たことを忘れずにすむ」


 老神官は長く彼を見つめ、やがて小さく息を吐いた。


「それは、神に仕える者の答えです。……ただ、あまりに危うい」


「危ういまま行くしかないみたい」


 老神官は苦笑した。


「神は、そういう者をお選びになることがありますな」


 そのとき、別の衛士が駆け込んできた。


「昨夜の件、もう市に噂が出ております」


「どんな噂?」とマエサが問う。


「神殿の美しい神子が、死んだ皇帝そっくりの顔で兵を跪かせた、と」


 バッシアヌスは息を止めた。もう都に流れている。しかも熱を帯びて。


「上々ね」とマエサは微笑む。


「全然上々じゃないわ!」とソエミアスが怒る。


 だがバッシアヌスの胸には、奇妙な冷たさが落ちていた。


 これだ。自分が何かをした瞬間、それは別の物語になる。人の口に乗った途端、自分のものではなくなる。


「……面白いね」


 三人がこちらを見る。


「まだローマにも着いていないのに、もう物語が始まってる。わたしが昨日どんなふうに怖くて、どんなふうに笑ったかなんて、誰も知らないのに。残るのは見た目と、言いやすい言葉だけ」


「でも、それが都よ」とマエサは言う。


「人が集まれば、どこでも同じ」


 バッシアヌスは小さく笑った。


「じゃあ、なおさら綺麗でいないと損ね」


「そこに戻るの?」


「噂が先に歩くなら、せめて綺麗な噂のほうがいいでしょう」


 母は呆れ、老神官はため息をつき、祖母だけが満足げだった。


 たぶん自分は、もう始まってしまったのだ。旅でも戦でもなく、語られることが。


 なら、ただ黙って語られるだけの人形にはなりたくない。


 遠くで鐘が鳴った。昼の祈りを告げる鐘。今日は妙に高く響く。出発の号令のように。


「祈りに行ってくる」


「今から?」


「でも、神さまのほうが先」


 広間を出る直前、バッシアヌスは振り返った。


「母さま。旅支度、嫌い?」


「大嫌いよ。でも、おまえの旅支度なら最後まで手伝うわ」


 彼は少しだけ目を細めた。


「ありがとう」


 回廊の先では祈りの煙が揺れている。神殿の空気はまだ自分のものだ。けれど外では、もう噂が走っている。


 美しい神子。

 皇帝の影。

 兵を跪かせた少年。


 そのどれもが、まだ本当ではない。けれど本当でないものほど、人は面白がって信じる。


 だったら、もっと面白くしてやればいい。


 どうせ語られるなら、忘れられないほどに。

ご一読くださり、ありがとうございました

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