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第四話 黒い石は、なにも答えない

 兵たちが去ったあと、神殿はひどく静かになった。


 さっきまで庭に満ちていた鉄の気配も、低い声のやり取りも、もう残っていない。あるのは夜風と灯火の揺れる音、それから香炉の中でゆっくり燃え続ける乳香の匂いだけだった。


 それなのに、バッシアヌスの胸は少しも静まらなかった。


「……眠れそう?」


 回廊を歩きながら、ソエミアスが横目でうかがってくる。


「たぶん無理」


「でしょうね」


 母は苦く笑った。


 その笑みの奥に、まだ消えない不安がある。兵たちがひざまずいたことで、危機が去ったわけではない。むしろ、これから本当の危機が始まるのだと、この人はよく分かっているのだろう。


「少し休んだほうがいいわ。顔色が悪いもの」


「今さら?」


「今さらでもよ」


 ソエミアスは立ち止まり、彼の頬に触れた。


「さっきは立派だった。でも、おまえはまだ十四なの。夜が明けたら急に大人になっているわけじゃない」


「残念」


「全然残念そうじゃない言い方」


「だって、少しは大人っぽく見えたのでしょう?」


「ええ、とても」


 それから母は、少しだけ声を落とした。


「……だから余計に、怖いの」


 バッシアヌスは返事をしなかった。


 その言葉の意味は、よく分かる。子どもが子どもらしく振る舞っていれば、まだ守る理屈も立つ。けれど今夜の自分は、兵たちの前でたしかに“使える顔”を見せてしまった。祖母が喜ぶだけのものを、ちゃんと差し出してしまった。


「母さま」


「なに?」


「わたし、少しだけ聖域に寄ってもいい?」


 ソエミアスの表情がかたくなる。


「こんな時間に?」


「だからこそ」


「……一人で?」


「一人がいい」


 母はしばらく彼を見つめていたが、やがて観念したように息をついた。


「長くはいけないわよ」


「うん」


「冷える前に戻ってくること」


「うん」


「あと」


 ソエミアスはわずかに身を寄せ、額に口づけた。


「神さまに、変なお願いをしないこと」


 その言い方に、バッシアヌスはつい笑ってしまう。


「変なお願いって、なに」


「ローマをください、とか」


「それはもう、祖母さまがお願いしているから」


「冗談になっていないのよ」


 母は眉をひそめたが、最後にはいつものように彼の髪を撫でて、侍女たちとともに自室のほうへ戻っていった。


 一人になる。


 回廊の先、聖域へ続く石段は夜になると昼間よりも白く見えた。月光を吸って、冷たい水面のように光るからだ。


 バッシアヌスは灯火を一つだけ手に取り、石段を上がった。


 足音がやけに大きく響く。

 こんなに静かな神殿を、彼はあまり知らない。


 昼は巡礼たちの祈りがある。

 夕方には巫女たちの歌がある。

 夜は夜で衛兵の声や風の音が重なる。


 けれど今は、そのどれも遠い。


 聖域の入口に立つと、夜番の巫女が驚いた顔をした。


「神子さま」


「少しだけ、一人にして」


「ですが」


「お願い」


 年若い巫女は迷ったが、結局、深く頭を下げて退いた。


 彼女が去るのを見届けてから、バッシアヌスは聖域の内へ入る。


 昼間と同じ場所。

 同じ石床。

 同じ柱。

 同じ香り。


 なのに、そこにある空気はまるで違った。


 最奥で、黒い聖石がじっと沈黙している。


 昼には太陽を受けて鈍く光っていた表面は、今は月の白さを吸って、夜そのものの塊みたいに見えた。


「……ねえ」


 彼は灯火を足元に置き、聖石の前に腰を下ろした。


「聞いていたのでしょう、さっきのこと」


 当然、返事はない。


 バッシアヌスは膝を抱える。


「わたし、うまくやれたと思う。祖母さまもそういう顔をしていたし、母さまは泣きそうだったけど、怒ってはいなかった」


 沈黙。


「でも、分からないの」


 彼は聖石を見上げた。


「どうしてこんなに、胸が変なのか」


 誇らしいのか。

 怖いのか。

 嬉しいのか。

 気持ち悪いのか。


 さっき兵たちがひざまずいた光景が、まだ目の裏に残っている。あれは美しかった。正直に言えば、気分がよかった。自分が誰かの希望になったみたいで、甘かった。


 でも同時に、あの瞬間、彼らは誰も“バッシアヌス”を見ていなかった。


 見ていたのは血だ。顔だ。幻だ。

 死んだ皇帝の続きにすぎない影。


「……あなたは、わたしを見ている?」


 思わずそう口にしたとき、自分でも少し驚いた。


 問いの形が、ひどく幼かったからだ。


 けれど神の前でくらい、子どもでいても許される気がした。


「皆、わたしに何かを重ねるの。先帝だとか、希望だとか、都合のいい夢だとか。祖母さまは武器として見ているし、母さまは息子としてしか見ない。兵たちは旗印にしたいだけ」


 彼はそっと聖石に触れた。


 冷たい。

 相変わらず冷たい。


「なら、あなたは?」


 当然、なにも答えない。


「……わたしを、わたしとして見てくれる?」


 静寂だけが返る。


 その静けさが、優しさに思える日もある。

 でも今夜は少しだけ、残酷だった。


 分からないからだ。

 神が沈黙しているのか。

 そもそも最初から、ここにいるのはただの石だけなのか。


「返事くらいしてくださればいいのに」


 そう呟いて、彼は苦笑した。


「これからローマに行くかもしれないのよ。もっと気の利いた祝詞とか、神託とか、そういうのがあってもいいでしょう」


 もちろん返事はない。


 聖域の奥で、火がひとつ、ぱち、と鳴った。


 その音に顔を上げたとき、背後で衣擦れがした。


「ずいぶん、甘えた祈りをするのね」


 バッシアヌスは振り返る。


 そこには、マエサがいた。


「……祖母さま」


「驚いた?」


「少し」


「でも来ると思っていたでしょう」


 否定できなかった。


 この人はいつだって、現れるべき場面で現れる。

 まるで最初から舞台の脚本を知っているみたいに。


「盗み聞きは趣味なの?」


「大事な孫が神に弱音を吐いていたら、気にもなるわ」


「聞いてたんだ」


「少しだけ」


 マエサは彼の向かいに立ち、聖石を見た。


「おまえは昔から、この石によく話しかけるわね」


「祖母さまだって、話しかけたことくらいあるでしょう」


「ないわ」


「本当に?」


「神に頼る前に、人を動かすほうが早いもの」


 あまりにもマエサらしい答えで、バッシアヌスは呆れ半分、可笑しさ半分で息を吐いた。


「それ、神殿で言うことじゃないでしょう」


「でも本当よ」


 祖母は平然としている。


「神は大事。でも神は軍団を編成してくれないし、金も運んでこない。帝位が欲しいなら、人の欲を動かすしかない」


「わたしは欲しいなんて言ってない」


「いいえ、少しは欲しくなった」


 言い切られて、バッシアヌスは黙る。


 図星だった。


 兵たちの前に立ったとき、たしかに彼は思ったのだ。

 怖い。けれど、この視線をもう一度欲しい、と。


「いやな顔をしないで」


 マエサは少しだけ笑う。


「欲しがることは悪いことじゃない。むしろ健全よ。欲のない子は、奪われたときに取り返せないもの」


「祖母さまは、なんでも欲しがってそう」


「ええ。だいたいは」


「正直すぎる」


「おまえもそうなさい」


 バッシアヌスは聖石にもたれそうになるのをこらえ、祖母を見上げた。


「祖母さまは、わたしが皇帝になれると思ってる?」


「なれるわ」


「言い切るのね」


「でも、良い皇帝になれるかは別」


「ひどい」


「嘘よりましでしょう」


 マエサの声は冷たい。

 けれど今夜は、その冷たさが少しだけありがたかった。


 母は守ろうとする。

 祖母は使おうとする。

 そのどちらも重いけれど、少なくともマエサは、美しい嘘で甘やかしたりはしない。


「わたし、向いてないと思う」


 思わず本音がこぼれた。


「剣も好きじゃないし、政務もよく知らないし、兵たちみたいな目で人を見るのも苦手。きれいなもののほうが好き。香も、花も、音楽も、祭りも」


「それでいいのよ」


「よくないでしょう」


「誰が決めるの?」


「ローマが」


「ローマはいつも、自分たちの都合を“正しさ”って呼ぶの」


 マエサは一歩近づいた。


「聞きなさい、バッシアヌス。おまえがローマに嫌われるとしたら、それは無能だからだけじゃない。美しすぎるからよ。異国めいているから。彼らの『皇帝らしさ』から外れているから」


 その言葉は鋭かった。


 けれど、どこかで分かっていたことでもある。


「じゃあ、どうすればいいの」


「二つあるわ」


「なに?」


「一つ。彼らに合わせて鈍くなる」


「嫌」


「でしょうね」


「もう一つは?」


「嫌われる前に、魅了してしまうこと」


 バッシアヌスは目を瞬く。


 それは昨日、自分が口にしたことに近かった。


「……できると思う?」


「今夜、半分は成功したでしょう」


 マエサは聖石を一瞥し、肩をすくめる。


「残りの半分は、ローマでやるしかない」


「失敗したら?」


「死ぬかもしれないわ」


 さらりと言われて、バッシアヌスは思わず顔をしかめた。


「祖母さま、ほんとうに優しくない」


「優しさだけで守れるなら、とっくにそうしてる」


 それきり、しばらく沈黙が落ちた。


 聖石は黒いまま、なにも答えない。

 祖母もまた、慰めはくれない。


 なのに、奇妙といえば奇妙だが、その無言の空間は嫌ではなかった。


「ねえ、祖母さま」


「なに」


「もし、わたしが本当に皇帝になったら」


「ええ」


「ローマ中の神殿に、エメサの香を焚いてもいい?」


 マエサは一瞬だけあきれた顔をした。


「最初に考えることがそれ?」


「だって、ローマは石の匂いしかしなさそうなんだもの」


「……そうね。悪くないかもしれない」


「ほんと?」


「でも、その前に帝都に入らなきゃいけないわ」


「現実的」


「それがわたしの役目だもの」


 バッシアヌスは小さく笑った。


 そして、もう一度だけ聖石に触れる。


「聞こえた? わたし、たぶん本当に行くことになる」


 黒い表面は、やはり黙ったままだ。


「ひどい神さま」


 そう呟くと、マエサが珍しく柔らかい声音で言った。


「神は答えないほうがいいこともあるわ」


「どうして」


「答えを知ったら、人は怖くて進めなくなるから」


 その言葉に、バッシアヌスは顔を上げる。


 祖母の横顔は、火に照らされて鋭く見えた。

 この人もまた、若い頃は何かを捨ててここまで来たのだろうか、とふと思う。


「……じゃあ、知らないままで行くしかないのね」


「そうよ」


「ずるい」


「人生なんて大抵そういうものよ」


 バッシアヌスは立ち上がった。

 長く座っていたせいで足が少し痺れている。


「戻るわ」


「ええ」


「祖母さまは?」


「少しここにいる」


「神に話しかけるの?」


「まさか」


「じゃあ何をするの」


「勝てますようにって、考えるだけ」


 それは祈りと何が違うのだろう、と一瞬思ったが、あえて言わなかった。


 聖域を出る前に、バッシアヌスは振り返る。


 黒い聖石。

 その前に立つ祖母。

 揺れる灯火。


 その光景は、妙に胸へ焼きついた。


 今はまだ、ここが自分の世界だ。

 香と石と沈黙でできた、神殿の夜。


 けれど、もう長くはいられない。


「ねえ、祖母さま」


「なに」


「ローマへ行っても、わたしはこの石を連れていける?」


 マエサはゆっくり振り返った。


 そして、初めて今夜、本当の意味で満足そうに微笑んだ。


「そのつもりでいるわ」


 バッシアヌスは息を呑んだ。


 それは、とんでもない話だった。

 エメサの聖石を、ローマへ。

 自分だけではなく、神そのものを帝都へ連れていく。


 でも次の瞬間、その無茶苦茶さに、胸の奥が熱くなった。


「……そう」


「ええ」


「だったら、少し安心した」


「なぜ?」


 彼は笑う。

 昨日より、今夜より、少しだけ本物の笑いだった。


「だって、一人で怪物になるのは、さびしいでしょう」


 その言葉に、マエサは何も答えなかった。


 ただ、否定もしなかった。


 バッシアヌスは聖域をあとにする。

 回廊へ戻ると、夜風が頬に冷たかった。


 神はなにも答えなかった。

 けれど祖母は答えた。


 ローマへ行く。

 しかも、自分だけではなく、神の黒い石も一緒に。


 その事実は恐ろしくて、馬鹿みたいで、でもひどく甘美だった。


 もしかしたら、自分は本当に皇帝になるのかもしれない。

 もしかしたら、ローマという巨大な都に、自分の香と花と神を持ち込めるのかもしれない。


 そう考えた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


 怖さではない。

 期待だ。


 まだかすかな、それでも確かに熱を持った期待。

ご一読くださり、ありがとうございました

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