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第三話 兵たちは、幻にひざまずく

 兵たちが神殿の奥庭に入ってきたのは、月が中天にかかったころだった。


 昼間は巡礼や巫女たちの足で満ちる白い石畳も、今夜ばかりは別の顔をしている。青銅の燭台にともされた火が、槍の穂先や鎧の金具に反射して、低い位置でちらちらと揺れていた。香の匂いはまだ残っているのに、その下に汗と革と鉄の匂いが混じる。神の庭に、戦の気配が入り込んでいた。


 バッシアヌスは柱廊の奥に立ち、その光景を黙って見ていた。


「……ずいぶん多いのね」


 思わず漏れた声は、思ったより乾いていた。


 隣に控えるソエミアスが、彼の袖をぎゅっと握る。


「まだ引き返せるわ。気分が悪いと言って――」


「母さま」


「バッシアヌス」


「今さら倒れたら、兵たちの期待を裏切ることになるでしょう」


「期待なんて……そんなもの……」


「そうしたら、次は剣が来るかもしれない」


 ソエミアスは黙った。

 黙るしかなかったのだ。


 バッシアヌスはゆっくり息を吸う。香炉から上がる乳香の煙は甘い。だが肺の奥に入ってくるのは、それだけではなかった。どこか焦げつくような緊張が、胸の内側に薄く張りついている。


 怖い。


 その感情を認めるのは癪だったが、確かに怖かった。


 けれど、同時に少しだけ――ほんの少しだけ、高揚している自分もいた。

 見知らぬ大勢の目が、自分を待っている。

 それは恐怖であると同時に、甘い毒でもあった。


「祖母さまは?」


「先に使者たちと話しているわ」


 ソエミアスが唇を噛む。

 その声音に、マエサへの苛立ちが滲む。


 やはり祖母は、もう今夜を“交渉の場”として完成させているのだ。自分の孫が、まだ十四の少年でしかないことなど、必要なとき以外は忘れてしまえる人なのだろう。


「母さま」


「なに」


「もしわたしが上手に笑えたら、あとで褒めてくださる?」


 ソエミアスは目を見開き、それから泣きそうな顔で笑った。


「……ええ。誰よりもきれいだったって、ちゃんと言うわ」


「よかった」


 バッシアヌスは肩の力を少し抜いた。


 今夜の衣は、昼間の祭衣よりもさらに手が込んでいる。白を基調にしながら、裾と袖に金糸で太陽の意匠が織り込まれ、胸元には赤い石が点々と縫い付けられていた。額飾りは細い金の輪で、そこから垂れる鎖が眉間のあたりで一粒の宝石を揺らす。神官としての清浄さと、一族の血統が持つ豪奢とを、同時に見せる装いだ。


 祖母の趣味はいつも正確で、そして残酷だ。

 きっと今夜の自分は、兵たちが見たいものにぴったり見える。


「お呼びです」


 低い声とともに、戸口に衛士が現れる。


 ついにその時が来た。


 ソエミアスの指が最後にもう一度だけ彼の袖を掴み、離れる。

 バッシアヌスはわずかにうなずき、柱の影から歩み出した。


 奥庭は、思った以上に静かだった。


 兵たちは十数人。全員が甲冑を着込んでいるわけではないが、皆、身体のどこかに剣や短剣を差している。神殿の庭にいるには場違いなほど粗野な男たちだ。日に焼けた肌、割れた爪、刃傷の跡。だが目だけはぎらついていた。


 その視線が、一斉にこちらへ集まる。


 値踏み。

 期待。

 猜疑。

 そして飢え。


 バッシアヌスは一瞬、足を止めそうになった。

 けれどその時、庭の中央でマエサがこちらを振り返った。


「おいでなさい」


 優しい声だった。

 だがその優しさは、舞台に立つ役者を促す支配人のものに近い。


 バッシアヌスは、ゆっくり前へ出た。


 石畳の中央まで来たところで立ち止まり、兵たちを見渡す。

 思っていたよりも、皆、自分を真剣に見ていた。笑う者もいない。軽んじる者もいない。ただ、彼らは探しているのだ。この顔の中に、死んだ皇帝の影を。自分たちを再び熱狂させる何かを。


「この方が、ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス」


 マエサが静かに言う。


「わが孫にして、尊き血を継ぐ者です」


 兵の一人が前へ出た。年嵩の男で、頬に古い傷がある。

 目つきは鋭いが、礼を失してはいない。つまり、この場はまだ完全な賭けではないということだ。


「噂は聞いております」


 男はそう言って、バッシアヌスをまっすぐ見た。


「お顔立ちが、たしかによく似ておられる」


 誰に、とは言わない。

 言わなくても分かる。


 バッシアヌスは小さく首を傾げた。


「似ていると言われるのは、悪い気はしません」


 その言葉に、兵たちのあいだにわずかなざわめきが走った。

 想像よりも、柔らかい声だったのだろう。もっとおどおどした子どもか、あるいは神殿に籠もるだけの夢見がちな美少年を想定していたのかもしれない。


「あなたは……」


 傷のある男が言い淀む。


「あなたは、ご自分が何を意味するか、お分かりですか」


 その問いは、試しだった。


 分かっていない子どもなら使いやすい。

 分かりすぎている大人なら危険だ。

 彼らはたぶん、その中間を探っている。


 バッシアヌスは、少しだけ笑った。


「意味、ですか」


「ええ」


「皆さまの目を見れば、だいたいは」


 答えながら、彼は一歩だけ前へ出る。

 灯火が横顔を撫で、額飾りの石が小さく光った。


「あなた方は、わたしを見ているのではありません」


 兵たちの表情が強張る。

 その通りだからだ。


「もっと別のものを見ている。死んだ皇帝の面影かもしれないし、奪われた栄光の続きを見ているのかもしれない」


 静まり返る庭に、自分の声だけが澄んで響く。


「でも、構いません」


 バッシアヌスはそこで、真正面から彼らを見た。


「人は最初から本当の誰かを見ることなんて、ほとんどできないもの。なら、見たいものを見ればいいのです」


「……では」


 別の兵が低く言った。


「あなたは、その幻になると?」


「いいえ」


 バッシアヌスは即座に首を振った。


「幻では終わりません」


 それは自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。

 けれど、口にした瞬間、胸の奥で何かが定まった気がした。


「もし皆さまが、わたしに過去を重ねるのなら、わたしはその上に、新しい顔を描いてみせましょう」


 男たちは黙っている。

 だがもう先ほどとは違う目で彼を見ていた。


 ソエミアスが柱の陰で息を呑んだのが分かる。

 マエサは、ほんのわずかに口元を上げていた。


「大きく出たものだ」


 傷ある男がそう言うと、周囲から低い笑いがもれた。侮りではなく、試験の第一問を越えた者への反応だった。


「では伺いたい。もしあなたが帝位を望まれるなら、兵に何を与えてくださる?」


 来た。

 バッシアヌスはそう思った。


 結局、人は美や血筋だけでは動かない。

 兵には報酬が要る。勝利が要る。自分たちを価値ある存在として扱う主が要る。


 けれど彼は、政治の言葉を祖母ほどは知らない。


 だから別のものを差し出すことにした。


「約束を」


 兵たちが目を細める。


「あなた方が剣を抜くなら、その剣がどの神の前でも恥にならぬように。あなた方が血を流すなら、その血が犬死にで終わらぬように。そう約束します」


「それだけか」


「それだけでは足りませんか?」


 バッシアヌスはにっこり笑った。


「なら、もう一つ。わたしが皇帝になったなら、兵に背を向けて宮殿の奥へ逃げ込むような主にはなりません」


 それは、現皇帝マクリヌスへの当てこすりとして十分だったのだろう。何人かが鼻で笑い、何人かは露骨に口元を歪めた。


「面白い」


「少なくとも、つまらぬ子ではないらしい」


「顔だけではなかったか」


 囁きが、少しずつこちらに有利な色を帯びていく。


 バッシアヌスは気づかれぬよう息を吐いた。

 どうやら、まだ首はつながっているらしい。


 その時、傷ある男が突然、片膝をついた。


 石畳に革の膝当てが当たる、重い音。


 庭の空気が変わった。


「私はガッリカ軍団の者として申し上げる」


 男は頭を垂れたまま言う。


「もし真に、あなたが我らの先帝の血を引く御方であるなら」


 一拍。


「我らは、あなたをお守りする」


 ソエミアスが小さく息を漏らす。

 マエサは何も言わない。だが勝利の匂いがした。


 続いてもう一人、さらにもう一人と膝をつく。

 全員ではない。それでも十分だった。最初のひざまずきが生まれれば、空気はもう変わる。


 バッシアヌスは、その光景を見下ろした。


 自分のために。

 いや、違う。

 自分に重ねた幻のために。


 それでも、ひざまずかれるというのは奇妙な感覚だった。怖い。甘い。逃げたい。もっと見たい。全部が同時に押し寄せる。


「お顔をお上げになってください」


 彼はそう言った。

 思ったよりも、皇帝らしい響きになった。


 兵たちが顔を上げる。


「わたしはまだ、あなた方に何も返していません。なのに膝をつかせてしまうのは、少しだけ心苦しい」


 何人かが意外そうな顔をする。


 バッシアヌスは続けた。


「でも、今夜のことは忘れません。皆さまが見た幻が、ただの幻で終わらぬようにします」


 沈黙のあと、傷ある男が口元を歪めた。


「やはり、面白い」


 今度の笑みには、さっきよりはっきりと好意が混じっていた。


 交渉はそれで終わりではなかった。

 兵の配置、連絡、日程、金、噂の流し方。そこから先は完全に大人たちの領分で、マエサが主導し、ソエミアスが補い、男たちが低い声で応酬する。


 バッシアヌスは少しだけ離れた柱のそばに下がった。


「お疲れさまでした」


 侍女がそっと葡萄酒の杯を差し出す。

 今度は受け取った。ひと口含むと、蜂蜜の甘さの奥に、喉を焼く熱がある。


「ねえ」


 彼は囁く。


「今のわたし、どう見えた?」


「とても綺麗でした」


「それはいつもでしょう」


 侍女は困ったように笑う。

 バッシアヌスも小さく笑い、すぐに真顔へ戻った。


「でも、それだけじゃ駄目なのよね」


「……はい」


 その返事は正直だった。


 綺麗なだけでは、神殿の花で終わる。

 冠に手をかけるには、それ以外の何かが要る。


 彼は庭の中央を見た。

 祖母の声が低く通り、兵たちが頷く。母はそれでも時折、不安げにこちらを振り返る。


 自分はもう、あの輪の外側にはいられない。


 その時、ふと視線を感じた。


 見れば、若い兵が一人、話し合いの輪の外でこちらを見ている。年は二十を少し過ぎたくらいだろうか。他の者たちより整った顔立ちをしていたが、目つきが鋭い。ひざまずきはしたが、まだ完全には信じていない顔だ。


「なにか?」


 バッシアヌスが声をかけると、青年兵は一瞬ためらい、それから近づいてきた。


「失礼を」


「別に」


「あなたは、本当に怖くないのですか」


 まっすぐな問いだった。


 侍女が顔をこわばらせる。だがバッシアヌスは、むしろその率直さを好ましく思った。


「怖いわ」


 素直に答えると、青年兵の眉が上がる。


「でも、怖くないふりをするのは上手だと思う」


「なぜ、そんなふうに」


「皆が見たいものを見るなら、わたしも見せたいものを見せるしかないでしょう?」


 青年兵はしばらく黙った。

 そして、ぽつりと呟く。


「危うい」


「褒め言葉?」


「いいえ。たぶん、忠告です」


 そう言って彼は一礼し、輪のほうへ戻っていった。


 危うい。


 バッシアヌスはその言葉を胸の内で転がす。

 ずっと前から、そう言われ続けてきた気がする。美しさも、信仰も、笑い方も、全部が危ういと。


 ならば危うさごと、神の祝福みたいに身にまとってやればいい。


 やがて話し合いが終わり、兵たちは庭を去っていく。来たときよりも、彼らの背は少しだけ軽く見えた。希望を持った者の歩き方だった。


 最後の一人が出ていくのを見届けてから、ソエミアスが駆け寄ってくる。


「無茶をするわ」


「成功したなら、無茶ではないのでしょう」


「そういう言い方をする子じゃなかったのに」


「今夜から、少し変わったのかもしれません」


 マエサもゆっくり近づいてくる。

 その目は満足していた。


「上出来よ」


「祖母さまのお望みどおりに?」


「いいえ。わたしの予想より少し上」


 それはたぶん、最大級の褒め言葉だった。


 バッシアヌスは笑う。


「ならご褒美をくださる?」


「なにが欲しいの」


「知りたいことがあるの」


「言ってごらんなさい」


 彼は夜空を見上げた。エメサの星は美しい。だが今、その向こうにある見えない都のほうが気になって仕方ない。


「ローマでは、薔薇は一年中咲く?」


 ソエミアスが目を瞬く。

 マエサは、一瞬だけ意外そうにしてから笑った。


「季節を選ぶ花よ」


「そう」


「でも、金を惜しまなければ、季節外れの花くらい咲かせられるわ」


 その答えに、バッシアヌスは満足げに目を細めた。


「なら、悪くない都かもしれませんね」


 ソエミアスは呆れたように、けれど少し救われたようにも笑った。

 マエサはその横顔を見つめ、静かに言う。


「おまえは本当に、怖いものを飾り立てるのが好きね」


「だって、裸の恐怖なんてつまらないでしょう」


 彼はくるりと踵を返す。

 白い裾が月光をはね、額飾りが鳴った。


 今夜、自分は兵たちにひざまずかれた。

 ほんの少しだけ、皇帝に近づいた。


 けれどそれは同時に、もう引き返せないところへ踏み込んだということでもある。


 神殿の奥、聖石のある方角から、風が吹いた。

 冷たく、静かな風だった。


 祝福かもしれない。

 警告かもしれない。


 バッシアヌスは振り返らない。

 ただ前だけを見て、唇の端を上げた。


 目を奪ってやる。


 そう決めたのは昨日のことなのに、もうずっと前の誓いのようだった。


ご一読くださり、ありがとうございました

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