第二話 祖母の手、母の涙
エメサの神殿に、夜はゆっくり降りる。
昼のあいだ白く灼けていた石壁は、夕暮れを吸って淡い薔薇色に沈み、やがて群青へ変わる。神殿の回廊には灯火がともされ、香油を満たした青銅の皿が、揺れる火をいくつも浮かべていた。風は昼よりも冷たく、乳香と没薬の匂いに、砂の乾いた気配を少しだけ混ぜて運んでくる。
バッシアヌスは、自室の窓辺に腰を下ろしていた。
神官に与えられた部屋は、贅沢ではない。けれど粗末でもない。象牙の小卓、織りの細かな敷物、花弁を浮かべた水盤、夜風を受ける薄布の帳。そこには神に仕える者の静けさと、一族の者としての富とが同居していた。
だが今夜、そのすべてがいつもより少し遠く感じられる。
窓の外では、聖域を守る衛兵たちの足音が規則正しく石床を打っている。
その音を聞いていると、彼らが見張っているのは神殿なのか、それとも自分なのか、分からなくなった。
「陛下のお顔をなさってる」
背後から声がした。
振り向けば、侍女の一人が銀の盆を持って立っていた。ざくろと干し無花果、蜂蜜をかけた白い菓子、薄い葡萄酒。幼い頃から彼の身の回りを世話している娘で、年は彼より少し上だ。
「やめて。まだなにも決まっていないわ」
「でも、皆そう噂しています」
「噂は鳥より軽いのに、いつも矢より速いのね」
侍女は微笑んだが、その顔にも不安があった。
神殿の者たちは皆、もう知っているのだ。神官の少年がローマへ送られるかもしれないと。
「お食事を」
「いらない」
「朝からほとんど召し上がっていません」
「お腹が空かないの」
「では、葡萄酒だけでも」
勧められても、彼は首を振った。
腹が減らないのではない。胸がいっぱいで、なにも入りそうにないのだ。
侍女が困ったように立ち尽くしていると、不意に廊下の向こうが騒がしくなった。衣擦れの音が近づき、慌ただしい足音が止まる。次の瞬間、戸がほとんど乱暴に開いた。
「バッシアヌス!」
飛び込んできたのは、女だった。
深い紅の衣をまとい、ほどけかけた黒髪に金の飾りを揺らし、目元にはまだ泣いたあとの湿り気が残っている。美しい人だ。けれどその美しさはマエサのような磨き抜かれた冷たさではなく、もっと生々しく、熱を帯びていた。
ユリア・ソエミアス。
彼の母だった。
「母さま」
立ち上がる間もなく、彼は抱きしめられた。
強すぎて少し痛いほどだった。
「聞いたのね、あの人から」
「はい」
「なら、すぐに断りなさい。今すぐに。あの人はいつだってそうなのよ、誰の人生も盤上の石みたいに扱って――」
「母さま」
バッシアヌスはそっとその腕をほどいた。
母の肩はわずかに震えている。
「落ち着いて」
「落ち着けるわけがないでしょう」
ソエミアスは涙の浮いた目で彼を見つめた。
「ローマよ? 帝国の中心よ? あそこは神殿じゃないわ。あなたが舞えば皆が見惚れるような場所じゃない。笑顔一つで許してもらえる場所でもない。あんなところへ、あなたを――」
言い切れず、母は唇を噛んだ。
バッシアヌスは静かに見返す。
母の恐れは理解できた。彼自身もまた恐れている。だが祖母の前では見せまいと決めた恐れを、母の前でまでむき出しにしたくはなかった。
「祖母さまは、本気です」
「ええ、知ってる」
「そして、たぶんもうかなりのところまで手を回している」
ソエミアスの顔が強張る。
それは否定ではなく、肯定の沈黙だった。
「やっぱり」
「兵たちのあいだでは、あなたがカラカラ帝の落とし子だという話が、前から囁かれていたの」
「そんなの、作り話でしょう」
「作り話でも、信じる者が多ければ剣になるわ」
母は絞り出すように言った。
「マクリヌスは兵たちに嫌われている。皆、死んだ皇帝の幻を欲しがっている。だからあの人は……あなたをそこへ差し出すつもりなのよ」
差し出す。
その言葉は、妙に冷たかった。
神への供物のようでもあり、処刑台へ送るようでもある。
バッシアヌスはふと、昼間に聖石へ触れたときの冷たさを思い出した。
「母さまは、どうしたいのです」
「行かせたくない」
即答だった。
「あなたを奪われたくない。皇帝なんて呪われた椅子よ。座った途端に、みんなあなたの顔じゃなく冠しか見なくなる」
それは真実のように思えた。
彼は自分の指先を見た。
紅玉の指輪、金の細工、細く長い、剣より竪琴のほうが似合いそうな手。こんな手で帝国を掴めるのかと問われれば、答えは分からない。
「でも」
ソエミアスは続ける。
「……でも、行かないと言っても、もう済まないのよ」
部屋に沈黙が落ちた。
その沈黙は、先ほど聖域で感じたものより重かった。神の沈黙ではなく、人間たちが選択を終えたあとの沈黙だ。
「母さまも、賛成なのですね」
そう尋ねると、ソエミアスは痛みを堪えるように目を閉じた。
「賛成ではないわ」
「でも止めない」
「止められないの」
母の声はかすれていた。
「おまえを守るには、わたし一人では弱すぎる。マクリヌスは私たち一族を生かしておかないかもしれない。ローマに背を向けた瞬間、エメサのこの神殿だって安全ではなくなる。なら……なら、先に玉座を取るしかないのよ」
バッシアヌスは黙った。
言葉が見つからない。
自分の未来が、自分の願いではなく、誰かの恐れと誰かの野心で決まっていく。
それが嫌だった。ひどく嫌だった。
だが同時に、その渦の中心に自分がいることへ、奇妙な熱も感じていた。
「ローマは、そんなに美しい都なのかしら」
ぽつりと彼は言った。
ソエミアスは驚いたように瞬く。
「どうしてそんなことを」
「皆が命をかけて欲しがるのだもの。きっと、醜いだけの都ではないのでしょう」
「……そうね」
母は苦く笑った。
「美しいわ。残酷なくらいに。大理石も、凱旋門も、宮殿も、競技場も。あらゆるものが大きくて、眩しくて、人を酔わせる。だから皆、あの都に憎まれても、離れられない」
その描写に、バッシアヌスの胸が少しだけざわめく。
知らない場所。巨大な都。自分を呑み込むかもしれない眩しさ。
「見てみたいと思ってしまったら、いけないこと?」
彼がそう言うと、ソエミアスはしばらく黙り、やがて悲しげに笑った。
「おまえは昔からそう。怖いものほど、きれいに見えるのね」
「だって、美しいものは大抵、少し危ないでしょう」
「それを言う顔じゃないわ」
母は指先で彼の頬を撫でた。
「おまえ自身が、いちばん危なっかしい美しさをしているのに」
その言葉に、バッシアヌスは小さく笑う。
ようやく、息ができた気がした。
侍女がそっと下がり、部屋には母子だけが残る。灯火の揺れが壁に影を作り、その影が二人のあいだで重なっては離れた。
「もしわたしが行ったら」
バッシアヌスは低く言った。
「母さまも来てくださる?」
「もちろんよ」
「どこまでも?」
「どこまでも」
彼はうなずいた。
それだけで少し、怖さが薄れた。
けれど次の瞬間、開いたままの戸口にもう一つの気配が差し込む。
誰も声を上げなかったのは、その気配があまりにも静かで、当然のように場を支配していたからだ。
「感動的な誓いね」
ユリア・マエサだった。
いつからそこにいたのか分からない。
紫の衣を整えたまま、微笑ひとつ崩さず立っている。
「祖母さま、盗み聞きは趣味が悪いわ」
ソエミアスの声音が鋭くなる。
「聞かせるように話していたのはそちらでしょう」
マエサは一歩、部屋に入った。
それだけで空気の温度が変わる。
「バッシアヌス。明日の夜、兵の使者と会ってもらうわ」
「早すぎます」
ソエミアスが言う。
「兵は待ってくれない」
「まだ子どもなのよ!」
「だからいいの」
その一言は、あまりにも冷徹だった。
「大人の皇帝なら、兵も元老院も過去を比較する。失政を思い出し、利害を計算する。けれど少年なら夢を見られる。そこに死んだ皇帝の影が重なれば、なおさら」
バッシアヌスは祖母を見つめた。
この人はいつだって、他人の感情を道具のように扱う。
「わたしは夢ですか?」
思わず口をついて出た。
マエサは眉一つ動かさない。
「夢にも刃にもなれるわ、おまえは」
「便利ですね」
「そうね。便利な子は生き残る確率が高いわ」
ソエミアスが激しく息を呑む。
だがバッシアヌスは、なぜか怒りより先に笑いたくなった。
便利。
たしかにそうだ。神に仕える美しい少年神官。死んだ皇帝に似た顔。軍が求める幻。祖母が押し上げようとする偶像。
ならば、その偶像に自分の顔を塗ってやればいい。
「明日の夜、何をすればよろしいの」
彼が問うと、ソエミアスが「バッシアヌス」と制した。
だがマエサは満足げに目を細める。
「難しいことはないわ。彼らの前に出て、目を上げ、微笑むの。そして神官としてではなく、カラカラの血を引く若き主として名乗る」
「嘘をつけと?」
「帝国とは、皆が信じた嘘の上に立つものよ」
あまりにも堂々と言うので、彼は一瞬、笑ってしまった。
本当にこの祖母は恐ろしい。
けれど同時に、恐ろしいほど正しいのかもしれなかった。
「分かりました」
「バッシアヌス!」
母が叫ぶ。
彼は振り返り、そっと微笑んだ。
「泣かないで、母さま。まだ殺されると決まったわけではないでしょう」
「縁起でもないことを言わないで」
「でも、皆そういう顔をしているもの。祖母さまも、兵たちも、神殿の者たちも。わたしが玉座に近づくと思うのではなく、剣に近づくと思っている顔」
その言葉に、母は何も返せなかった。
マエサだけが静かに言う。
「皇帝の冠と剣は、最初から離れていないわ」
「なら、なおさら」
バッシアヌスはゆっくり立ち上がった。
灯火の揺れを受けて、瞳が金にも黒にも見える。
「みすぼらしく怯えるのは、つまらないですね」
彼は窓辺から離れ、水盤の前へ歩いた。
花弁の浮かぶ水に自分の顔が映る。まだ幼い。だが、その幼さの奥に、もう以前の自分へ戻れない影が差していた。
耳飾りを一つ外し、代わりに金の日輪飾りをつける。
髪を指で梳き、紅を少しだけ足す。
喪に服すような青白い顔より、よほどいい。
鏡代わりの磨かれた銀盤をのぞき込み、彼は小さく首を傾げた。
「どう?」
振り返ると、母は涙を浮かべたまま言葉を失っている。
祖母は満足そうにうなずいた。
「ええ。とてもいい」
「なら安心しました」
バッシアヌスは、冗談めかしてピースのように二本指を上げた。
その仕草は少年らしく軽いのに、どこか人を食ったような挑発がある。
「どうせ見るなら、皆、忘れられないものを見たいはずですもの」
マエサは笑う。
ソエミアスは泣きそうな顔で微笑もうとする。
その二つの表情を見比べながら、バッシアヌスは胸の奥で静かに理解する。
祖母は自分を武器として見ている。
母は自分を息子として愛している。
そしてローマは、きっとどちらでもない。
神殿の外で、夜の風が強くなった。
鈴の音が長く尾を引き、遠く、まるで見えない都から呼ばれているように響く。
「明日の夜が終わったら」
彼は誰にともなく言った。
「わたしはもう、ただの神官ではいられないのでしょうね」
母はとうとうこらえきれず、顔を覆った。
マエサは答える。
「ええ。けれど、ただの神官で終わるには、おまえはあまりにも美しすぎたわ」
その言葉に、バッシアヌスは微笑んだ。
褒め言葉として受け取ったわけではない。呪いのような祝辞だと思った。
けれど、どうせ逃れられないのなら。
呪いすら、自分に似合うようにまとってやろう。
彼は窓の外の夜空を見上げる。
星々は静かに瞬き、その向こうにあるはずのローマは見えない。
見えないくせに、もうそこにある。
剣のように。冠のように。悪名のように。
ご一読くださり、ありがとうございました




