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第十八話 門前の群衆は、祈りの顔を見たがる

 奉告の儀を終えたその日の夕方、神殿の門前は、もはや市のようだった。


 食べ物を売る者こそいないが、人の熱気だけなら祭りに近い。巡礼、商人、近隣の女たち、兵の使い走り、ただ噂を確かめに来ただけの若者たち。皆、門の向こうにあるものを見たがっていた。黒い聖石ではない。祈りそのものでもない。


 祈ったあとの神子の顔を、見たがっているのだ。


「最低」


 神殿の内側、門へ続く回廊の陰から外のざわめきを聞きながら、バッシアヌスはそう言った。


 隣のソエミアスが、同意するように眉を寄せる。


「ええ。ほんとうに最低」


「でも、帰らせないんでしょう?」


「帰る気がないもの、あの顔は」


 門前のざわめきには、明らかに“待つ熱”があった。

 噂だけで満足していた昨日までとは違う。今日はもう、誰もが何かを見たがっている。奉告の儀があった、神子が神に旅を告げた、神殿の空気が変わった――そういう断片が、もう外へ漏れているのだろう。


「誰が流したのかしら」


 ソエミアスが低く呟く。


「流さなくても漏れるよ」


 バッシアヌスは回廊の白い柱にもたれた。


「こういうのって、みんな口の軽い侍女のせいみたいに思われるけど、たぶん違う。見張りの兵も、荷を運ぶ人も、神殿に出入りする商人も、誰でも少しずつ話すんだと思う」


「……嫌になるくらい冷静ね」


「今日だけで、嫌になることいっぱい覚えたから」


 そう言った自分の声音が、思ったより乾いていて、少しだけ驚く。


 奉告のあとからずっと、胸のどこかが静かだった。

 晴れやかというのではない。むしろ重い。

 けれど、その重さがあるおかげで、余計な取り乱し方はしないで済んでいる。


 神に旅を告げた。

 それはたしかに本物だ。

 だからこそ、門前の騒ぎを見ても、もう前みたいにただ腹が立つだけではない。


「神子さま」


 侍女が一礼して近づく。


「ユリア・マエサ様が」


「行かない」


 顔を上げる前に、バッシアヌスは即答した。


 侍女が固まる。ソエミアスが吹き出しそうな顔になる。


「まだ何も言ってないわよ」


「どうせ、門前へ姿を見せなさいでしょう」


「……はい」


 侍女が小さく答える。


「やっぱり」


 ソエミアスが露骨にため息をついた。


「ほんとうにあの人は」


「嫌いじゃないけど、たまに嫌」


 バッシアヌスが言うと、ソエミアスは少しだけ笑った。


「たまにじゃないでしょう」


「今日はたまにって言っておく」


 そのとき、後ろで足音が止まる。

 聞き慣れた、迷いのない歩き方。


「聞こえているわよ」


 ユリア・マエサだった。


 紫の外衣をまとった祖母は、騒がしい門前の気配を背にしても少しも揺らがない。むしろ、あのざわめきごと自分の思惑に含めている顔だ。


「祖母さま」


「呼んだら来なさい」


「用件が分かってたから」


「なら話が早いでしょう」


 マエサはまっすぐ言う。


「門前に姿を見せなさい」


「嫌、見世物じゃない」


「そうね。だから見せ方を選ぶの」


 その返しがいかにも祖母らしい。


「奉告の儀があったことは、もう止められない。なら、門前の連中に好き勝手な顔を想像させるより、一度だけ正しい印象を与えた方が早いわ」


 バッシアヌスは黙った。


 言っていることは分かる。分かるから腹が立つ。

 たしかに、何も見せなければ噂はもっと勝手になる。祈りのあと泣いていたとか、神に逆らった顔だったとか、神憑りのようだったとか。どれも人が好きそうな話だ。


「おまえが何も差し出さなければ、もっと安っぽい言葉で勝手に売られる」


 痛いほど正しい。


 ソエミアスが口を挟んだ。


「なら、せめて長くは立たせないで。ほんの一瞬よ」


「最初からそのつもり」


「祖母さま、たまに母さまより母さまみたいな顔するよね」


「気のせいよ」


 絶対に気のせいではない。


 そこへ、ルキウスが回廊の反対側から戻ってきた。外を見ていたのだろう。彼は門前の様子を一瞥し、淡々と言う。


「人数が増えています」


「どのくらい?」


「門の正面だけで三十は超えています。まだ増えるでしょう」


「嫌だなあ」


「だからこそ、短く済ませるべきです」


 バッシアヌスは目を細める。


「あなたも賛成なんだ」


「放置するよりは」


 マエサが侍女に指示を出す。門は開ききらない。扉の片側だけを少し開け、神殿の内側の石段の上に立つ。近づかせない。話しすぎない。問いを受けない。姿だけで十分。必要なら一言だけ。


 あっという間に段取りが決まる。

 こういう時の祖母は本当に速い。


「わたし、何て言えばいいの」


 バッシアヌスが聞くと、マエサは即答しなかった。

 代わりにソエミアスが先に言う。


「何も言わなくていいわ」


「でも、それだと感じ悪くない?」


「今は感じよくなくていいの」


 マエサが頷く。


「ええ。今日は神に告げた者の顔で立ちなさい。笑わなくていい。愛想もいらない。軽く手を上げるだけで十分」


 それは少し意外だった。


 もっと華やかに見せるよう命じられるかと思っていた。


「笑わなくていいの?」


「今日はね。今ここで笑えば、神との別れも遊びのようにこなす美少年になるわ。それはまだ先の悪名に取っておきたい」


「最後が最低」


「使える悪名は管理すべきでしょう」


 ほんとうに最低だ。

 でも、少しだけ笑ってしまう。


 準備はすぐ整った。

 門前のざわめきは、扉が動く気配だけで一段高くなる。


 バッシアヌスは一度だけ深呼吸した。


 さっきまで聖石の前にいた時の空気とは、まるで違う。

 あちらは沈黙。こちらは欲望。

 あちらは神。こちらは人の目。


「大丈夫?」


 ソエミアスが小さく尋ねる。


「うん」


「嘘」


「半分は」


「そういう時の半分は信用できないのよ」


 でも結局、母はそれ以上止めなかった。

 止めても進むと分かっているからだろう。


 扉が開く。


 光が差し込む。

 外のざわめきが一気に流れ込む。

 そして、そのざわめきは、彼が石段の上へ姿を見せた瞬間に、きれいに止まった。


 静かすぎて、逆に耳が痛い。


 バッシアヌスは石段の上で足を止めた。

 白い祭衣。金の細工。まだ祈りの余韻が抜けきらない目。笑ってはいない。けれど怒ってもいない。


 ただ、まっすぐ立つ。


 門前の人々は、息を呑んだまま彼を見ていた。


 見たいのだ。

 噂の続きを。

 神に旅を告げたあとの顔を。

 美しい神子が、本当にもう神殿を出ていくのかどうか、その気配を。


 バッシアヌスは、ゆっくりと右手を上げた。


 たったそれだけ。


 それなのに、群衆の中から小さなため息のような音がこぼれる。祈りにも歓声にもなりきれない、曖昧な音。


 誰かが、震える声で言った。


「本当に……行かれるのですか」


 予定にはなかった問いだった。

 ルキウスの気配がわずかに動く。

 マエサは止めない。

 ソエミアスは息を詰めている。


 バッシアヌスはほんの一瞬だけ考え、それから答えた。


「まだ、道の途中です」


 群衆がざわめく。


「でも」


 彼は続けた。


「神へ告げたことだけは、本当です」


 言葉にすると、胸の奥が少しだけ震えた。


 神殿の外で初めて、自分はその事実を口にしたのだ。

 噂ではなく。

 誰かに翻訳された形でもなく。

 自分の言葉で。


 門前の人々は、再び息を呑む。

 中には目を伏せる者もいた。涙ぐむ女もいる。何かを拝むみたいに指を組む老人もいる。


 ――そんなふうに見るんだ。


 バッシアヌスは少しだけ驚いた。

 欲望や興味だけではない。

 人はときどき、本当に何かを失う前の顔でこちらを見るのだ。


 その空気が変わる前に、マエサの指示で扉が閉じられる。

 重い木の板が音を立て、外のざわめきを遮る。


 静けさが戻る。


 バッシアヌスはその場で小さく息を吐いた。


「……短かった」


 ソエミアスがすぐに腕を取る。


「それでいいの」


「でも、ちゃんと届いた気がする」


「届いたからこそ、これ以上はいらない」


 母の声は震えていた。

 怒りではなく、別の何かで。


 マエサは満足げに言う。


「上出来よ」


「またそれ」


「あれで神に告げたという印象が定着する」


「わたしの気持ちは?」


「それも少しは乗ったでしょう」


 少しは、か。


 でも、さっきの一言はたしかに本物だった。

 道の途中。

 それは今の自分に一番近い。


 ルキウスが低く言う。


「門前の空気は変わりました」


「どう変わったの」


「見物ではなく、見送りに近く」


 その言葉に、バッシアヌスは少し黙った。


 見送り。

 それは想像していなかった。

 まだ出立の日も決まっていないのに、人々はもう、失う側の顔をし始めている。


「……嫌ね」


「何がです」


「ちゃんと寂しくなるところ」


 自分でも子どもっぽい言い方だと思った。

 でも、ルキウスは笑わなかった。


「そう見えたなら、悪くないのでは」


「またそうやって全部、役に立つかどうかで言う」


「今は必要でしょう」


「必要ばっかり」


 そう返しながらも、さっきの門前の沈黙が頭から離れなかった。


 祈りの顔を見たがる人々。

 そして、見たあとで静かになる群衆。


 あれは噂の熱だけではなかった。

 何かが本当に始まると、人はちゃんとそれを感じ取るのだ。

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