第十七話 黒い聖石に、旅の名を告げる
聖域へ向かう回廊は、昼の光でも冷たく見えた。
夕刻が近づくほど、神殿の石は白さを失い、淡い灰色へ沈んでいく。灯火はまだ早い。けれど空気はもう夜の匂いを混ぜ始めている。香炉の煙が細く伸び、天井の高い回廊のどこかで、鈴が小さく鳴った。
「……こんなに早いんだね」
バッシアヌスが呟くと、ソエミアスが隣で一瞬だけ唇を噛んだ。
「早いほうがいいのよ。迷う時間が増えるだけだから」
「迷ったほうが、人間らしいと思うけど」
「人間らしさで帝国は動かない」
言ったあとで、ソエミアスは自分でも苦い顔をした。祖母に似た言い方になってしまったのだろう。
「母さま、今の少し祖母さまっぽい」
「言わないで」
「でも、似てる」
「……似たくて似てるわけじゃないの」
その声の揺れに、バッシアヌスはそれ以上からかわなかった。
回廊の先、聖域の入口には巫女が二人控えていた。彼女たちはいつものように深く頭を下げるが、今日の礼には緊張が混じっていた。彼女たちも知っている。これがただの定例儀礼ではないことを。
「神子さま、準備は整っております」
巫女の言葉に、バッシアヌスは小さく頷いた。
今日の装いは、派手さを削った白と金の祭衣だった。胸元の太陽紋は控えめで、宝飾も最小限。華やかさで押す夜会とは違う。神前で“見せる”のではなく、“告げる”ための格好だ。
それでも、彼の顔はどうしても目を引く。
整えられた髪。長い睫毛。中性的な輪郭。薄い微笑。
それらすべてが、今は少しだけ邪魔にも思えた。神に告げるのに、こんなに美しい必要はない。なのに、自分の顔は勝手に意味を背負ってしまう。
「中へ」
巫女が扉を開く。
聖域の空気は、外とまるで違った。
香が濃い。
冷たい。
静かだ。
最奥で、黒い聖石が沈黙している。昼間よりも暗い。夕の光を吸い、夜そのものみたいに見えた。
その前に、大神官が立っていた。
白髭の老神官は、今日はいつも以上に厳格な顔をしている。怒っているというより、祈りに自分を固定している顔だ。感情を許したら揺らぐから、先に凍らせている。
「神子さま」
大神官が低く呼んだ。
「お進みください」
バッシアヌスは一歩、聖石へ近づく。
足元の石床が妙に冷たい。
背後にはソエミアス、少し離れてマエサ、そして扉脇にルキウスの気配。
誰もが見ている。
でも、誰もが同じものを見てはいない。
バッシアヌスは聖石の前で膝をついた。額が飾りとともに軽く揺れる。掌を石へ近づけ、触れる寸前で止めた。触れたら、何かが決まってしまう気がした。
大神官が祝詞を唱え始める。
古い言葉が、石と柱に反響し、聖域全体がひとつの器になる。
バッシアヌスは目を閉じ、呼吸を整えた。
――嘘をつかない。
さっき自分が願ったこと。
この場でだけは、できる限り。
祝詞が終わると、大神官が言う。
「神子さま。奉告を」
バッシアヌスは目を開け、聖石を見上げた。
黒い石は何も言わない。
ただそこにある。
昔からずっと、そしてたぶんこれからも、黙ったまま。
「……エル・ガバル」
声が思ったより低く出た。
「あなたの神殿で、わたしはずっと息をしてきた。祈り方も、舞い方も、笑い方も、ここで覚えた」
言葉が喉を通るたび、胸の奥が少しずつ熱くなる。怖い。けれど止まらない。
「でも今、わたしはローマへ行く」
背後で、ソエミアスがわずかに息を呑む音がした。
マエサは無音だ。
大神官の眉間がきゅっと寄る。
「皇帝の椅子が、わたしを呼んでいるから……ではない」
ここで一拍置く。
嘘をつかないために。
「正しく言えば、わたしの一族と、兵と、噂と、都の目が、わたしをそこへ押し出す」
口にした瞬間、自分でも少し苦くなった。
言い方があまりに生々しい。
神前で言うべき言葉ではない、と大神官が思っているのが分かる。
でも、これが現実だ。
「わたしは怖い。ローマはわたしをわたしとして見ないかもしれない。わたしは、形を決められ、好き勝手に語られ、いずれ怪物みたいに扱われるかもしれない」
言葉が鋭くなる。
自分の中の怒りが、まだ残っている。
「それでも行く。――行って、目を奪う。わたしが誰で、何を信じているのかを、少しでも都に刻む」
そこで、ようやく指先を聖石へ触れさせた。
冷たい。
いつも通り。
拒絶でも許可でもない冷たさ。
「だから、お願いがある」
喉が少しだけ詰まる。
ここから先は、願いだ。
信仰だ。
そして野心だ。
「わたしに、嘘をつかせないで」
言った瞬間、聖域がさらに静まった。
香の煙の揺れすら止まった気がした。
「都に入れば、わたしは笑う。生きるために、魅了するために。祖母さまの言う通り、顔も言葉も道具になる。きっと、わたしは自分でも分からないくらい器用に嘘をつく」
ソエミアスが小さく震えた。
マエサは動かない。
大神官の瞳だけが、まっすぐこちらに刺さる。
「でも、あなたの前だけでは嘘をつきたくない。ここだけが、わたしの“帰る場所”であってほしい」
そこでようやく、胸の奥のものが少しほどけた。
――寂しい。
結局、自分はそれを隠せない。
聖石は黙っている。
けれど、その沈黙が、今だけは否定ではない気がした。答えないことで、まだ自分の言葉を奪わないでくれているような。
大神官が、ゆっくり息を吐いた。
「奉告、確かに承った」
その声には、先ほどまでの硬さに微かな揺れが混じっていた。
「神子さま。あなたは神の名を政治に混ぜた。けれど――」
老神官は一瞬、言葉を探すように目を閉じる。
「それでも最後に残った願いが、“嘘をつきたくない”であるなら……神は、あなたを見捨てぬかもしれません」
マエサが、かすかに笑った気配がした。嘲りではない。むしろ、納得に近い。
ソエミアスは、その場で泣きそうな顔をしている。
バッシアヌスは立ち上がろうとして、足元が一瞬よろけた。
すかさずルキウスが一歩前へ出る気配がする。だが彼は触れない。触れたらこの場が“護衛の場”になってしまう。絶妙な距離で止まった。
「……大丈夫」
バッシアヌスは自分に言い聞かせるように呟き、姿勢を整えた。
奉告は終わった。
言葉にしてしまった。
神に告げてしまった。
そして気づく。自分の中で、何かが確かに動いた。
出立という言葉が、予定ではなく、誓いになった。
聖域を出る直前、バッシアヌスは振り返る。
黒い聖石は、やはり黙っていた。
けれど、その沈黙は昨日より重い。未来が少しだけ乗った重さだ。
回廊へ出た瞬間、外のざわめきが戻ってくる。
神殿の外の世界。噂の世界。値札の世界。
マエサが低く言った。
「これで、戻れないわね」
「知ってる」
「なら、進むだけよ」
ソエミアスが、かすれた声で言う。
「……無事に、戻ってきなさい」
その言葉が、祝福ではなく祈りに聞こえた。
バッシアヌスは小さく笑った。
笑わないつもりだったのに、出てしまった。
「戻ってくるよ。嘘じゃない」
言った瞬間、自分の胸がちくりと痛む。
戻ってくるという言葉ほど、未来に向けた嘘になりやすいものはない。




