第十六話 出立の名は、まだ祝福にならない
その日の午後、神殿の空気は朝とはまるで違っていた。
ざわめきは相変わらず消えない。けれど今度のざわめきには、はっきりとした方向があった。人々はもう、ただ噂しているのではない。待っているのだ。何かが決まるのを。誰かが動き出すのを。
バッシアヌスは中庭の回廊を歩きながら、その落ち着かなさを肌で感じていた。
巫女たちは普段より口数が少ない。侍女たちは手を動かしているのに、耳はいつも外を向いている。衛兵たちは槍を持つ角度まで硬い。神殿そのものが、息を止めているみたいだった。
「今日の空気、嫌い」
ぽつりと言うと、一歩後ろのルキウスが返した。
「静かなほうです」
「これで?」
「兵が中へ入ってきていないだけ、まだ」
いつもの調子なのに、今日は少しだけ重かった。
兵が入ってきていない。
つまり、入ってくる段階は近いのだ。
バッシアヌスは足を止め、水盤の水面を見下ろす。
風は弱い。水には、自分の顔がまだ形を保ったまま映っていた。
「ねえ、ルキウス」
「はい」
「本当に、もう戻れない感じがする」
ルキウスは少しだけ間を置いた。
「何かあったのですか」
「まだあったわけじゃない。……でも、もう来る感じがする」
その言い方に、自分でも少しぞっとする。
何が来るのか。
出立か。
兵の宣誓か。
擁立の号令か。
どれにしても、神殿の静かな日々を終わらせるものには違いなかった。
「来る前に、座って待っているわけにはいかないでしょう」
後ろから女の声がした。
振り向かなくても分かる。
ユリア・マエサだった。
「祖母さま」
「探したわ」
祖母はそう言って中庭へ入ってくる。
今日の彼女はいつも以上に隙がなかった。紫の外衣、真珠の飾り、背筋の伸び方。表情は穏やかなのに、その穏やかさの下で何かがもう決まりつつある顔だ。
「何が決まったの」
先に聞くと、マエサはまっすぐ言った。
「出立の準備を本格化させるわ」
言葉としては予想していた。
でも、実際に聞くと胸の奥が少し冷たくなる。
「いつ」
「正確な日はまだ。けれど遅くはない」
「遅くはない、ってどのくらい」
「おまえがもうすぐだと思うより、少し早いくらい」
「嫌な答え方」
祖母は水盤の向こうで立ち止まり、こちらを見た。
「今朝の噂の件で、逆に動きやすくなったの」
「どうして」
「人は悪い噂を立てるとき、自分でも半分はその可能性を信じている。つまり、もう皆、“神子が本当に動く”前提で話し始めているのよ」
それは理屈としては分かる。
でも、聞いて気分のいい話ではない。
「じゃあ、わたしが何もしなくても、向こうが勝手に進めてくれるのね」
「半分はそう」
「最悪」
「便利でもあるわ」
マエサは本気でそう言っている。
バッシアヌスは思わず顔をしかめたが、同時に、ほんの少しだけ可笑しくもあった。祖母は本当に、何でも道具にする。侮辱も、悪意も、噂も、全部。
「で」
彼はわざと軽く言った。
「わたしは何をすればいいの?」
「今日中に、神殿内での儀礼を一つ終える」
「何の儀礼」
「聖石の前で、出立前の奉告をするの」
その一言で、空気が変わった。
ルキウスは動かない。
マエサはまっすぐ見ている。
バッシアヌスだけが、一瞬息を詰めた。
奉告。
つまり、まだ運んではいない。
けれど神へ向けて、「行く」と告げるのだ。
それは事実上、出発の宣言に近い。
「大神官も承知したの?」
「完全には」
「してないんだ」
「でも、儀礼そのものには反対しなかった」
なるほど、と彼は思う。
神を動かすことには最後まで迷いがあっても、神に告げることそのものまでは止められない。そこを祖母はきっちり通したのだ。
「母さまは?」
「怒っていたわ」
「でしょうね」
「でも、おまえに黙って進める方が嫌だとも言っていた」
それは母らしい。
バッシアヌスは水盤から目を離し、祖母を見る。
「わたし、どんな顔で立てばいいの」
「笑わなくていい」
「珍しい」
「神前でしょう」
「祖母さまでもそこは言うんだ」
「当然よ。何でも同じ顔で済ませるほど浅くないわ」
その言い方に、少しだけ救われる。
笑えば空気が和む。笑えば人は動く。そういうことばかり覚え始めたところだったから、神前ではそれを求められないと知るだけで、少し息がしやすかった。
「怖い?」
不意に、マエサが尋ねた。
祖母の口からそういう問いが出るのは珍しい。
バッシアヌスは正直に答えた。
「少し」
「何が」
「神に告げたら、本当にもう戻れない気がする」
沈黙。
祖母はしばらく何も言わなかった。
代わりに、ルキウスが静かに息を吐く気配がした。
「そうね」
やがてマエサが言う。
「たぶん、そうよ」
慰めはない。
でも、誤魔化しもない。
「なら」
バッシアヌスは唇を引き結ぶ。
「ちゃんとした格好で行きたい」
祖母の目が少し細くなる。
「ええ」
「中途半端な顔で神の前に立つのは嫌」
「その通りね」
「あと」
彼は少しだけ顎を上げた。
「祝福される顔がいい」
その言い方に、祖母はほんの少しだけ笑った。
「おまえらしいわ」
「褒めてる?」
「ちゃんとね」
その瞬間、中庭の外で早い足音がした。
ソエミアスだった。少し息を切らしている。
「やっぱりここにいた」
「母さま」
「勝手に話を進めないでちょうだい」
到着早々、それだった。
マエサは肩をすくめる。
「勝手ではないわ。必要な順番で進めているだけ」
「そういうところが嫌いなの」
ソエミアスはバッシアヌスの前まで来ると、顔色を見た。
「大丈夫?」
「たぶん」
「たぶん、なのね」
「さっき母さまと同じこと言った」
「当たり前でしょう。わたしの息子なんだから」
そのあとで、彼女は声を少し落とした。
「儀礼のこと、聞いた?」
「うん」
「嫌なら、まだ言って」
「嫌じゃない」
「本当に?」
「怖いけど、嫌じゃない」
ソエミアスは彼を見つめ、それからそっと頬に触れた。
「……そう」
その顔には、止めたい気持ちと、止められないと知っている気持ちが、両方あった。
バッシアヌスは少しだけ笑う。
「そんな顔しないで」
「どんな顔」
「わたしが今夜いなくなるみたいな」
「言いすぎよ」
「でも、ちょっとそういう顔」
ソエミアスは何も言わなかった。
代わりに、ほんの少しだけ指に力を込めた。
それだけで分かる。
この人にとって儀礼は、政治ではなく別れの始まりに見えているのだ。
「支度を」
マエサが言う。
「大神官も準備に入っている。日が落ちる前には終えたいわ」
中庭に風が吹く。水面が揺れて、映っていた顔が砕ける。
出立。
まだ祝福にはなっていない言葉。
でも、もうただの予定でもない。
バッシアヌスはその揺れを見つめ、静かに息を吸った。
「分かった」
「いい返事ね」
「でも」
祖母が目を上げる。
「一つだけお願い」
「なに?」
「神前では、誰も嘘をつかないで」
マエサは少しだけ黙った。
ソエミアスは息を止めたように見えた。
ルキウスだけが、まっすぐこちらを見ている。
「難しいことを言うわ」
やがて祖母が答える。
「でも、できるだけそうしましょう」
完全ではない。
できるだけだ。
それでも、今はそれで十分だと思った。
だってこの世界では、完全な真実なんて、たぶん神しか持っていない。




