第十四話 聖石は、この地の心臓だ
大神官との会談は、神殿の最奥に近い小広間で行われた。
巡礼も兵も通さない、完全に内々の場だ。壁には余計な装飾がなく、白い石と青い織物、それから低い灯火だけ。祈りのための部屋というより、祈りのあとに人間が決めごとをするための場所だった。
バッシアヌスは、こういう部屋があまり好きではない。
神の名が近い場所ほど、人は平気で現実の話をする。
金、兵、移送、支持、反発。
祈りの煙のすぐそばで、いちばん俗っぽいことが決まっていく。
広間にはすでに、ユリア・マエサとソエミアス、そして老大神官がいた。さらに今日は、他にも二人、年嵩の神官が控えている。皆、顔つきが固い。
「来たわね」
マエサがいつもの調子で言う。
「呼ばれたから」
「ふてくされないの」
「朝から大事そうな話に何度も呼ばれたら、少しくらいは」
そう言いながら席につく。ルキウスは扉の近くへ下がった。
この場は彼の領分ではない。だが、いるべきだと本人は判断している顔だった。
大神官が、静かに口を開く。
「神子さま。今朝お呼び立てしたのは、聖石の件です」
「やっぱり」
昨夜の使者が持ってきた噂。
神そのものをローマへ連れていくつもりらしい、という話。
あれを聞いた時点で、もう避けては通れないと分かっていた。
「祖母さまは、連れていく気でいる」
確認するように言うと、マエサは即答した。
「ええ」
「わたしも、そのつもりではいる」
「ええ」
「でも、神殿の人たちは違う」
今度は大神官の方を向く。
老神官は深く息をつき、うなずいた。
「違います」
率直だった。
「聖石はエメサの誇りであり、祈りの中心であり、この地の秩序そのものです。神子さま一人がローマへ行かれるのとは、重みがまるで違う」
「分かってる」
「本当にわかっておられるか」
横から別の老神官が口を挟んだ。
「神子さまはお優しい。ゆえに、時に物事を美しく考えすぎる」
バッシアヌスは眉を上げる。
「それ、遠回しに分かっていないって言ってる?」
「率直に申し上げれば」
容赦がなかった。
ソエミアスが不快そうに身じろぎする。だがマエサは止めない。むしろ言わせている。
「じゃあ、教えて」
バッシアヌスは言った。
「わたしが何を分かっていないのか」
部屋が静まる。
老神官は、神殿の外の白い光をちらりと見てから答えた。
「聖石を運ぶとは、神を運ぶということです」
「うん」
「それはこの地の祝福を移すことでもあり、同時に、この地から空白を生むことでもある」
その言葉に、バッシアヌスは少しだけ息を止めた。
ローマへ持っていくことばかりを考えていた。
当然だが、ここから無くなるということでもあるのだ。
「エメサの民は、聖石がここにあるから祈ります」
大神官が続ける。
「祭礼も、季節も、神託も、皆この石を中心に回っている。神子さまがローマへ行かれることは一族の事情であり、帝国の事情でもある。だが聖石は、もっと多くの者の暮らしの中心です」
もっともだった。
バッシアヌスは反論しかけて、いったんやめた。
自分にとって聖石は、たしかに特別だ。
でも、その特別さは個人的な信仰や祈りだけではない。
この都に住む無数の人にとっても、聖石はここにあるべきものなのだ。
「なら、置いていけってこと?」
問いかけると、大神官は即答しなかった。
代わりにマエサが先に答える。
「置いていったら、おまえは何になるの?」
バッシアヌスは祖母を見る。
「皇帝候補」
「違うわ」
マエサの声は冷たい。
「ただの先帝に似た顔の美しい子よ」
その一言は鋭かった。
「兵が期待しているのは血だけではない。異国の神官としての神秘も、おまえの価値の一部なの。聖石を置いていけば、半分を失う」
大神官が苦い顔をする。
「価値、ですか」
「そうよ」
「神をそのように」
「神をではない。人が神に見ているものを、です」
マエサは一歩も退かない。
「ローマで必要なのは、ただの少年ではない。神に選ばれた少年よ。そこに聖石がなければ、物語は弱くなる」
物語。
またその言葉だ。
バッシアヌスは最近になって、それがどれほど強いかを知り始めている。
血筋も顔も、結局は物語の中で意味を持つ。
「でも」
ソエミアスが言う。
「一時的に、象徴的に運ぶとか、祭礼の形だけ変えるとか、方法はあるでしょう」
その一言に、場の空気が少し変わった。
母は感情だけで話しているわけではない。ちゃんと別の道を探している。
「永遠に移すのと、連れていくのは違う」
大神官が目を細める。
「神子さまは、どちらのおつもりです」
問われて、彼はしばらく黙った。
最初は、ただ一緒にいてほしかった。
自分だけがローマへ行くのは違うと思った。
聖石がそばにあれば、自分がエメサの神子であることを忘れずにすむと。
でも今は、それだけではない。
聖石をローマへ運べば、都は揺れる。
異国の神を前に、古い秩序はざわめく。
そしてそこに立つ自分は、ただの偶像では済まなくなる。
「……連れていきたい」
彼はゆっくり言った。
「でも、奪いたくはない」
その答えに、老神官たちは互いに顔を見合わせる。
曖昧で、政治的には弱い答えだろう。
だが、今の彼にはそれ以上の言葉はなかった。
「奪いたくない、か」
マエサが低く繰り返す。
「優しいわね」
「馬鹿にしてる?」
「少しだけ。けれど、おまえらしいとも思う」
バッシアヌスは唇を尖らせたが、反論はしなかった。
大神官が静かに問う。
「神子さま。聖石を連れていけば、ローマの人々はどう反応するとお思いですか」
「嫌がる人は多いでしょうね」
「なぜ」
「自分たちの神々の都に、知らない神が入ってくるから」
「それを理解しておりながら、それでもですか」
「それでも」
そこで彼は少しだけ笑った。
「だからこそ、見せたいの」
自分でも、驚くほど自然に出た言葉だった。
老神官たちが黙る。
ソエミアスが不安そうにこちらを見る。
マエサだけが、目を細めた。
「何を」
大神官が問う。
バッシアヌスは答える。
「ローマの神々が石と法でできているのなら、わたしたちの神は光と熱でできているってことを」
言ってしまってから、部屋がひどく静かになった。
少し言いすぎたかもしれない。
だが、心から溢れ出た言葉だった。
ローマはきっと堅い。強い。正しい。
でも正しさだけの都に、自分は息が詰まりそうだと思ってしまう。
なら、香と花と熱と祈りを持ち込みたい。
その中心に聖石があるのなら、なおさら。
長い沈黙のあと、大神官はゆっくりと頭を垂れた。
「……神子さまのお気持ちは、分かりました」
「許してくれる?」
「まだそこまでは」
正直すぎて、バッシアヌスは少し笑ってしまう。
「ですが」
大神官は続けた。
「完全に否とは申しません。条件があります」
今度はマエサが身を乗り出した。
「聞きましょう」
「聖石は奪われるのではなく、神託により一時的に帝都へ赴くという形を取ること」
「形を整えたいのね」
「信仰において、形は中身です」
その返しに、マエサは小さく頷く。否定はしなかった。
「もう一つ。エメサの祭礼は止めないこと。聖石が不在のあいだも、残された神官たちが儀礼を継続できるよう整えること」
「当然ね」
「そして最後に」
大神官は、まっすぐバッシアヌスを見た。
「神子さまご自身が、ローマで神を辱めないこと」
その言葉は重かった。
バッシアヌスは一瞬だけ、笑みを消す。
「辱めるって、どういうこと」
「神を、自らの虚栄の飾りにしないことです」
そこまで言われると、さすがに胸に刺さる。
彼は視線を落とし、それからまた上げた。
「……分かった」
「本当ですな?」
「ええ」
今度ははっきりと答える。
「わたしは、自分を飾りたい気持ちがある。目を奪いたいし、見られたいし、綺麗だと思われたい。そこは嘘じゃない」
ソエミアスが少し息を呑む。
マエサは黙って聞いている。
「でも」
バッシアヌスは聖石のある方角を思い浮かべた。
「聖石だけは、そういうものにしたくない」
それもまた、本当だった。
自分がどこまで危うくて、どこまで飾りたがりで、どこまで人の視線に酔うかは、少しずつ分かってきている。
でも、その中でもまだ触れてはいけない芯がある。
聖石は、たぶんそこに属していた。
大神官は長く彼を見ていたが、やがて深く頭を下げた。
「ならば、準備に入りましょう」
その一言で、場が決まった。
ソエミアスは不安そうに目を閉じ、マエサは満足げに息をつき、バッシアヌスは胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
もう本当に、動き出すのだ。
聖石が。
神殿が。
自分が。
「ねえ、祖母さま」
「なに」
「今の、うまくいった?」
「ええ」
「わたしが?」
「おまえも、大神官も、全部ね」
マエサは珍しく素直だった。
「聖石は、この地の心臓だもの。心臓を動かすには、理屈だけじゃ足りないわ」
その言葉に、バッシアヌスはふっと笑った。
心臓。
たしかにそうだ。
この地の鼓動そのものを、これから一時的にでも帝都へ運ぶのだ。
それが穏やかに済むはずがない。




