第十三話 神殿の朝に、出口はない
翌朝、バッシアヌスは夢も見ずに目を覚ました。
目蓋を開けた瞬間、天井の模様がやけにはっきり見える。眠りは浅くなかったはずなのに、身体のどこかがもう知っているのだ。今日は昨日よりさらに忙しくなる、と。
「……いやだな」
寝台の上で小さく呟く。
すると、すぐ近くから声が返ってきた。
「起き抜けにそれは感心しません」
びくりとして身を起こすと、窓辺にルキウスが立っていた。
「なんでいるの!?」
「護衛ですので」
「ほんとうに朝から晩までそれなのね」
バッシアヌスは髪をかき上げ、寝台の端へ足を下ろした。
「母さまは?」
「先に起きています」
「祖母さまは?」
「もっと先に」
「予想どおりね」
ルキウスは窓の外へ少しだけ視線をやる。
「神殿の外も、もう動いています」
その一言で、朝の気だるさが少し薄れた。
「また人が来てるの?」
「門前には昨日より多いです」
「そんなに?」
「昨夜、使者が入ったのを見た者がいたようで」
バッシアヌスはため息をつく。
「ほんとうに、噂って寝ないのね」
「人より丈夫です」
「嫌な言い方」
そこへ侍女たちが入ってきた。水盤、衣、朝食、香油。手際よく、無駄なく、でもどこか浮き足立っている。皆、昨日までと同じように振る舞おうとしているのに、振る舞いきれていない。
彼の扱いが、もう微妙に変わっているのだ。
「おはようございます」
侍女頭が深く頭を下げる。
「おはよう」
返しながら、バッシアヌスは少しだけその深さを見た。
昨日より深い。
たぶん本人も無意識だ。
「朝食はお部屋で?」
「ううん、母さまと食べる」
「承知しました」
「祖母さまは一緒じゃないよね」
「ユリア・マエサ様は、もうお仕事中です」
「でしょうね」
支度をしながら、彼はふと鏡代わりの銀盤を見た。
寝起きの顔。
少し眠たげで、髪も整っていない。
こういう顔を、市井の人々はたぶん知らない。知るのは、整えられた神子の顔、笑う顔、灯火に照らされた横顔だけだ。
「ねえ、ルキウス」
「はい」
「今のわたし、どう見える?」
「眠そうです」
「綺麗とかは?」
「綺麗です」
「ついでみたい」
「今はそちらが先ではないので」
その返答に、侍女がくすっと笑う。
バッシアヌスも少し口元をゆるめた。
この男の言葉はときどき腹が立つが、朝にはちょうどいい。必要以上に飾らないから、自分まで少し飾らずに済む。
支度を終え、回廊へ出る。
神殿の朝は本来なら清らかなものだ。白い石、冷たい空気、朝の祈りの声。けれど今朝は、そのどれにも薄く人の熱が混ざっていた。遠くで門番の声。荷を運ぶ足音。伝令の駆ける気配。
出口がない、と思った。
逃げ道がない、ではない。
もっと穏やかで、もっと厄介な意味で。
神殿のどこへ行っても、もう昨日までの静かな自分には戻れない。
前へ進む道しかなくて、そのすべてが人の目に繋がっている。
「そんな顔をしていると、また不機嫌だと言われます」
後ろからルキウスの声。
「そんな顔ってどんな顔」
「逃げたいのに、少しだけ面白がっている顔です」
足が止まりかけた。
「……それ、分かる?」
「少しは」
「嫌な護衛」
「よく言われます」
誰に、と聞こうとしてやめた。たぶん本当に色々な人に言われてきたのだろう。
食事の間へ着くと、ソエミアスはすでに席についていた。
今日は淡い青の衣だ。夜のような深い紅や紫ではなく、朝の空に似た色。少しでも軽く、穏やかに見せようとしているのかもしれない。
「おはよう」
「おはよう、母さま」
「眠れた?」
「どうかな」
「なにかあったの?」
「途中で起こされたから」
そう言ってちらりとルキウスを見ると、母が笑いをこらえた顔になる。
「この人、ちゃんと朝からいたでしょう」
「いた」
「優秀ね」
卓には温かい粥、果実、薄いパン、蜂蜜。神殿の朝食としては十分に豪華だが、今のバッシアヌスにはあまり味がしない。身体は空腹を訴えているのに、心が別のものに引かれている。
「食べなさい」
ソエミアスが言う。
「今日はもっと忙しいわ」
「知ってる」
「知っているなら、なおさらよ」
「母さまはいつもそこ」
「そこが一番大事だから」
そう言いながら、彼女は自分でも少しだけ食べる。
一緒に口を動かしてくれると、こちらも食べないわけにいかなくなる。
数口ほど粥を口にしたところで、バッシアヌスは小さく息をついた。
「母さま」
「なに」
「昨日の使者のこと、祖母さま何て言ってた?」
ソエミアスは少し考えてから答えた。
「悪くないって」
「それ、かなり褒めてるほう?」
「ええ。あの人にしては」
「じゃあ、ローマは本当にこっちを見てるのね」
「見てるでしょうね」
「嬉しい?」
「わたしが?」
「うん」
母はすぐには答えなかった。
代わりに、手元の杯を少し回してから言う。
「……怖いわ」
正直な答えだった。
「おまえが望んでいたからじゃなくて、向こうが見つけてしまったから」
その言い方が、妙に胸へ残る。
見つかった。
たしかにそうだ。
自分が行くと決めたというより、ローマに輪郭を認識された感じが強い。
「でも」
ソエミアスは続けた。
「少しだけ、誇らしくもある」
「母さまが?」
「ええ。腹立たしいけど」
バッシアヌスは思わず笑った。
「どっちなの」
「両方よ。母親なんてそんなもの」
「便利な言い訳」
「そっちこそ」
少しだけ空気が和らいだ、そのとき。
外で早い足音が止まり、侍女が扉の前で一礼した。
「ユリア・マエサ様より、お二人に。至急、大神官殿も交えて話があると」
ソエミアスが眉をひそめる。
「朝食くらい静かに食べさせてくれないのかしら」
「祖母さまに期待しちゃだめ」
「分かってるけど腹は立つの」
バッシアヌスは残りの粥を見た。
半分ほど。
食べきるべきか迷う。
「食べなさい」
ソエミアスが先に言った。
「でも至急だって」
「至急でも、一刻二刻で帝国は崩れないわ」
「祖母さまが聞いたら怒る」
「怒らせておきなさい」
母のその言い方が、少しだけ気持ちよかった。
バッシアヌスは素直に残りを口へ運ぶ。
温かい。少し甘い。ようやく味が分かる。
食べ終えて立ち上がると、ルキウスがすでに扉の横にいた。
「準備は」
「できてる」
回廊へ出る。
朝の光は昨日と変わらず白いのに、自分の歩く速さも、人の頭を下げる深さも、何もかも少しずつ違う。
神殿の朝に、出口はない。
けれどその代わり、前へ続く道ははっきりしてきている。
大神官、祖母、母、使者、噂。
それらが少しずつ一本の線に繋がり、エメサからローマへ向かって伸びていく。
「ねえ、ルキウス」
「はい」
「わたし、ちゃんと進んでるように見える?」
問いかけると、彼は一拍だけ置いて答えた。
「進んでいます」
「どこへ?」
「もう戻れない方へ」
バッシアヌスは、少しだけ笑った。
「ほんとうに優しくない」
「護衛ですので」
「それ、今日だけで何回目?」
その言葉と一緒に、彼はまた一歩進む。




