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第十二話 帝都は、まだ遠くて近い

 夜の回廊は、昼よりも長く感じる。


 白い石の床に灯火が点々と落ち、そのあいだを歩くたび、影が伸びたり縮んだりした。神殿の外は静かなはずなのに、今夜はどこか落ち着かない。使者が来た、と聞いたせいだろう。見えないはずのローマが、柱の向こうにまで染み出してきた気がする。


 バッシアヌスは早足になりそうになるのを、意識して抑えた。


 その一歩後ろにルキウスがいる。

 近い。

 でも息苦しいほどではない。

 この男は人の後ろにつくのが上手いのだと思う。見張っているのに、追い立ててはこない。


「そんなに急がなくても、使者は逃げません」


 後ろから淡々とした声が飛ぶ。


「急いでない」


「少しだけ」


「歩幅で分かるの?」


「分かります」


「嫌な特技」


「護衛ですので」


 もう何度聞いたか分からない返答に、バッシアヌスは小さく鼻を鳴らした。


「ねえ、ルキウス」


「はい」


「ローマの使者って、どんな顔してると思う?」


「人です」


「面白くない」


「疲れている顔では」


「それはそうかも」


 エメサまで来るのは簡単ではない。街道を渡り、情報を持ち、危険を避けてたどり着くのだ。疲れていないわけがない。


「でも、わたしはもっと別のことを聞いてるの」


「別のこと?」


「帝都の人間の顔って、もうそれだけでローマの匂いがするのかなって」


 ルキウスは少し黙った。

 珍しく、返答までに間があった。


「するかもしれません」


「へえ」


「大きな都にいる者は、自分が中心に近いと思いがちです。顔にも出る」


「それ、あんまり好きじゃないな」


「でしょうね」


 歩きながら、バッシアヌスはふと思う。

 もし自分がローマへ行き、そこで長く生きたら、顔は変わるのだろうか。エメサの神殿で香と祈りに囲まれていた少年の顔ではいられなくなるのだろうか。


 その問いは、少しだけ怖かった。


 会談用の広間に近づくと、空気が変わった。

 見張りの兵が二人、入口の前に立っている。いつもより厳しい。灯火も多い。つまり、本当に重要な客なのだ。


 扉の前にはマエサの侍女が控えていた。彼女はバッシアヌスを見ると、無言で頭を下げる。


「中に?」


「はい。ユリア・マエサ様がお待ちです」


 ソエミアスはいないらしい、と彼は思った。

 少しだけ肩の力を抜く。母がいると安心はするが、そのぶん「ちゃんとしていなければ」という気持ちも強くなる。祖母の前では逆に、少し意地を張れる。


 扉が開く。


 広間の中央、マエサはいつものようにまっすぐ座っていた。

 その向かいに、一人の男がいる。


 年は四十前後だろうか。痩せている。旅埃のついた外衣をまとっているが、質は悪くない。髪には白いものが混じり、目だけが妙に静かだった。兵のような荒さも、商人のような脂っこさもない。だが神殿の人間とも違う。


 ああ、これが都の匂いかもしれない、とバッシアヌスは思った。


 疲れているのに、気を抜いていない顔。

 値踏みしているのに、露骨ではない目。

 自分の言葉がどこへ届くか、最初から分かっている人間の顔だ。


「来たわね」


 マエサが言う。


「こちらはガイウス・ウァレリウス。ローマからの使者よ」


 男は立ち上がり、一礼した。

 膝はつかない。だが無礼でもない。距離の取り方が巧みだ。


「お目にかかれて光栄です、バッシアヌス様」


 “神子さま”ではなく、“バッシアヌス様”。


 その呼び方一つで、男が何を見ているか分かる。


「ようこそ、遠いところを」


 バッシアヌスも柔らかく返す。

 男の目が一瞬だけ動いた。

 試されている。けれどこちらも見ている。


「遠い道のりでしたが、来た甲斐はありました」


「わたしの顔を見るために?」


 少しだけ戯れを混ぜて言うと、男はわずかに笑った。


「それも含めて」


 上手い。

 否定しない。

 でも媚びもしない。


 バッシアヌスは席につく。ルキウスはいつものように一歩後ろへ下がった。


「で」


 バッシアヌスは正面の男を見る。


「帝都は、わたしのことを何と聞いているの」


 マエサが止める前に聞いてしまった。

 だが祖母は制さない。むしろ、聞けと言いたげな顔だった。


 使者は少しだけ考え、それから答える。


「いくつかあります」


「どんな?」


「美しい少年神官」


「それはもう聞いた」


「先帝に似ている」


「それも」


「兵が心を寄せているらしい」


「らしい、なのね」


「確かなところは、まだ」


 使者はそこで一拍置いた。


「そしてもう一つ。最も面白がられているのは――」


「なに」


「“神そのものを連れてくるつもりらしい”という話です」


 部屋が静まる。


 聖石のことだ。

 エメサの黒い石をローマへ。

 祖母が昨夜、ぽろりと口にした計画。まだ正式に動いてもいないのに、もう都へ届き始めている。


「早いのね」


 バッシアヌスが呟くと、使者は言った。


「都は、異国の話が好きですから」


「好き?」


「ええ。恐れながら」


 その言い方に、バッシアヌスは少しだけ口元を上げた。


「それは、歓迎の意味?」


「半分は」


 最近そればかりだ。


「もう半分は?」


「警戒です」


 今度ははっきりしていた。


 マエサが静かに口を開く。


「具体的には」


「あなた方が単なる地方の騒ぎで終わるのか、それとも本当に都を揺らす火種になるのか、皆が見ている」


 その一言で、ローマが少しだけ現実になる。


 ただ遠くにある都ではない。

 こちらを見ている都。

 まだ受け入れてはいないが、目は向けている都。


 バッシアヌスは、胸の奥がすうっと冷えるのを感じた。

 怖い。

 でも、目を逸らしたくない。


「……わたし、思っていたより見られてるのね」


「今はまだ、噂として」


 使者は答える。


「ですが噂は、ときに本人より先に入城します」


 その言葉は、妙に美しくて嫌だった。


 本人より先に噂が入る。

 つまり自分は、まだローマへ行っていないのに、もうどこかで誰かの頭の中に“像”として置かれているのだ。


 美しい神官。

 先帝の影。

 異国の火種。

 神を連れてくる者。


 どれも、ほんの少しずつ自分で、でも決して全部ではない。


「なら」


 バッシアヌスは使者を見た。


「帝都が見ているのなら、退屈はさせたくないわね」


 マエサの目が細くなる。

 使者は一瞬だけ黙り、それから初めて少し深く笑った。


「そのお言葉を聞けただけでも、今夜ここへ来た価値はありました」


「価値、ね」


 バッシアヌスは小さく繰り返す。


 商人も、兵も、使者も、皆それぞれ別の秤を持っている。

 でも量られているものは、結局同じだ。


 顔。

 胆力。

 噂。

 そして、都を揺らすかどうか。


「おまえはどう思う」


 不意にマエサが尋ねた。


「何を」


「帝都がこちらを見ていると知って」


 祖母の問いは、いつも逃げ道がない。


 バッシアヌスは少しだけ考えた。

 怖い、と答えるのは簡単だ。

 嬉しい、と答えるのも半分は本当だ。

 でも、それだけでは足りない気がした。


「……やっと、始まった気がする」


 言ったあとで、自分でも驚いた。

 でも間違っていなかった。


 神殿の中で噂が生まれ、兵が膝をつき、商人が値をつける。

 それらは全部“前触れ”だったのだ。

 帝都から使者が来て初めて、自分の物語はエメサの外へ接続された。


「そう」


 マエサはそれだけ言った。

 けれど、その短い返答には満足が混じっていた。


 使者はもう一度頭を下げる。


「ローマは遠いですが、遠いだけではありません」


「近い?」


「噂が届く場所なら、もう半分はこちら側です」


 その言葉に、バッシアヌスはぞくりとした。


 帝都は、まだ遠い。

 けれどもう、近い。


 見えないのに、こちらを見ている。

 行っていないのに、こちらの形を決め始めている。


 それは歓喜に似ていた。

 同時に、首に細い鎖をかけられるような感覚でもあった。

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