第十一話 祖母は、眠っている顔を信用しない
目が覚めたとき、最初に見えたのは天井ではなく、灯火だった。
小さな炎がひとつ、寝台の脇で揺れている。窓の向こうはもう真夜中で、神殿の白い壁にも月の光が薄く差していた。風は少し収まったらしい。さっきまで耳の奥で鳴っていたような音は、もう遠い。
「……母さま?」
寝台の脇の椅子には、まだソエミアスがいた。
起きていた。肘掛けに腕を置き、こちらを見ている。寝ていてもおかしくない時間なのに、彼女は髪一本乱れていない。ただ、その目だけが少し赤い。
「起こした?」
「ううん。勝手に起きた」
「喉は渇いてない?」
「ちょっと」
すぐに水を差し出される。
こういうところは昔から変わらない。
バッシアヌスは身を起こし、杯を受け取った。冷たすぎない水が、眠気の残った喉にすっと落ちる。
「何刻?」
「もう遅いわ。少しは眠れたでしょう」
「夢、見た気がする」
「どんな?」
「忘れた」
半分は本当で、半分は嘘だった。
夢の中で、黒い聖石がローマの真ん中に置かれていた。白い大理石の都の中心で、ひどく不釣り合いに、でも誰よりも静かにそこにあった。そのまわりを花びらが舞い、人々はひざまずいていたのに、誰も顔を上げなかった。
あまり気持ちのいい夢ではない。
「嫌な夢だった?」
「少しだけ」
そう言うと、ソエミアスはそっと彼の前髪をかき上げた。
「まだおまえには、考えることが多すぎるのよ」
「母さまに言われると子どもみたい」
「子どもでしょう」
「だから、それを言われるのが嫌なの」
ソエミアスは困ったように笑った。
だがその笑みは、今夜はどこか弱い。
「……どうしたの」
バッシアヌスが尋ねると、母は少しだけ目を伏せた。
「何でもないわ」
「嘘」
「おまえもよく言うようになったわね」
「祖母さまのせい」
「そうかもね」
少しの沈黙。
神殿の夜は静かだ。昼のように人の足音が響くこともないし、巫女たちの歌声もない。ただ、ときどき遠くで見張りの兵が槍の石突きを鳴らす音がするだけだ。
その静けさの中で、ソエミアスはぽつりと言った。
「マエサ様が、さっき来たの」
「祖母さまが?」
「ええ。おまえが寝たあと」
「起こしてくれればよかったのに」
「起こす気はなかったわよ、あの人も」
「何しに来たの」
「明日からのことを少し」
バッシアヌスは杯を置いた。
眠気が少し遠ざかる。
「何を決めたの?」
ソエミアスは迷ったように一瞬だけ黙ったが、結局隠さなかった。
「市中へ流す話を、もっと選ぶって」
「噂の整理?」
「そういうこと」
祖母らしい。
噂は止められないなら、流れを選ぶ。今日も言っていた。どんな噂を生かし、どんな噂を殺すかと。
「で、どれを生かすの」
「おまえが美しいこと。兵が好意的だったこと。先帝に似ていること。神殿の支持を受けているように見えること」
「ように見えることって大事なのね」
「たぶん、一番ね」
母の声音は皮肉だった。
「殺したいのは?」
「軽率。気まぐれ。神殿の奥で甘やかされているだけの子ども」
「確かにどれも噂だね」
結局、噂とは真実か嘘かではなく、使えるかどうかなのだ。
「祖母さま、わたしのこと何だと思ってるんだろう」
「……武器でしょうね」
その答えは痛いほど正直だった。
「母さまは?」
「息子よ」
「それも、たぶん少し息苦しい」
ソエミアスが目を見張る。
「正直すぎた?」
「いいえ」
彼女は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「でも、そうでしょうね」
「だって、祖母さまは遠くから見てる。母さまは近すぎる」
「じゃあ、どうしてほしいの」
その問いに、バッシアヌスはしばらく答えられなかった。
どうしてほしいのだろう。
放っておいてほしいわけではない。
でも、縛ってほしいわけでもない。
「……たまに、ただ見てほしい」
ようやくそう言うと、ソエミアスは息をついた。
「難しいお願いね」
「だろうね」
「母親って、見ているだけが一番苦手なのよ」
「母様だけじゃなくて?」
部屋の外で、控えめな足音が止まった。
そして二度、扉が叩かれる。
ソエミアスが顔を上げる。
「誰?」
「ルキウス・マルケルスです」
低い声が返ってきた。
「何事」
「ユリア・マエサ様がお呼びです」
バッシアヌスが眉を寄せる。
「今?」
「今です」
「祖母さま、眠らないの?」
「たぶん、おまえが眠っている顔を信用しないのよ」
ソエミアスが立ち上がり、扉を開ける。外にはルキウスが立っていた。相変わらずまっすぐで、相変わらず疲れた様子がない。
「何があったの」
バッシアヌスが聞くと、ルキウスは答えた。
「使者です」
「この時間に?」
「はい。ローマ方面から」
その一言で、眠気は完全に飛んだ。
ローマ。
ついに、その名がまた近づいてくる。
「わたしに?」
「正確には、ユリア・マエサ様に。ですが、あなたにも会わせたいと」
「会わせたい、って祖母さまが言ったのね」
ソエミアスがすぐに首を振る。
「だめよ。今起きたばかりなのに」
「母さま」
「熱はなくても顔色は万全じゃないわ」
「使者は待ってくれない」
「だからって」
言いかけた母を見て、バッシアヌスは寝台から足を下ろした。
床が少し冷たい。
でも嫌ではない。
むしろ、胸の奥が少し熱いくらいだった。
「行く」
ソエミアスが眉をひそめる。
「無理しないで」
「無理じゃないよ」
「顔を見れば分かるわ。ちょっと興奮してる」
「……してるかも」
否定できなかった。
ローマからの使者。
その言葉だけで、神殿の外に広がる巨大な都が、急に輪郭を持ちはじめる。
今までは噂だった。予感だった。祖母の計算だった。
でも使者は違う。向こうから、こちらへ手が伸びてきたということだ。
「少しだけ整えてからにしなさい」
ソエミアスが早口で言う。
「そのままじゃだめ。髪も、顔も」
「今から?」
「今だからよ」
そこへルキウスが淡々と付け加えた。
「そのままでも十分目は引きます」
ソエミアスとバッシアヌスが同時に彼を見る。
「慰めてる?」
バッシアヌスが問うと、ルキウスは少しだけ考えてから答えた。
「事実です」
「この人、本当にこういう時までこれなのね」
ソエミアスが呆れ、バッシアヌスは少し笑った。
だが笑ったことで、逆に決心がついた。
「行く前に、ひとつだけ」
「なに」
「母さま、わたし変じゃない?」
ソエミアスは彼をまじまじと見て、それから言う。
「変よ」
「ひどい」
「でも、それでいいの」
彼女は前髪を整え、頬に手を添えた。
「普通の子なら、ここまで来られなかったでしょう」
その言葉は、優しいのか残酷なのか分からなかった。
でも少なくとも嘘ではない。
バッシアヌスは立ち上がる。
寝台の温もりが離れていく。
代わりに、神殿の夜の冷たさが戻ってくる。
「では、行きましょう」
ルキウスが扉の横へ下がる。
ソエミアスはため息をつきながらも、その外衣の襟を最後に整えた。
「終わったら、戻って寝ること」
「できたらね」
「できなくてもよ」
母のその返しに、バッシアヌスは少しだけ肩をすくめた。
扉の向こう、回廊の灯が揺れている。
その先には祖母と、使者と、たぶんまた新しい言葉が待っている。
眠っている顔を信用しない祖母。
冠より熱を気にする母。
そして、何も言わず先に立つ護衛。
その三つに囲まれながら、バッシアヌスは夜の回廊へ踏み出した。




