第十話 母は冠より、熱を気にする
商人たちが去ったあと、神殿の夜はようやく静かになる――はずだった。
けれど今夜は違った。
人の出入りが途切れても、空気だけがまだざわついている。灯火はいつもより多く、回廊を歩く侍女たちの足も速い。外では風が出てきたらしく、柱のあいだを抜けるたびに、香の煙が細く乱れた。
バッシアヌスは部屋へ戻るなり、寝台へ倒れ込んだ。
「無理」
第一声がそれだった。
後ろからついてきたソエミアスが、呆れたように眉を寄せる。
「そうなると思ったわ」
「先に言って」
「言ったところで、おまえは笑ったでしょう」
「それは……まあ……」
否定できない。
笑うたびに取引が進む。
さっきの商人たちとの会談で、それを嫌というほど思い知った。自分が柔らかく返せば相手は安心し、安心したぶんだけ祖母の話が通る。便利だ。気持ち悪いくらいに。
「頭いたい」
寝台へ頬を押しつけたまま言うと、ソエミアスの手が額に触れた。
「熱はないわね」
「冠の話より先に熱?」
「当たり前でしょう」
母は本気で言っている。
「おまえがどれだけ綺麗に座っていようと、どれだけ上手に笑おうと、熱を出して倒れたら全部終わりよ」
「心配しすぎ」
「母親なんてそんなものよ」
飲み物を持ってくるようソエミアスが侍女に命じる。すぐに冷たい水と、薄めた葡萄酒、それから蜂蜜入りの温い湯まで用意された。
「どれがいい?」
「飲ませてくれないの?」
「病人扱いしてるわけじゃないもの」
「じゃあ水」
起き上がって杯を受け取る。
喉が思った以上に乾いていた。ひと口で半分ほど飲み、ようやく人心地つく。
部屋の隅には、ルキウスが当然のように立っていた。
彼は椅子にも座らないし、余計な慰めも言わない。ただそこにいる。
「まだいるの」
バッシアヌスが言うと、ルキウスは平然と答えた。
「護衛ですので」
「万能ね、その言葉」
「便利ですから」
もう何度目か分からない返答に、ソエミアスが小さく笑う。
「本当に愛想がないのね、この人」
「母さまもそう思う?」
「思うわ。でも、今夜みたいな日はそのくらいのほうがいいかもしれない」
「どうして」
「みんながみんな、おまえを特別に扱い始めているでしょう」
その言葉に、バッシアヌスは黙る。
たしかにそうだった。
商人たちも、侍女たちも、門前の群衆も、兵たちも。
昨日までの自分ではなく、これから何かになるかもしれない存在として見てくる。
その視線は甘い。けれど、甘いぶんだけ息苦しい。
「この人は、おまえを持ち上げないもの」
ソエミアスはルキウスをちらりと見た。
「それは少し助かるでしょう」
「まあ、少しは」
部屋の空気が少しゆるむ。
その瞬間を見計らったように、ソエミアスが侍女たちを下がらせた。扉が閉まり、部屋には三人だけになる。
「……ねえ、バッシアヌス」
母の声が少し低くなる。
「なに」
「疲れたでしょう」
「うん」
「怖かった?」
その問いに、彼はすぐには答えなかった。
商人たちとの会談は、兵の前に立った昨夜とは別の種類の疲れがあった。剣の匂いはしないのに、あちらの方がずっと冷たかったかもしれない。人の価値を量る視線。金と噂でできた秤。
「……少し」
ようやくそう言うと、ソエミアスの目がやわらぐ。
「そうよね」
「でも、嫌だっただけじゃない」
「え?」
バッシアヌスは杯を見下ろした。
「上手くできたって思ったの」
それを口にするのは、少し恥ずかしかった。
「笑ったら相手の顔が変わって、こっちの言葉を待つみたいになって、祖母さまの話が通っていくのが分かった。……これ、気持ちいいなって」
ソエミアスは何も言わない。
責めないかわりに、簡単にも頷かない。
「性格悪いかな?」
思わず聞くと、母は首を振った。
「いいえ。それが分かるのは危ないけど、悪いことではないわ」
「危ないんじゃない」
「危ないのと、悪いのは別よ」
それは祖母なら言わない種類の言葉だった。
「権力って、たぶんそういうものなんでしょうね。最初は怖い。でも、一度だけでも人が自分の一言で動くと、忘れられなくなる」
バッシアヌスは小さく息を呑む。
母は見抜いている。
兵の前でも、商人の前でも、自分が感じたあの甘さを。
「母さまも、知ってるの」
「少しは」
ソエミアスは苦く笑う。
「この一族に生まれた女は、嫌でもね」
その表情を見て、バッシアヌスはそれ以上聞かなかった。
母にも母の傷があるのだろう。祖母ほど上手には隠さないだけで。
沈黙の中、外で風が強く鳴った。
灯火がひとつ揺れる。
「ルキウス」
不意にソエミアスが呼ぶ。
「はい」
「今夜のうちに、この部屋の外を見回らせて。門前だけじゃなく、裏手も」
「承知しました」
「それと、明日からはこの子が外へ出るとき、もう少し近くに」
バッシアヌスが顔をしかめる。
「近いの嫌」
「嫌でもよ」
「窮屈」
「おまえが噂になるということは、おまえに近づきたい者も増えるの。見たい者、取り入りたい者、試したい者、消したい者」
最後の一言だけ、声が少し冷えた。
バッシアヌスは反論できなかった。
「……分かった」
「いい子」
「褒められてる気がしない」
「今は生きているのが最優先だから」
ほんとうに母らしい。
冠より、名より、熱と睡眠と食事のほうを先に気にする。
「母さま」
「なに」
「もしわたしが、本当に皇帝になったら」
「ええ」
「その時も、熱を気にしてくれる?」
ソエミアスは一瞬きょとんとして、それからひどく優しい顔で笑った。
「当たり前でしょう」
そう言うと、ソエミアスは彼の額へもう一度触れた。
冷たい指先だった。
聖石とは違う、ちゃんと人の手の温度をした冷たさ。
「少し休みなさい」
「まだ来客ある?」
「今夜はもうないわ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「祖母さまが追加しない?」
「……させないようにする」
そこに少し間があったので、バッシアヌスは笑ってしまう。
「絶対追加される」
ようやく自然に笑えた気がした。
ソエミアスは椅子を引き寄せ、寝台のそばに座る。
まるで昔、熱を出した子どもを看る時みたいに。
「眠るまでここにいてあげる」
「子ども扱い」
バッシアヌスは寝台へ横になった。
裾が乱れないよう侍女が整えたばかりなのに、もうどうでもよくなっている。
「ルキウス」
「はい」
「あなたもいるの?」
「います」
「ずっと?」
「できる限り」
「じゃあ、もしわたしが寝言で変なこと言っても忘れて」
「内容によります」
「最悪」
ソエミアスが声を立てずに笑う。
その笑いを聞きながら、バッシアヌスは目を閉じた。
疲れている。
体が重い。
でも心だけは妙に冴えている。
商人たちの目。
祖母の計算。
門の向こうの群衆。
兵たちの膝。
そして、自分の一言で空気が変わるあの感覚。
怖い。
けれど、忘れたくない。
「……母さま」
「なに」
「今夜のわたし、ちゃんと上手だった?」
ソエミアスはしばらく黙ってから答えた。
「ええ。腹が立つくらい」
「どうして」
「おまえがそういうことに向いているのが分かるから」
その答えは、褒め言葉であり、嘆きでもあった。
バッシアヌスは薄く笑う。
眠気がようやく近づいてくる。
灯火の向こうで、ルキウスが静かに部屋を出ていく気配がする。見回りだろう。母は椅子に座ったまま、たぶん眠るまでここにいる。
外では風が鳴っている。
神殿の夜は、まだ自分のものだ。
でも明日もまた、人が来る。噂が増える。値がつく。
そうして少しずつ、自分は神殿の神子ではなくなっていくのだろう。
それでも今は、ただ一つだけ確かなことがある。
冠より先に、熱を気にしてくれる人がいる。
それは、案外大事なことだった。
ご一読くださり、ありがとうございました




