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第一話 黒い太陽の神子

 その日、エメサの空は、ひどく青かった。


 乾いた風が白い神殿の柱廊を吹き抜け、黄金の鈴をかすかに鳴らしていた。高く、どこまでも高く積み上げられた石の神殿は、まるで空へ届くために造られたようだった。香炉から立ちのぼる乳香の煙は陽光に溶け、床に敷かれた紫の布の上を、ゆるやかに這っていく。


 神殿の最奥、誰一人として軽々しく膝を踏み入れることを許されない聖域に、その黒い石はあった。


 磨かれたというより、夜そのものを切り取って置いたような、鈍い光を帯びた聖石。


 太陽神エル・ガバルの依り代。

 この都の民はそれを畏れ、そして愛していた。


 石の前に、ひとりの少年が立っていた。


 年はまだ十四ほど。だが、肩を流れ落ちる黒髪には金糸が編み込まれ、細い額には日輪をかたどった飾りが揺れている。白い祭衣の裾には緻密な刺繍が走り、透けるような指先には紅玉と金の指輪が幾つもはめられていた。


 美しい、という言葉では足りない。


 それは人の子の美しさではなく、神殿の火や、夜明けの一瞬だけ現れる薄金の光のような、触れれば壊れそうで、同時に近づくことを拒む美だった。


 少年――ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌスは、ゆっくりと両手を聖石へ差し伸べた。


「今日の空は、機嫌がよろしいのですね」


 囁きは祈りであり、甘やかな戯れ言のようでもあった。


「なら、あなたも少しくらい、わたしに優しくしてくださる?」


 聖石は沈黙している。


 だが少年は、それで充分だった。沈黙は拒絶ではない。むしろ、神はたいてい黙している。人が勝手に恐れ、勝手に意味を与えているだけだと、彼は知っていた。


 香がまたひとつ、濃くなる。


 彼は目を閉じ、祝詞を唱えた。古いシリアの言葉。母から教わり、巫女たちから正され、何度も何度もこの聖域で口にしてきた言葉だ。神を呼ぶためのことばであると同時に、自分が自分であるための証でもある。


 低く、澄んだ声が神殿に満ちていく。


 柱の外で控えていた巫女たちは皆、頭を垂れた。衛兵たちですら、その瞬間だけは呼吸を浅くする。


 少年神官は舞うように一歩踏み出し、金の腕輪を鳴らしながら石の周囲を巡った。白い衣が円を描き、朝の光を受けて揺れる。その姿は神へ仕える神官というより、神に愛されるために生まれた供花のようだった。


 美しい。


 あまりにも美しい。


 それゆえに、この神殿に訪れる男たちの多くは、彼を見るたび目を伏せた。美しさとは時に、刃よりも人を臆病にさせる。


 やがて祈りを終えた少年は、そっと振り返った。


「――聞いていたのでしょう、祖母さま」


 柱の陰から、ゆるやかな拍手が返る。


「相変わらず勘のよい子だこと」


 現れたのは、年老いてなお気品を失わない女だった。紫の外衣をまとい、真珠を連ねた髪飾りをつけたその姿には、都の豪商や地方貴族など到底及ばない威厳がある。


 ユリア・マエサ。

 少年の祖母であり、この一族で最も冷たい目を持つ女だった。


「祈りのあいだは近づかないでと、いつも申し上げていますのに」


「近づいていないわ。柱の外で聞いていただけ」


「それを近づいたと言うのです」


 少年は唇を尖らせたが、怒っているというより戯れているだけだった。そうして祖母の前まで来ると、長い睫毛の影を揺らして小首を傾げる。


「それで? ただ可愛い孫の祈る姿を見にいらしたわけではないのでしょう」


「可愛い孫ではあるわ」


 マエサは即答し、それから一拍おいて続けた。


「けれど今日は、それだけではないの」


 その声に、少年は笑みを少しだけ薄くした。


 神殿の外では、風が急に向きを変えたようだった。鈴がさっきよりも高い音で鳴る。胸の奥に、言葉にならないざわめきが走る。


「ローマから使者が来たのよ」


 ローマ。


 その名は、ひとつの世界そのものだった。遠く巨大で、あらゆる都を呑み込む帝国の中心。石と血と法でできた都。神殿に生きる少年にとっては、絵巻の中の怪物のように現実味のない場所でもある。


「……また税の話?」


「いいえ」


 マエサの目が細くなる。


「皇帝が替わるかもしれない、という話」


 少年はまばたきをした。

 すぐには意味がつかめなかった。


 皇帝が替わる。

 その一言は、あまりにも遠い。


「それはローマのお話でしょう。わたしには関係ありません」


「関係があるようにするのが、これからの話よ」


 祖母は静かに歩み寄り、少年の頬に触れた。冷たい指だった。愛撫のようでいて、値踏みするようでもある。


「おまえはカラカラに似ているわ」


 その名が出た瞬間、神殿の空気が変わった。

 先帝。死んだ皇帝。血塗られた名。


 少年は眉を寄せる。


「母もときどきそう言います。嫌いです、その話」


「けれど兵士たちは好きなのよ。死んだ皇帝の幻を、いまだに求めている」


 マエサは指を離した。


「ローマの玉座は今、空いているも同然。ならばそこへ、座るべき者を座らせればいい」


「……誰を?」


 問うた瞬間、答えは分かってしまった。


 祖母は笑った。

 優しい笑みではなかった。勝利の形を先に知っている者の笑みだ。


「おまえよ、バッシアヌス」


 神殿が遠のいた気がした。


 少年は息をするのを忘れたまま、背後の聖石を振り返った。黒い石は変わらずそこにある。何も言わず、何も動かず、ただ夜のような艶を湛えている。


 冗談だと思いたかった。

 だが、祖母は冗談で帝国を語る女ではない。


「わたしは神官です」


「ええ」


「皇帝ではなく」


「だからこそ価値があるの」


 マエサの声は柔らかいのに、容赦がなかった。


「剣を振るう男は、いくらでもいる。だが、神に愛されて見える子は少ないわ」


 少年は一歩下がった。金の鈴がかすかに鳴る。


「……嫌です」


 その拒絶は幼く、正直だった。


「ローマなんて、好きになれそうにありません。あんな石の都。祈りより法律を信じて、神より噂を信じるのでしょう」


「よく知っているじゃない」


「だから嫌いなのです」


 彼は本当に嫌だった。

 この神殿を離れることも、聖石のそばを離れることも、見たこともない都の飢えた目に晒されることも。


 けれど、マエサは静かに告げる。


「嫌でも、行くのよ」


「祖母さま」


「おまえは選ばれたの」


 そのとき、不意に風が強く吹き込んだ。


 香炉の煙が揺れ、金の灯火がひとつ消える。巫女たちが息を呑む気配がした。誰かが小さく、神意だ、と囁いた。


 少年ははっとして聖石を見る。


 黒い表面に、ほんの一瞬だけ光が走ったように見えた。


 それが太陽の反射だったのか、本当に神が応えたのか、誰にも分からない。だがその瞬間、少年の胸を満たしたのは恐怖ではなかった。


 どうしようもない予感だった。


 祝福に似ていて、呪いにも似ている何か。


 遠い都。紫の玉座。無数の視線。花と血と悪名。

 そして、もう二度と神殿にいた頃の自分には戻れないという、冷たい確信。


 マエサは跪きもしない。ただまっすぐ孫を見つめ、言った。


「ローマへ行きなさい。

 神の子としてではなく、皇帝として」


 少年はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと唇を開く。


「……もし、わたしが行けば」


 声は震えていなかった。

 むしろ奇妙なほど澄んでいた。


「ローマは、わたしを愛しますか?」


 祖母は答えない。


 答えられないのだと、彼にも分かった。


 愛ではない。必要としているだけだ。

 あるいは、もっと都合のいい何かとして。


 それでも少年は、ふっと笑った。

 あどけなく、悪戯っぽく、けれどどこかひどく寂しい笑みだった。


「では、せめて――嫌われる前に、目を奪ってやりましょう」


 そう言って彼は聖石へ手を置いた。


 黒い太陽は黙したまま、冷たかった。


 だがその冷たさは、拒絶ではない。


 まるで、これから失うすべてを知っていて、それでも行けと命じる神の掌のようだった。


 その日、エメサの空は、ひどく青かった。

ご一読くださり、ありがとうございました。

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