川の流れとともに
カーテンの隙間から、やわらかな光が差し込んでいた。
伸びをしてカーテンを開けると、川の水に日の光が反射して、水面に光の粒が揺れていた。
窓を開けて思いきり息を吸い込む。少し冷たい空気が、肺の奥に触れた。
ベッドから立ち上がって、部屋中のカーテンと窓を全開にすると、ほのかな風が部屋を通り抜けた。
そのまましばらく、ゆっくりと流れていく光の粒を眺めていた。
玄関から外に出ると、うっすらと雲が浮かんだ薄青い空が広がる。
鶯の鳴き声が、どこか遠くから聞こえる。
川の流れる音が、それに重なった。
黄緑の新芽がそよ風に揺れて、かすかな音を立てていた。
ゆるやかな斜面を流れていく透き通った水を、目で辿っていく。
木々が立ち並ぶ斜面が続き、そのずっと奥に、雪を被った山の頂がのぞいていた。
背の低い草が生えた地面を、サンダルを履いた足で踏みしめながら川辺に近付いていく。
足の裏の感触が、土から小石へ段々変わっていく。
身を低くして水面へと手を伸ばす。指先でそっと触れると、鋭さが残った冷たさが広がる。
ゆっくりと奥に押し進め、歪む手の輪郭をぼんやりと眺めた後、手の平を返して水をすくう。
柔らかい水が隙間からこぼれ落ちて、小さく飛沫を上げた。
去年よりも水の量が多い気がした。
去年のことは、はっきりとは思い出せなかった。
両の手ですくった水を顔に近付けて、そっと顔を沈める。
冷たさが一気に体中を駆け巡った。
首に掛けていたタオルで顔を拭いて、立ち上がる。
小石を踏み分けて斜面を登っていくと、背の高い木から鳥が飛び立っていった。
空の高いところでは、二羽の鳶が円を描きながら旋回していた。
片方は、もう一羽より少し小さい。去年はいなかった気がした。
ひときわ強い風が吹き抜けて、草葉の擦れる音が耳をくすぐった。
風の冷たさに体が小さく震え、慌てて川辺を後にする。
家の中に入ると、窓をいったん閉めて、台所に立つ。
冷蔵庫を開けると、中には作り置きしていた菜の花のお浸し、カブの漬物、キャベツとジャガイモの味噌汁が入っている。
味噌汁が入った小鍋を手に持って、コンロに乗せて火を点けた。
フライパンに油をしいて、溶いた卵を流し入れる。
焼ける音の向こうで、川は途切れず流れていた。
出来上がった食事を机に運んで、椅子に腰かけた。
お腹を満たした後、食器を流しに運んで、窓枠の向こうに目を向ける。
小さな鳥が嘴で地面をつついていた。
時折聞こえる鳴き声に耳を傾けながら、洗い物を済ませると、寝室に向かってベッドに腰かけた。
枕元に置いてある本を手に取り、栞が挟んであった場所へ指をすべらせる。
窓は閉めたまま、ガラスの外で穏やかに流れ続ける川と、小さく揺れる草花に目をやった。
今年もこの時期がやって来た。
天気が良いと外に出られない。
開いた本に視線を落とし、昨日の続きを読み始めた。
ふとティッシュ箱を見ると、紙が出ていなかった。
本に栞を挟みなおし、予備のティッシュ箱を取り出す。
減るのが早かった。近いうちにまた買いに行く日が来るのだろう。
ベッドに座りなおし、再び本を開いた。
ページをめくる音と、呼吸音だけが聞こえる。
大きなガラスの向こうからは、絶えず流れる川の音と風が通り抜ける音が聞こえる。
この本を読み終わったら、外に出よう。
テラスへと続く窓の手前に、マスクが干されているのが目に入った。
眼鏡をかけ、干してあったマスクを着けて外に出る。
体中が暖かな陽気に包まれて、遅れて眠気が湧き上がってきた。
欠伸をかみ殺して、ゆっくりと川沿いを下っていく。
室内の明るさに慣れた目には、光り輝く水面は強すぎて、思わず目を細めた。
風が髪を撫でつける。
時折水面から飛沫が跳ねた。目を凝らすと歪んだ影が動いていた。
夜は魚も良いかもしれない。
川から少し離れると、菜の花が咲き並んでいた。
その数本を拝借して、袋にしまった。
しばらく歩くと見えてきた木造の小屋に足を運ぶ。
買うものを整理して、小屋の中を一周する。
「いい天気ですね」
「ええ、まったく」
軽い挨拶を交わして、買ったものを袋に詰める。
小屋の外に出る。まだ日は高い。黄緑の新芽が眩しい。
今日は寄り道しよう。
少しだけ迷い、それでも足は止まらなかった。
眼鏡とマスクをしっかり着けたまま、袋を肩に下げ、木々の隙間へと足を踏み入れた。
光が、わずかに薄れた。
濃くなった土の匂いを一気に吸い込んだ。
近くで鳥達の鳴き声が聞こえた。
足を進めるたび、落葉が擦れて乾いた音を立てる。
小さな枝を踏み、軽い音が静けさに混じった。
川の音は、段々遠くなっていく。
見上げると、若葉の隙間からぼんやりと空が見えた。
薄い雲がのんびりと流れている。
一定間隔で木を叩く軽い音が耳に入ってくる。
視界の先で、木の高いところに啄木鳥が止まっているのが見えた。
目を少し擦って、歩みを進める。
枯葉に混じって、木の実の殻が地面に落ちていた。
近くに、小さな白い花が咲いている。
いつからここに咲いているのだろうか。
身を屈めて、花のすぐ近くまで顔を寄せた。
そよ風に揺られていた。
しばらくその花を見つめていると、くしゃみがしたくなった。
立ち上がって、木の幹に手を添えた。
くしゃみと共に風が吹いた。
硬くざらついた幹をそっと指先でなぞった。
木に背を向けて、開けた河原へ歩き出した。
少しずつ水の音が大きくなっていく。
森を抜けると、大きな光の粒が水の流れにそって揺れていた。
その眩しさに、一瞬目を閉じた。
まだ高いところにある陽に照らされながら、斜面を登っていく。
ポケットティッシュで鼻をかみながら、水の元を辿る。
この川はどこから始まっているのだろう。
上流に、小さく滝が見えた。
頂上だけを覗かせる、雪が残ったあの山から、繋がっているのだろうか。
入口の扉を開けて、荷物を置いてから髪と服を掃い、目薬を点した。
袋の中を整理して、食事の準備に取り掛かる。
コンロに魚をセットして、鍋に山菜を切り入れる。
斜めに差し込まれる陽は、ほんのりと赤みが掛かっている。
少しずつ赤くなっていく空を眺めながら、鍋に火をかける。
鳥の鳴き声が、少なくなってきた。
火を止めて、食器に盛り付けて、机に運ぶ。
空気が冷たく感じるようになってきた。
一枚上に羽織ってから、椅子に腰かけた。
「いただきます」
湯気の向こうに、川の匂いと、森の気配が重なった。
静かに口に運び、やがてすべてを食べ終えた。
食器を洗いながら、窓の外に目をやった。
木々の間に、少しずつ太陽が沈んでいくところだった。
遠くで烏の声が聞こえた。
川は、流れ続けていた。
空を見上げると、星が瞬き始めていた。
窓を開けると、冷たい風に体が震えた。
わずかな時間、静かな気配の中に立っていた。
窓とカーテンを閉め、干されていた洗濯物を畳んだ。
洗濯機に着ていた服を入れて、湯の中に、ゆっくりと沈んだ。
枠の向こうから冷たい空気が流れ込む。
ぼんやりと光を放つ月が見えた。
身体に残っていた一日の気配を、水に流した。
着替えて、寝室に移動した。
開いた本に目を落としたが、文字は頭に残らなかった。
栞を挟みなおして、テラスに続く窓を開けた。
川は静かに流れ続けていた。
昼間よりも澄んだ空気が、体を包み込んだ。
大きく息を吸って、吐いた。
そのまましばらく、星を見上げていた。
体が冷えて、テラスの窓を閉めた。
布団を被って、灯りを落とした。
静かな水音が、心地良く続いていた。




