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第0章 「声を写す者」




東京・杉並。冷たい雨が細かく降っていた。梅雨の長雨は都会の喧騒を一層重くし、都心にしては珍しく、裏通りの舗道に水たまりができていた。


古びたアパートの一室。三畳半の部屋に、タイゾウはうずくまっていた。畳の上には散らばった写真。戦場、難民、焼け焦げた兵士の遺体、瓦礫の中で泣く子ども――どれも彼がファインダー越しに「写した」ものである。


しかし、彼の顔に浮かぶのは誇りではなく、痛みだった。シャッターを押すたびに、彼の耳には「音」が届いた。断末魔の叫び、燃えさかる家のきしむ音、沈黙の中で響く母のすすり泣き。


タイゾウは「戦争の声を写す」ことを生業にしてきた。イラク、シリア、アフガニスタン、ウクライナ、そしてミャンマー。だが、この国の「戦争」について、自分はあまりに無知なのではないか――最近、そんな疑念が彼の中に湧き上がっていた。


ふと手に取った一枚の写真。それは数年前、沖縄・糸満で撮影した白黒の一枚だった。墓地の向こうに広がる海。無数の位牌。写っていたのは、祈る老婆の後ろ姿。彼女は何も語らなかったが、彼女の背中から、タイゾウは声にならない叫びを聴いた気がした。


その老婆は言った。「あんた、戦場の写真ばっか撮ってるようだけどさ。うちの村も、戦場だったのよ。」


そう、戦場は遠い国だけではなかった。足元にも、すぐそばにも。風景の皮膚の下に、まだ血が滲んでいる。だが、都市の喧騒はそれを覆い隠す。再開発、観光化、平和教育――それは確かに必要なことだ。だが、その光の裏で、「記憶」は日々剥がれ落ちていた。


その夜、彼は深夜まで、国会図書館のデジタルアーカイブを漁った。沖縄戦の記録、ペリリューの戦闘報告、第二海堡の設計図、旧日本軍の飛行場配置図――画面に浮かび上がる断片は、過去と現在をつなぐ糸だった。


やがて、彼のノートには、点のように散らばった地名が線となって繋がり始めた。


「安里52高地、第二海堡、ペリリュー、トーチカ、飛騨山中の航空機残骸、旧滑走路跡――」


その線をなぞるようにして、彼は旅に出ることを決めた。


出発は、羽田空港第2ターミナルの早朝。構内にはスーツ姿のビジネスマン、子どもを連れた家族、リュックを背負った観光客が行き交っていた。その中に、無言のまま機材用ハードケースを転がす中年の男が一人。タイゾウだった。


彼のカメラは、デジタルではない。いや、デジタルも使うには使う。だが、彼がいつも首にぶら下げるのは、ペンタックス67の古びた中判フィルムカメラだった。重く、かさばり、面倒。しかし、それでしか捉えられない「時間」があると、彼は信じていた。


沖縄行きの搭乗ゲートへ向かう途中、ふと、タイゾウは出発ロビーの一角に目をやった。


そこには、戦後間もない頃の羽田空港の写真が展示されていた。まだ滑走路も舗装されていない、木造の建物と泥の中に立つ人々の姿。その中央に、一人の少年が写っていた。焼け跡に立つような姿で、カメラを見つめていた。


タイゾウは立ち止まった。「俺は、あの少年の見たものを、写しに行くんだ。」


那覇空港に降り立ったタイゾウを迎えたのは、南国特有の湿り気を帯びた空気だった。空港からモノレールに乗り、「おもろまち」へと向かう。車窓には新しい高層ビル、観光客向けの看板、デューティーフリーの広告が流れるように過ぎていった。


だが、彼の目は、遠くに見える微かな丘を捉えて離さなかった。安里の52高地――「シュガーローフ」。地図ではただの小高い場所。だが、資料によれば、あの小さな丘を巡って、数千の命が失われた。米軍が「地獄の丘」と称した場所。


その足元には、今や片側4車線の幹線道路が走り、小学校とショッピングモールが肩を並べている。


彼は、そこで初めて、シャッターを切らなかった。


立ち尽くしたまま、目を閉じた。そして聞いた。風の音に紛れて、何かが語りかけてくるような気がした。記録されなかった声。語られなかった死。聞き届けられなかった嘆き。


「誰かが、それを写さなければならない。」


初日は、撮影はせず、ただ歩いた。安里の丘を一周し、丘の下の住宅街を抜け、かつての米軍進撃ルートを想定して那覇市街へ。途中、道端の石垣に「1945年6月、ここで戦闘があった」という小さなプレートを見つけた。


誰も気に留めない。だが、彼はそこにもファインダーを向けた。石垣の苔、小さな亀裂、その向こうにある「時間」。


夜、ホテルの部屋で、彼は一枚の写真をポラロイドに焼いた。薄暗い夕暮れ、白い水道タンクと開発途中のビルの狭間に、ぽつりと浮かぶ丘。


その写真を見つめながら、彼は独り言のように呟いた。


「明日から、本当の旅が始まる。」



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