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戦国時空漂流記  作者: 愉易
第一部:散りゆく風
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重きは誉れ

(三河国 岡崎城下・未明)


潮の匂いを含んだ風が松林を渡り、夜明け前の冷気が野営地を包んでいた。中村健二は濡れた草の上で膝を抱え、火番の橙色の光を見つめていた。甲冑の擦れる音、遠くで馬が嘶く。戦が終わった夜は、いつも静寂の中に死者の気配が残る。


足元には布で包んだ医療袋。乾いた血が染み込み、重さが増している。白布の包帯、酒で洗った縫合針、貝殻で作った即席メス——部活の救護係だった頃の自分には想像もしなかった道具だ。


* * *


(岡崎城 本丸下医療棚・早朝)


薄明かりの中、健二は傷病兵が並ぶ藁床の間を歩いた。昨夜遅くまで止血した兵士の様子を確認するためだ。三番床で眠る青年の包帯をそっと外す。膿は出ていない。安堵の息が漏れた。


「若造、早いな」


背後で低い声。医療役の老人・田鶴玄斎が松明を掲げて立っていた。「朝餉前に巡回とは関心だが、衛生水の補充を忘れるな」「はい」


玄斎は灰色の眉を寄せ、「もうすぐ殿が視察に来る。床の血を拭き、武具を片付けておけ」と命じた。


(殿——松平元康。歴史の教科書では徳川家康)


健二の胸が強く脈打つ。偉人が生身で目の前に現れる。それだけで歴史が紙の上から剥がれ落ちる音がした。


* * *


(藩医救護所・午前)


大広間の畳に兜と鎧が整然と並び、兵たちが俸禄袋を受け取って退出していく。玄斎と健二も列に並び、やがて松平元康が家臣を従えて入った。若いが眉間の皺が深く、戦の疲労が刻まれている。


床に伏す数名の捕虜兵——服は泥と血で固まっているが、紋は今川の笹竜胆。元康は止まり、玄斎に問う。「命はどうだ」


「二名は助かりましょう。一名は腹を深く突かれました。夜を越せれば奇跡」


元康は小さく頷き、視線を横たわる少年兵へ向けた。「年端も行かぬな」


家臣が前へ出た。「殿、捕虜への情けは兵の気を削ぎます。見せしめに討ち果たすべきかと」


健二の背筋が冷えた。玄斎が横目で見た。元康の口元が僅かに動く。「情けとて刃。だが今は示す刻か」


家臣が太刀を抜き、少年兵の髪を掴んで引き起こす。健二は踏み出していた。「お待ちください!」


広間が静まり返る。自分でも驚くほど大きな声だった。健二は床に手を突き、額を畳に擦りつけた。「傷は浅い。助かります! 薬湯と縫合を許していただければ——」


家臣の視線が氷のように刺さる。元康は歩み寄り、健二を見下ろした。「名は」


「中村健二、流浪の医者見習いです」


「医者見習いが処断に口を出すか」


声は静かながら刃を含んでいた。健二は震えながら言葉を探す。「命を救えば、恩義が生まれます。敵を憎むより、恩で縛る方が兵は集います」


広間の空気が揺れた。元康は目を細め、「面白いことを言う」と呟いた。


* * *


(医務棚・正午)


玄斎は苛立ったように包帯を煮沸鍋へ放り込んだ。「余計なことを。殿の決断に口を挟むとは打首ものだ」


健二は俯きながらも、「でも……」と言いかけた。玄斎は息を吐き、「だが通った。殿は人を見抜く。せいぜい助けてみせよ。失敗すれば首は飛ぶ」


* * *


(救護所 緊急処置・午後)


少年兵の腹部に酒で湿した布を被せ、健二は玄斎から受け取った骨針を炙った。止血には焙った藍灰と真綿を混ぜた粉薬を創縫の隙に押し込み、血を吸わせる。焦げた草の匂いが鼻を刺すが、効果は確かだ。汗が額を流れる。剣道の試合の比ではない緊張。出血を押さえ、針を通す度に少年の体が跳ねる。「痛い……」


「しっかり。名前は?」


「……勝吉」


「勝吉、呼吸を数えて。いち、に——」


「……ありがと……先生……」少年の掠れ声が震えた。健二は針を結びながら小さく頷いた。


未来の自分の安全も、歴史の大河も、この命の重さには敵わなかった。


* * *


(武具蔵裏庭・夕刻)


処置が終わった頃、赤い夕陽が庭を染めていた。健二は血の付いた手を井戸水で洗い、疲労で腰を落とした。玄斎が縫合具を片付けながら問う。「覚悟はできているか」


「はい」


「ならば最後の儀を見届けよ」


裏庭には斬首台。捕虜二名が膝を突いていた。太刀が閃き、重い鈍音と共に二つの首が転がる。乾いた土が黒く濡れ、残された胴が無抵抗に傾いた。少年勝吉は別の床に安置され、深い眠りに落ちている。家臣が太刀を振り上げた瞬間、健二は視界をそらした。


(救えたのは一人……)


* * *


(岡崎城 本丸廊下・夜)


燭台の火が壁の武具を照らす。元康に呼び出された健二は、足の震えを止められなかった。廊下の先、襖が開き、家臣が名を呼ぶ。「中村健二、入る」


元康は机上の軍図を見ていた。「勝吉とやら、助かるか」


「血が止まりました。感染しなければ……」


「厭離穢土欣求浄土——乱世を離れ、平らかな世を求める。そのためには恨みより恩で縛る方が早い」


健二は顔を上げた。元康の目は疲労の奥に静かな火を宿している。「そなた、そのために使えるか」


「……はい」


元康は頷き、玄斎に目を向けた。「戦が続く。医療兵を増やす。玄斎、若造を筆頭に据えよ」


健二は言葉を失った。玄斎が渋い表情で頭を下げる。「御意」


* * *


(救護所仮室・深夜)


灯芯の明かりの下、勝吉の寝息が静かに続く。健二は包帯を替えながら、その小さな手を握った。武士でも農民でもない、一人の命。


(戦の中で何を守るか——)


窓外で風が吹き、乾いた笹が擦れた。(武志、雪……僕は剣は振れない。でも命を守る刃になれる)


夜空には雲が流れ、わずかに星が覗いていた。

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