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戦国時空漂流記  作者: 愉易
第一部:散りゆく風
8/20

静かなる足音

(甲斐国・信濃国境 山中潜路・明け方)


夜露を含んだ苔が靴底に吸い付き、田中美紀は地面と一体になるように伏せた。遠くで鋲打ち草鞋が石を踏む音。武田軍の斥候一隊が夜明け前の巡察を終え、尾根を越えて去っていく。呼吸を押し殺しながら、彼女は数を数えた。


(一、二……六。戻った。交代まで二刻)


恵梨香と寺子二人を岩穴に隠して三日。彼女は情報と食糧を確保するため、一人で斥候路を張っていた。竹林の陰に設けた罠に野兎が掛かり、皮を剥いだ肉を荷紐で締める。鉄臭い温かさが掌に広がるが、心はさざ波一つ立たない。


(生き残る=数えて動く)


* * *


(岩穴の臨時隠れ家・午前)


恵梨香は高熱でうわ言を呟いていた。襲撃の際、岩に肩を打った傷口が腫れている。美紀は湯を沸かし、ヨモギと乾いた松葉を煎じて湿布を作った。寺子のひとり、八歳の鴻太が薪を運ぶ間、もう一人の少女・小春は九九を唱えて気を紛らわせている。


「さんしじゅうに、さんごじゅうご……」


声は震えてもリズムを守る。雪が教えた数え歌だ。美紀は細い微笑を浮かべ、「偉いね」と囁いた。


だが薬草と兎肉では限界がある。恵梨香の熱が下がらなければ移動は不可能。美紀は地図のない山中で次の行動を計算した。


(最短距離で武田陣の野戦医所へ)


武志が捕らわれている可能性が高い陣。救護所なら薬と安全がある——敵軍でも。問題は接近手段。制服は目立つ。捕虜扱いを避けつつ、負傷者として取り込まれる演出……。


(傷を作る? いや、自分が動けなくなる)


思考を巡らせるうち、鴻太が怯えた声を上げた。「誰か来る!」


* * *


(山腹の杉林・正午)


足音は速い。複数。美紀は子供たちを岩穴奥へ押し込み、恵梨香には短刀を握らせた。「絶対に声を出さないで」


自分は岩壁をよじ登り、上の枝に身を潜める。落ち葉が滑り、手に小石が食い込むが痛みは意識の外。数呼吸後、武田の赤備えとは異なる浅葱色の半胴を着た三人が現れた。背旗に「上」とある。


(上杉勢? こんな南まで?)


会話が聞こえる。「学生服を着た怪しい娘を見たと聞く。頭目が珍しがっておられる」

もう一人が応じた。「見つけ次第、春日山へ報せよと命が出ている」


美紀は額を冷たい汗が流れた。情報が広がっている。制服はもう保護色ではなく、標的の印。


兵たちは岩穴入口を見逃し、沢へ降りていった。尾けるか、だったら子供を置くのか。判断のルーレットが高速で回る。


(雪は子供たちと西へ向かった。上杉軍が南下……となれば交差点で衝突の危険)


武志ラインと雪ラインの間に自分がいる。情報役を果たすには、とにかく合流が急務——。


* * *


(岩穴・夕刻)


恵梨香の熱はまだ高い。だが脈は保たれている。美紀は胆決した。「夜、私が武田陣へ行く。薬を手に入れて戻る」


「置いていかないで……」恵梨香の声は掠れている。


「戻るために行くんだ。必ず」


寺子たちには数え歌と交代で湯を差す手順を教え、十五分ごとに恵梨香を揺り起こすよう指示した。残る兎肉を焙り、干し草で包んで渡す。「これで一晩は持つ」


子供たちの瞳は恐怖で潤んでいたが、雪の教えを守るように「いち、とう、ひゃく、せん……」と震える声を合わせた。


* * *


(甲斐国側 武田陣斥候路・深夜)


満月が雲間を照らし、兎が跳ねる影が地面を走る。美紀は制服を裏返し、血染めの布で腕を縛り、僧衣の切れ端を肩に巻いた。転倒した負傷農民を装うため、額に泥と鶏血を塗り、呼吸を浅くして路傍に横たわる。


草むらで待つ時間は永遠にも似ていた。だが夜半過ぎ、槍の石突が土を叩く音。松明の揺らぎの中に、赤い旗指物。「風林火山」。


「誰ぞ! うめき声がする!」


計算通り。美紀はうっすらと目を開き、掠れ声で「くすり……助け……」と呟いた。足軽が近づき、痩せた顔を覗き込む。「娘か? 傷が深いぞ!」


担架替わりに槍を二本渡し、上着を結んで即席の布台に乗せられる。痛みは嘘のはずが、緊張で胸が軋んだ。


(侵入成功……次は薬)


* * *


(武田陣 後方救護所・未明)


薄布の帳の中、油灯が揺らめく。負傷兵の呻き、腐敗した血の匂い。美紀は担架から降ろされると、侍医らしき男が縫合を終えたばかりの手を洗いながら寄ってきた。


「女子……? 何故こんな所へ」


美紀は息を震わせ、嘘と真実を混ぜた。「山道で賊に襲われ、妹も子供も……薬が必要で……」


侍医は疲れた目で常備薬箱を指した。傍らには十四歳ほどの見習い医師・湯之助が震える手で血塗れ包帯を捨てていた。


「乾燥甘草と紫根膏しこんこうが少し残っておる。熱取りには葛根湯も──だが貴様らの分まで回す余裕はないわ」


美紀は立ち上がり、頭を下げた。「働きます。何でも」


侍医は舌打ちした。「なら包帯を煮ろ。熱湯で十五呼吸。次の手術が来る」


* * *


(救護所任務・黎明)


煮沸した帯を干す。傷口を洗う。嘔気を抑えつつ、彼女は全ての手順を正確にこなした。剣道の試合で武志が手を切った時、保健室で見た包帯交換を思い出しながら。


侍医は黙って葛根湯の袋と紫根膏の小壺を差し出した。包む布には武田家の菱紋が薄く染め抜かれていた。


「持って行け。ただし、二刻は戻ってくるな。患者が怖がる」


報酬。美紀は深々と頭を下げた。


* * *


(山境戻り道・朝靄)


薬を懐に、山道を駆ける。夜が明ける前に岩穴へ戻らねば。だが峠で櫓を築く足軽たちが早くも活動を始めていた。制服は裏返しでも布の質が違う。目立つ。


(別ルート——川沿い)


沢べりのヌルヌル苔を踏み、滑落しそうになりながら下る。靴の底が剥がれかけ、岩で擦り切れた足が悲鳴を上げる。しかし時間はない。


(恵梨香が——)


その時、谷底で槍の火打金が閃いた。上杉斥候。二日前の兵だ。視線が交差する一瞬、美紀は身を躱そうとしたが、足が滑った。


「待て!」


叫びと同時に投げ槍が飛ぶ。美紀はとっさに巻いた僧衣を広げて身を縮め、槍は布を裂いて後ろの木に突き刺さる。薬が転がり落ちそうになり、彼女はそれを抱えて転がり、岩陰に隠れた。


(薬は死守)


息を整える間もなく、足音が近づく。二人。逃げ切れる距離ではない。選択肢は——。


彼女は懐から小瓶を取り出した。悠斗の遺品、臭素入りの薬品。木に裂けた槍の柄へ布を巻き付け、小瓶を砕いて染み込ませる。火打石。きらりと火花。


ゴッ。炎が槍柄を走り、白い煙が立ち上る。斥候が咳き込み、視界を失う。美紀は槍を蹴り飛ばし、谷を駆け上がった。


* * *


(岩穴前・朝)


息を切らして戻ると、子供たちが入り口で見張りをしていた。「お姉ちゃん!」


美紀は微笑む暇もなく、恵梨香に薬を飲ませ、紫根膏を肩の腫れに塗った。熱は少し下がり、汗が額に浮かぶ。


「痛いけど……暖かい」恵梨香が囁く。


「治る合図だよ」


美紀は灯りのない洞内で、火種に微かな熱を残す炭を確かめた。残る臭素瓶はあと一本。火炎と煙の武器。次の危険を乗り切る切り札。


* * *


(岩穴出口・正午)


恵梨香はまだ歩けないが、背負えば移動は可能。子供たちも準備ができている。小春・鴻太・五助、三人の寺子が薄い荷物を背負い、互いの手を握る。


美紀は山向こうの雲を見上げた。甲斐と信濃の境界。その先に武志と雪。道は遠いが、数え歌のリズムは続く。


「にいちがに、ににんがし……」


子供たちが小さく声を重ねる。美紀は足元の影を踏みしめて頷いた。静かなる足音は、やがて大地を揺らす嵐の前兆になる。

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