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戦国時空漂流記  作者: 愉易
第一部:散りゆく風
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学び舎に燃ゆる焔

(信濃国 光泉寺・早朝)


木魚の柔らかな音が霧の境内に溶け、澄んだ鐘の余韻が杉木立を震わせた。佐藤雪は庫裏の縁側に正座し、膝の上で細筆を構える。封蝋を解かれた巻物には桜の校章が淡く光り、慧玄和尚の指示どおり、古語の注釈を書き写す課題が始まっていた。


(「言上ごんじょう」「勘定」……現代語の用法と全く違う)


筆先が微かに震える。墨の匂いが朝の冷気に混ざり、寺裏の竹林から鳥の囀り。昨日までの逃避者が、今日は見習い書記生だ。違和感と安堵が入り混じる中、雪は古文書の端に小さく数学の式を走らせた。


「和算の術まで用いるとは、珍しき娘子おなごよの」


背後で慧玄が笑う。雪は驚きで筆を止めた。「す、すみません。つい癖で……」


「戒めはせぬ。ただ、知識は活かしてこそ。ゆめ独り占めはするなかれ」


和尚はそう告げると、竹の筒を差し出した。「寺の子らに読み書きを教えてくれ。礼は温飯あたかいめしで十分であろう?」


雪は目を瞬かせ、頷いた。温かい食事と学術環境——生き残りだけが目的だった昨日とは別の光が差す。


* * *


(寺子屋講堂・午前)


寺の一隅に設けられた小講堂には、近隣から集まった子供たちが藁座布団に並んで座っていた。年齢は七歳から十三歳ほど。眉間に煤を塗る子、着物の袖に穴が空いた子。雪が板戸を開けると、素朴な瞳が一斉にこちらを向いた。


「今日から、数と読み書きを教えます」


現代標準語は封印し、和尚から学んだ古語に近い言い回しで挨拶する。子供たちは戸惑いながらも頷いた。雪は墨板に「一、十、百、千」と書き、「いち、とう、ひゃく、せん」と読み上げる。


子供たちが後に続く。声はぎこちないが、雪の胸に温かいものが満ちた。(生徒会で後輩を教えた感覚、懐かしい)


午後には簡単な算盤の足し算を披露し、子らの瞳が星のように輝いた。寺内のくりやで修行僧が炒った麦と湯気立つ粥を振る舞い、雪は湯飲みを手に子供たちの笑い声を聞いた。


* * *


(光泉寺 本堂裏・夕刻)


夕陽が障子を朱に染めるころ、和尚に呼ばれた雪は本堂裏の書庫へ向かった。杉の扉を開けると、古びた経典の匂いが胸に迫る。棚の奥に、小さな桐箱が置かれていた。


「これは先代が守りし“天目録てんもくろく”。戦乱で失われし兵法と天文の書だ」


和尚は慎重に箱を開け、竹簡を一本取り出した。「北斗の動きで暦を測る術が記されておる。貴女の算術ならば読み解けよう」


雪は手袋越しに竹簡を受け取り、刻まれた星図に見入った。現代の数学と照合すれば、当時の誤差を補正できる。航海術、軍略、農作暦——応用範囲は無限。


「ありがとうございます。必ず役立てます」


和尚は頷きつつも、険しい目で廊下の奥を見やった。「されど、世は乱世。火急の客人来たるやもしれぬ」


* * *


(光泉寺 山門前・日没)


空が浅紫に染まり始めた頃、山門下で怒号が上がった。雪が駆け寄ると、編笠を被った男たちが寺男を突き飛ばして境内に乱入していた。腰に短刀、手に松明。


「食糧を差し出せ! 隠し持つと知れておる!」


山賊か、あるいは乱波らっぱと呼ばれる兵糧略奪集団か。雪は背筋を冷たいものが走るのを感じた。子供たちが悲鳴を上げ、僧が数珠を鳴らして立ちふさがるが、男は容赦なく杖で殴りつけた。


雪は竹簡を抱き、崩れ落ちる寺男を支えた。「和尚を呼んで——!」


男の一人が雪を見つけ、口角を吊り上げた。「良い娘だ。身代金になるわ」


雪は一歩下がり、巻物を袖の中へ滑り込ませた。その瞬間、背後から寺子の声。「先生!」


子供の叫びに男が振り向き、松明が振り上げられる。雪は無意識に前へ出て、男の手首を両手で掴んだ。松明が落ち、乾いた床板に転がる。火花が藁蓑に燃え移り、炎が跳ねた。


(まず水——)


思考より先に体が動く。雪は桶を探すが、山門近くに井戸はない。燃え広がる前に消火は不可能。逃げ道。子供たち。竹簡。


「皆、庫裏へ走って! 覚えた数のうたを歌いながら!」


合図代わりのリズムに子供たちが声を合わせ、「いち、とう、ひゃく、せん!」と走り出す。男たちが追おうとするが、雪は燃える松明を蹴り上げ、火の粉を浴びせて進路を塞いだ。


「女狐め!」


短刀が閃き、袖が裂ける。雪は肩越しに走り、頭上のはりを思い出した。入り口の梁と柱の距離。跳躍角度。


(θ = arcsin(h/d) …できる!)


雪は柱を蹴って跳び、梁をつかみ、一瞬のうちに反対側へ着地した。男たちが唖然とする隙に、雪は子供たちの後を追った。


* * *


(庫裏裏庭・宵)


庫裏の裏庭には細い抜け道がある。雪は子供たちを並ばせ、数を確認した。全員無事。しかし火の手は本堂に燃え移り、炎と黒煙が夜空を染める。


和尚が駆け寄り、息を切らせた。「逃げ道は西の沢へ通じる。私も後から参る」


「和尚は?!」


「寺は私が守る。そなたは星を守りなさい」


竹簡を抱えた雪の腕を軽く叩き、和尚は燃え盛る本堂へ戻っていった。炎の中に沈むその背中を見つめ、雪は唇を噛んだ。


(星を守る——知識を守る。そして、人を守る)


* * *


(信濃国 西の沢道・夜)


山道を提灯もなく下る。子供たちが寒さと恐怖で泣き出しそうになるたび、雪は声をかけた。「九九の段を覚えているね。二の段!」


「にいちがに、ににんがし……」


震える声を重ねることで彼らは歩みを守った。雪もまた心の中で星図を反芻し、恐怖を数式に変換することで崩れそうな精神を支えた。


進んだ先の沢には丸木橋が掛かり、水音が暗闇を深く響かせる。橋を渡りきる頃、背後で爆ぜるような轟音が山に木霊した。本堂の屋根が崩れ落ちたのだろう。


「先生……和尚さまは?」


最年少の子が涙で声を震わせる。雪は膝を折り、目線を合わせた。「星は見えなくても空にある。和尚さまも同じ。私たちが学んだことが生きている限り、和尚さまも生きている」


子供は小さく頷き、雪の袖を握った。


* * *


(山中仮宿・深夜)


沢を越えた岩陰に、木の枝と蓆で簡易のシェルターを組む。火は出せない。雪は竹簡を胸に抱き、子供たちを輪の中へ入れ、体温を分け合った。衣の下で脈拍が乱れ続ける。火の海に残した和尚。巻物の秘密。武志たちの行方。


(泣くな。考えろ。次はどうする?)


星図は北斗七星の回転で時刻と方位を測る術。これがあれば移動と計画の精度が飛躍的に上がる。だが、まず子供たちを安全な地へ移す必要がある。


(武田領へ入れば、武志と再会できる確率が上がる。次の峠は——)


雪が思考を進める間に、子供たちは疲労で眠りに落ちた。雪は最後に空を見上げた。焔の光が届かぬ闇に、北斗七星が静かに瞬いている。


「星は見えなくても、そこにある——」


胸の中で小さく呟き、雪は竹簡を抱えて目を閉じた。


* * *


(信濃国・夜明け前)


薄明の空気が頬を撫でる。遠くで鳥が啼き、森が生き返る気配。雪は目を開け、子供たちを起こす前に巻物を広げた。星図の線をなぞりながら、今日進むべき方角を定める。


(私は学者であり、教師であり——そして戦略家になる)


薄い雲が東雲を染め、森の向こうに新しい一日が芽吹いた。雪は竹簡を巻き、静かに立ち上がった。

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