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戦国時空漂流記  作者: 愉易
第一部:散りゆく風
5/20

古土に落ちる初血

(信濃国 山境の原生林・未明)


薄闇の杉林を、田中美紀は膝を抱えてやり過ごした。頭の奥で鼓動が岩のように響き、指先は夜露に濡れて冷たい。前夜、追手の武士を石で殴り倒してから、時間の感覚は霧の中に置き去りにされたままだ。


(震えるな。匂いが散る)


自分に言い聞かせ、息を鼻から細く吐く。早朝の風が高い枝を揺らすたび、兎か小鳥の影が跳ね、心臓が喉元まで競り上がる。制服の袖には茶色く乾いた血痕がこびりつき、夜露が滲んでまた濃い紅に戻っていた。


* * *


(山間の獣道・明け方)


森を抜ければ状況が見える。そう考え、斜面を慎重に下りる。靴底が湿った落葉を滑り、木の根に指をかけて体を支えた。視界の先に細い谷が口を開き、川霧が白く漂っている。


谷底の浅瀬を渡ると、民家らしき茅葺き屋根が見えた。煙が上がっておらず、人の気配はない。美紀は姿勢を低くして近づき、戸口の格子穴から覗き込む。誰もいない。かまどの灰は黒く冷え、最近は使われていない。


(避難したのか、それとも——)


玄関脇の木桶に、片栗粉のように白い米糠が残っていた。美紀は指ですくい、舌先に乗せる。ほのかな甘み。胃袋がきしむが、匂いで米の鮮度を確認するだけに留めた。背負うものが増えれば逃げ足が鈍る。


戸を離れようとした瞬間、遠くで鉄がぶつかる甲高い音がした。続いて怒号。美紀は咄嗟に家影に身を沈め、息を殺した。


* * *


(谷あいの農道・朝)


陽が昇り始めると、白霧が薄れ、音の主が見えた。十数名の武士が泥だらけの鎧を軋ませ、傷ついた仲間を担いでいる。その後ろを追うように、粗末な装束の集団——おそらく野盗か落武者——が石槌や短刀を構え、小走りで迫っていた。


人数はわずか五名、手には鎌と短刀。だが十分に殺意を帯びた鋭さを持つ。


「退け退けえっ!」


武士の一人が振り向き、槍を大きく払う。だが足場の悪い畔で踏み外し、槍が空を切った隙に野盗が飛び掛かる。刃が鎧の継ぎ目を探るように差し込み、血飛沫が朝の光に散った。


美紀は喉奥で悲鳴を呑み、耳を塞ぎたくなる衝動を押し殺す。これが歴史の暴力。教科書の行間に隠れていた、名もなき戦の現場。逃げ道を探そうと振り返りかけたとき、斜面の上で黄色い布が翻った。


制服の袖——現代のポリエステルが、日差しを受けて不自然な光沢を返す。美紀のクラスメイト、園田恵梨香だった。


園田は文化祭でパンケーキ屋のレジ係を任され、笑顔で声出しをしていた少女——その面影は恐怖に塗り替えられていた。


彼女は足を滑らせ、転げ落ちかけ、悲鳴を上げた。


「恵梨香、伏せて!」


声が漏れた。武士と野盗の視線が一斉に木立へ向く。美紀は瞬時に走り出し、恵梨香の腕を掴んで林へ引きずり込んだ。槍の穂先が背後で木を抉る鈍音。落枝が宙を舞い、森に新しい匂い——鉄と血と汗——が混ざった。


「立てる?」


恵梨香は震えながら頷き、涙で濡れた頬を拭った。「み……美紀? 助け——」


「静かに」


美紀は耳を澄ませる。追手が入って来る足音は二つ。木陰を縫って逃げれば振り切れる。だが恵梨香の足取りは遅い。体育をサボりがちだった彼女は、薮を越えるたびに引きずられた靴の踵を鳴らした。


(このままじゃ全員捕まる)


思考が冷たい計算に切り替わる。追跡者の速度、斜面角度、足場の密度——。


「恵梨香、あっちの倒木の下に隠れて」


「やだ、置いていかないで!」


「大丈夫、囮になって散らす。すぐ戻る」


嘘だった。戻る余裕はない。美紀は恵梨香を倒木の陰に押し込み、自分は逆方向へ走った。枝が頬をかすめ、血が滲むのを感じても速度を落とさない。心臓よりも先に脳が跳ね上がり、生存確率を刻一刻と更新する。


森を抜けた先に、小さな清流があった。岩肌を滑る水音が、後ろから迫る気配を掻き消す。美紀は水に飛び込み、下流へ体を伏せて流された。水の冷たさが肺を絞り、意識が瞬時に冴える。


* * *


(清流下流・午前)


岩棚の下で息を潜め、音を探る。足音は聞こえない。水面に映る空は、雲一つなく透き通っていた。美紀は岸に這い上がり、濡れた髪を束ねる。手が泥と血で汚れているのに気づき、川水で洗うと赤黒い水が渦を巻いた。


(恵梨香……)


戻るべきか否か。逡巡が胸を締め上げる。だが銅鑼のような腹の音が現実を引き戻した。生きる燃料が尽きかけている。川岸のヨモギを千切り、葉脈を噛み、苦味で空腹を誤魔化す。


上流から漂ってくる木片に、血糊がこびりついていた。その向こうに、人——いや、浮かんでいる。制服の袖が水に揺れ、顔は川底に沈んで見えない。


美紀は震える膝を押さえ、流れに飛び込んだ。肩まで浸かり、手を伸ばす。掴んだ腕は冷たく、硬い。引き寄せると、短い茶髪が水を滴らせ、閉じた瞼の下から血泡が浮いた。


「……ゆうと……?」


二年B組、成瀬悠斗。文化祭の準備で電気系統を担当していた、無口な男子。胸元には浅い斬創が二つ、致命傷は脇腹の深い突き傷だった。制服のポケットから破けたレシートが覗き、回路図の走り書きがにじんで読めない。


足が震えた。頭が回らない。だが生き残るための手順だけは動いた。美紀は悠斗の首を確かめ、脈が無いことを確認すると、目を閉じてひと呼吸置いた。彼のベルトを外し、金属バックルを手に取る。


(遺体を利用する……最低だけど、生きるため)


バックルを石で叩き、角を鋭利にする。即席の皮剥ぎナイフ。


指先が痺れるほど叩き続け、数分かけて金属の縁を研ぎ上げた。その間にも水音は冷たく、神経が研ぎ澄まされる。


川砂を詰めた靴に滑り止めを作り、悠斗の空のリュックを背負う。中には工具と乾いたタオル、そして理科室から拝借した小瓶が数本——臭素の刺激臭が微かに残る。美紀は瓶を選別し、火種に使えそうなものを布で包んだ。


冷たい風が背を撫でた。太陽は既に天頂へ近づき、森の影が短くなる。時間がない。美紀は川辺に石を積んで小さな塚を作り、悠斗のリュックから取り出した学生証を石の下に挟んだ。


両掌を合わせ、合掌して一礼する。呼吸と共に胸骨が軋み、冷たい風が頬を撫でた。


「ごめん……でも、絶対生き延びてみせる」


声は震えたが、涙は出なかった。泣く暇はない。美紀は腰を伸ばし、森の奥へ足を向ける。


* * *


(山道分岐・午後)


獣道が三方に分かれる地点に出る。北は峠、東は谷、西は開けた尾根へ続く。地図など無い。だが太陽の位置と川の流れから、北へ進めば甲斐の主要街道に出ると推測できた。


(甲斐は武志が捕まった地域……合流の可能性あり)


決断しかけた瞬間、遠くで銃声のような破裂音が木霊した。火縄銃か。音の方角は西。続けて複数の悲鳴。胸が縮む。(恵梨香?)


迷いが心を裂いた。生存確率は北へ進む方が高い。しかし仲間を見捨てた罪は、一生まとわり付くかもしれない。


美紀は息を吐き、泥道に棒で線を描いた。右へ行けば「自己保存」、左へ行けば「仲間救出」。棒を投げ、先が指したのは——左。


「……やるしかない」


* * *


(尾根道・夕刻)


赤い夕陽が山際を染める頃、美紀は灌木の影から谷を見下ろした。焦げた草と黒煙、倒れた馬、人の呻き。野盗らしき数名が倒れ伏し、恵梨香が崖寄りで泣き崩れている。その前に立つのは、甲冑をまとった若い武者——背中の旗に「信」文字。


「女子を連れて行け。傷は浅い」


命じた声は低く落ち着き、刃を拭う仕草に迷いがない。配下の足軽が恵梨香を引き立てる。美紀は矢継ぎ早に観察する。武者の陣笠に描かれた巴紋、袖の布に縫われた片喰——武田家の縁者か。


(武志がいる陣と同じ?)


しかし考えるより先に、武者が恵梨香の髪を掴み顔を上げさせた瞬間、恵梨香が悲鳴を上げた。美紀の体が勝手に動いた。斜面を転げ落ち、岩を蹴り、木の根を掴みながら一直線に谷へ滑り込む。


「離れろ!」


叫びは既に空中に投げた石と同時。鋭く砥いだベルトバックルの刃が武者の頬を掠め、血が飛んだ。周囲が一斉に振り返る。美紀は恵梨香の手を取り、谷底へ走った。


「追え!」


足軽たちの怒号。だが谷底はぬかるみと倒木で足場が悪く、重い鎧は速度を殺す。美紀は計算した。距離、体力、日没までの時間。逃げ切れる。


「大丈夫、走って!」恵梨香を先に押し出し、自分は後ろを振り向く。追手は三人に絞られ、槍を構えて迫る。


美紀は川砂入りの靴で急停止し、斜めに生えた枝を踏み台に飛んだ。身体が空中で回転し、即席ナイフが月光を掴む。刃が槍の柄を裂き、足軽の手を切り裂いた。二人目が躊躇した隙に、恵梨香が投げた小石が兜に当たり、鉄音が鳴る。


(いいタイミング)


美紀は地面に着地し、恵梨香の手首を掴んで再び走った。追手の足音は次第に遠ざかり、森が夜の色に沈んでいく。


* * *


(山中の洞窟・夜)


洞窟と言っても、岩陰に風で削れた浅い窪み。焚き火はできない。暖を取る代わりに、二人は互いの体温で寄り添った。恵梨香は震えながら美紀の袖を掴み、ようやく声を絞り出した。


「さっき……悠斗が……流れて……」


美紀は頷く。「見た。彼はもう……」


言葉が途切れた。恵梨香の涙が静かに落ちる。美紀は彼女の背中を撫で、声にならない言葉で慰めた。


(私の手も血で汚れてる。誰を守り、誰を見捨てるか——もう選択は始まってる)


洞窟の外で、フクロウが一声鳴いた。風が針葉樹の香りを運び、遠くの戦太鼓がかすかに夜気を震わせる。美紀は胸の奥で小さく誓った。(武志、雪、みんな……私も牙を研いで生き残る。もう影じゃない)


夜空の星は冷たいが、確かに光っていた。

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