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戦国時空漂流記  作者: 愉易
第一部:散りゆく風
3/20

時の嵐

枯葉の冷たさが頬を刺して意識が浮上した。田中美紀は視界を覆う暗緑色の葉の向こうに、曇った朝空を見た。湿った匂い、遠くの鳥の声。腹ばいのまま数秒呼吸を整えると、文化祭の喧噪は夢のように遠かった。


手探りでメガネを見つけ、割れていないことに胸を撫で下ろす。だが次の瞬間、斜面の下で鉄がぶつかる乾いた音と、男の怒号が炸裂した。


(静かに……)


美紀は忍ぶように背を起こし、シダの隙間から下を覗いた。泥と草の斜面を挟んで、鎧武者三人が槍を振るい、粗末な布を纏った男を追い詰めている。武者の腰の旗には「甲」――甲斐国の略か。


ざく、と刃が肉を裂く音。男が倒れ、血が黒い地面に広がった。美紀は手で口を押え、吐き気を堪えた。


(私は――生き残る)


胸奥に冷たい決意が芽生える。図書室で読んだ『甲陽軍鑑』の頁が脳裏にめくれる。生き残るために、影だった自分を捨てる覚悟を決めた瞬間だった。


* * *

(甲斐国 山中・朝)


乾いた風が頬を撫でた。神崎亮太は体を起こし、目の前の広大な大地を見回した。金色に実った麦畑、遠くに低い山並み。空は抜けるように青い。


「ここ……どこだ?」


ジャージの袖で汗を拭い、遠くの農民風の男に手を振る。しかし男は怯えた目で亮太を見返し、一目散に畑の奥へ走り去った。


(言葉が通じねぇ?)


山本や雪の姿はない。だが亮太の胸は奇妙な高揚に震えていた。見渡す限りの未知、筋肉が喜びの震えを返す。


「よし、ならやることは一つ――強者になる!」


太陽を背負うように笑い、亮太は歩き出した。やがて土埃を上げて進む武装集団が現れ、その先頭に立つ青年武将と目が合う。その武将は「木下藤吉郎」と名乗り、鋭い眼差しで亮太を見据えた。互いに無言のまま歩み寄り、亮太は胸を張った。


* * *

(尾張国 麦畑・昼)


ぬかるみに膝をつく。中村健二は震える手で倒れた男の脈を探った。鼓動は弱いがまだ生きている。着物の下で傷口を押さえ、早口の日本語で「止血を手伝って!」と叫んだが、周囲の兵士たちは怪訝な顔で睨むだけだった。


矢が飛び交い、土塁の向こうで爆ぜる火薬の臭い。健二の頭は白くなる。(これが戦国の戦場……?)


「放っておけ、敗残兵だ」


侍が汚れた兜を叩きつけながら言い捨てる。健二は歯を食いしばり、制服の袖を裂いて即席の包帯を作った。兵士が刀を抜きかけるが、健二は顔を上げ「死なせたくないんです!」と叫んだ。


侍は一瞬驚き、刀を収める。「奇特な若造よ。名は?」


健二は言葉に詰まった。だが口から出たのは、クラブ活動で繰り返した自己紹介より素直な願いだった。「……医者になりたいんです」


侍は鼻で笑い、しかし次の瞬間、矢が彼の肩をかすめた。「持てるか、若造。戦場の現実を」

健二は震える手で包帯を締め、泥の上に膝をついたまま頷いた。その直後、彼は近くに生えていた“血止め草”と呼ばれるヨモギに似た植物を千切り、傷口に灰と共に押し当てた。幼い頃に祖父から聞いた民間療法の記憶が、煙のように蘇る。


* * *

(甲斐国 捕虜小屋・夕刻)


薄闇の小屋の中、山本武志は両手を縛る荒縄の圧に耐えながら目を開けた。頭上の屋根は藁と土で出来ており、隙間から差す光に埃が踊る。


「起きたか」


低い声がして振り向くと、鎧の男が飯椀を差し出した。「食え。程なく陣へ連れて行く」


「陣……?」


「武田晴信公の軍勢だ。貴様のような丈夫な者は十人でも欲しいそうだぞ」


武志の胸に血のような熱が込み上げる。剣道部で積んだ稽古の感覚が、縛られた肩から指先へと静かに走る。


(逃げ道は? 人数は? 武装は?)


視線で小屋の構造を測る。入口は藁戸一つ、番兵は一人だが外に数人の足音。縄を切る道具――目の前の飯椀の木片? 無謀か。


「おい、名前は?」


「山本……武志」


武士は笑い、「武志か。いい名だ。今日から“山本武士”だな」と冗談めかして立ち去った。


武志は荒い息を吐き、空を仰いだ。小さな光が屋根の隙間で瞬き、塵が星のように漂う。(雪……みんな……必ず救う)


* * *

(甲斐国 山道・夜)


夜。朽ちた山道を駆け下りる影があった。田中美紀――昼間、死体を目撃した少女だ。彼女の視界は、一日のうちに色彩を失い、輪郭が鋭利になっていた。


(戦場の端は死角が多い。匂いで風下を判別。追手は一人――)


自分の思考が獣じみてゆくのを感じながらも、美紀は木の根に隠れ、追ってきた武士を背後から石で打ち倒した。震える手に返り血が散る。


(生き残るため、影は牙を持つ)


遠くで狼の遠吠えが響く。夜空に浮かぶ月は、どこか歪んで見えた。


* * *


一方その頃、亮太は武将・織田家家臣の隊列に加わっていた。三言二言のやり取りで示したバスケット仕込みの身軽さと、現代の「戦術論」はその家臣を興奮させた。「若いが面白い奴」と肩を叩かれ、亮太は新しい舞台に胸を躍らせる。


(これが歴史なら、俺はヒーローになる!)


行軍の列の最後尾で、彼は夕陽を背に振り向く。遠くの山肌に黒い雲がかかり、稲光が走った。仲間たちの安否が脳裏を過るが、次の瞬間には笑みが勝つ。胸の裡で何かが叫ぶ。(上を目指せ!)


* * *

(尾張国 行軍路・夕暮れ)


寺の朝。佐藤雪は僧侶の差し出した巻物を見つめていた。桜の校章がうっすらと光り、墨の文様が呼吸するように動く。


「運命は、貴女たちの手で紡がれます」


僧侶の言葉が耳の奥に残る。雪は巻物を胸に抱え、静かに頷いた。


(ならば数式を解くように、人の運命も解き明かす)


陽光が境内を照らし、彼女の影を長く引き伸ばした。


* * *

(信濃国 光泉寺・翌朝)


その日、各地で目覚めた四十二名の生徒たちは、誰一人として同じ空を見てはいなかった。山中、河原、城下町、そして戦場――それぞれが「戦国」の荒野に独り立たされ、帰る道もわからないまま、ただ鼓動だけを確かめていた。


夜が来て、篝火と星が交互に瞬く。


そして遠く離れた空の下、甲斐の軍勢の陣幕に貼り出された徴募札には、新たに“山本武士”の名が墨書されていた――。


まだページに姿を見せていないクラスメイト──佐藤陽介、石田真理、藤井千夏──もまた、それぞれの空の下で同じ夜空を仰いでいた。

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