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戦国時空漂流記  作者: 愉易
第一部:散りゆく風
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運命の糸

耳鳴りが静まると同時に、世界は冷たい現実の輪郭を取り戻した。佐藤雪は崩れかけた倉庫の壁に手を付き、深く息を吸い込む。埃と乾いた土、そしてわずかな鉄の匂い――さきほどまで嗅いだことのない空気が肺を満たした。


さっきまで聞こえていた文化祭準備の喧噪はない。代わりに、遠くで鶯に似た鳥の鳴き声と、風で揺れる竹の葉擦れがか細く重なる。時計を見ると、液晶が暗く沈んでいて時刻も示さない。スマートフォンも圏外表示のまま固まっていた。バッテリー残量は「67%」の数字で止まり、かすかなLEDも消えている。


(ここは本当に日本なの?)


視界の端で山本武志が級友をかき集めている。瓦礫に埋もれかけた後輩を引き上げ、「怪我は? 動けるか?」と声を掛けるその姿は、雪が入学以来頼りにしてきたリーダーそのままだった。だが、その背後に広がる景色は、雪の知るどんな校庭とも違った。


雑木林の向こうに赤茶けた田畑が広がり、その先に茅葺き屋根の家並みが点在する。舗装道路はなく、畦道のような土道を徒歩の農民が行き交うのが見えた。彼らは腰にわら縄を巻き、背に薪を背負っている。


「……時代劇のセットみたい」


雪は無意識に口に出し、慌てて唇を噛んだ。現実感が薄く、言葉にすれば何かが崩れそうだった。


* * *


「雪、大丈夫か?」


武志が駆け寄り、右手を差し出す。雪は頷き、その厚い掌を借りて足元の木片を跨いだ。「みんなは?」


「負傷者は擦り傷程度。亮太が周囲を偵察に行ったが――」


言い終わらぬうちに、坂の上から馬の嘶きが轟いた。甲冑をまとった数名の武士が槍を掲げて土道を駆け下りてくる。武志も雪も一瞬で声を失った。テレビや博物館で見た鉄胴に日輪の家紋が輝き、背中の旗指物が風を切って翻る。


「タ、タケシ……本物?」


「わからない。でも覚悟は決めろ」


武士たちは倉庫――いや、もはや朽ちかけの小屋――の前で馬を止めた。先頭の男は面頬を上げ、鋭い視線で武志と雪を見下ろす。


「其方ら、何奴なにやつぞ。此度こたびの検地帳に名は在らぬが――」


聞き慣れない古風な語尾に、雪の心臓が跳ね上がる。だが文語調の日本語であることは理解できた。雪は咄嗟に一歩前へ出て、手を胸の前で合わせた。


「わ、私たちは旅の学徒でございます。道に迷い、ここへ……」


言い終わる前に、武士の目が細くなった。「女子が出しゃばるな」


鞘から刀身が半ば抜かれ、冷たい光を放つ。武志が雪を庇うように前へ。「待て! 俺たちは戦を望まない。ただ――」


「黙れ。民草たみくさは出自を示せ」


雪は頭の中で必死に思考を巡らせた。戦国史の授業で習った身分制度、通行手形、検地帳。ここがもし戦国時代なら、無戸籍の旅人は間者か賊とみなされても仕方がない。


(言葉遣いはおおむね室町期末期……発音は近世に近い。やっぱり……)


脳裏に数式のように情報が並ぶ。1580年代以前の史料で確認された語彙、甲冑の形式、家紋の年代差。全てが「本物」を示していた。


「雪、下がれ」武志の低い声。


しかし雪は首を振る。「情報を引き出すなら私の方が――」


言い終える前に、後ろから乾いた悲鳴。別の武士が倉庫の陰に隠れていた生徒を引きずり出したらしい。雪は胸が凍る。


「面倒だ。怪しい奴らは城へ連行し、かしらに裁可を仰ぐまで」


武士たちが縄を取り出す。雪は反射的に両手を差し出した。「武志、抵抗しないで。今は情報収集が先」


武志は苦悶の表情を浮かべるが頷き、両腕を差し出した。その瞬間、雪の中で何かが切り替わった。恐怖ではなく、未知の変数を前にした解析欲求――。


(もし本当に1560年代なら、私たちは歴史を歩いている。生き残るにはデータが要る。まずは観察。)


縄が手首に食い込み、麻の繊維が皮膚を擦る感覚がやけに鮮明だった。


* * *


夕刻。松明に照らされた林道を、雪たちは徒歩で進まされた。武士は六人、生徒は雪と武志を含め七人。亮太の姿はなかった。


「亮太、どこへ行ったのかな……」


前を歩く女子が震える声で呟く。雪は「大丈夫、きっと逃げ延びている」と囁き、肩を抱いた。自分自身の不安を打ち消すように。


足かせこそされていないものの、早い歩調に足裏が火照る。夕暮れが深まり、遠雷のような太鼓の音が風に運ばれてきた。祭囃子ではない。軍勢の陣太鼓――雪は背筋を這い上がる戦慄を感じた。


(歴史の本で読んだ音だ…。)


ふと、脳裏に武志の横顔が浮かぶ。剣道の大会で見せる真剣さ、仲間を守ろうとするあの時の視線。雪は無意識に手首を擦り、縄目の痛みを確かめた。


* * *


日が沈み切る前、山道の分岐で列が止まった。先頭の武士が何者かと早口に言葉を交わしている。松明の光で浮かび上がったのは、黒装束に顔を覆った男たち。忍び装束――雪の知識が赤信号を鳴らす。


「間者ども、此方へは不要とのことだ。女子供は寺へ送り、男は駒井殿の陣へ」


「女子供」として括られた二人の女子――雪ともう一人の生徒、佐々木遥――が引き立てられる。武志の声が響く。「待て! 雪をどこへ連れて行く!」


「静まれ!」


柄で肩を打たれ、武志が膝をつく。その瞬間、雪の中で温度のない怒りが膨らんだが、同時に冷たい分析が囁く。(ここで騒げば全員斬られる。生き残る。情報を得る。必ず再会する。)


雪は振り向き、武志に無言で視線を送った――“必ず戻る”――。


忍びに手首を掴まれ、闇の中へ引き込まれる。薄い月明かりが竹林の隙間から差し、地面の湿った落葉を銀色に染めた。


* * *


どれほど歩いたのか、雪は距離と方位を計算していた。平均歩幅70センチ、歩数1200。南南東へおよそ840メートル。途中で右へ30度転回――頭の中の座標は、過去の数学オリンピック訓練で磨いた空間把握能力が支えている。


やがて石畳が現れ、朱塗りの山門がぼんやり浮かび上がった。山門の扁額には、墨跡も鮮やかな「光泉寺」の三文字が揺らめいていた。寺の境内らしい。境内の灯籠にともる油火が、雪の頬を橙に照らす。忍び装束の男は僧侶に何事か耳打ちし、雪と遥を放り出すように去った。


「おお、これはお気の毒に。今夜はお護りいたしますぞ」


老僧――慧玄えげんと名乗った――が深い皺を寄せて頭を下げた。雪は反射的に合掌し、「ありがとうございます」と礼を述べる。遥は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、雪の袖を掴んで離さない。


案内された庫裏には藁床が並び、湯気の立つ粥の香りが漂った。雪は遥を落ち着かせ、粥椀を手渡す。


「明日になったら、必ずみんなを探すわ」


遥はかすれた声で頷き、粥をすすった。雪は外の闇を見つめる。風に乗って、遠くの陣太鼓がまだ鳴っていた。


(武志、無事でいて。私が必ず座標を見つけ出す。統計的に可能性は低くない。諦めない。)


夜半。庫裏の隅で毛布に包まりながらも、雪の頭脳は休まらない。現状分析、必要物資リスト、言語適応計画、そして武志の救出シミュレーション。数式と地図が脳裏を流れ、紙とペンが欲しくて指先が震えた。


(まずは古語の習得。次に地理情報の収集。そして情報ネットワークの構築。時間は有限――)


遠くで僧侶が読経を始めた。低い梵唄が夜気に乗り、雪の意識をゆっくりと引き込む。眠気が重力のように襲い、視界が滲む。


(武志……私、絶対に……)


闇が完全に視界を覆った瞬間、雪は小さく息を吸い、思考を切った。


* * *


蝋燭の揺らぎが瞼を透かして届く。目を開けると、僧侶が木札を手に立っていた。


「娘さん、目覚められましたか。こちらへ」


雪は身を起こし、遥を見やる。隣で静かな寝息を立てている。雪はそっと立ち上がり、僧侶の後を追った。


外へ出ると、白んだ空に細い月が残っていた。境内の片隅、灯籠の陰で僧侶は振り返る。


「貴女のような者が来ると、ずっと聞いておりました」。


その瞳は妙に澄んでいた。雪は息を呑む。「……私たちのことを知っているのですか?」


僧侶は小さく頷き、懐から巻物を取り出した。墨で描かれた文様が、薄明の中でうごめくように見える。桜紋の輪郭は淡い光を帯び、息をするように脈動していた。


「これは“時の迷い子”を導くためのえにしの図。運命の糸は、既に張られております」


雪の心臓が再び早鐘を打つ。武志の顔、クラスメイトの悲鳴、揺れる竹林、そして今目の前にある巻物――すべてが一本の線で繋がるような感覚。


「さあ、ご覧なさい。貴女がどちらへ進むべきか、ここに示されておりましょう」


僧侶――慧玄――が巻物を静かに開くと、桜紋は微かに桃色の光を放ち、古い紙の繊維を透かして境内の灯を映し返した。その瞬間、冷たい朝の風が境内を駆け抜け、灯籠の火を揺らした。


――果たして、その図の中心に浮かび上がったのは、見慣れた校章の桜の紋だった。


雪は息を呑んだまま、言葉を失った。


(運命の糸は、ほんとうに存在する――?)


場面はそこで黒く塗りつぶされるように収束し、雪の意識は再び深い思考の沼へと沈んでいった。


* * *

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