土に刻む線
[信濃国・川中島南野営地/永禄四年(三月下旬)夜半]
――主要視点交替――
薄雲を透かした月光が野営地を青白く照らし、焚き火の橙が揺れるたびに影が土の上で踊った。その土に、一筋の線が刻まれている。誰かが刀の鞘で引いた境界線。明朝、この線は血で塗り替えられる。
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【Takeshi】
山本武士は膝を折り、線を見つめていた。副長が負傷兵の報告を終えると、焚き火の隙間から灰が舞った。
「明朝、我ら斥候隊は右翼の山裾を攪乱せよとの御触れ。副備、覚悟は?」
武士は頷く。だが視線は線の向こう、闇に溶ける山影へ。「敵の補給班には佐藤がいる」
副長が眉を寄せ、「旧友を討つことになりますぞ」と囁く。武士は立ち上がり、肩の傷を庇いながら刀を抜いた。月明かりで刃が冷たく光り、彼は土の線をなぞるように刀先で砂を削った。「友と思うからこそ、手加減はできぬ」
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【Yuki】
小諸城内、灯りを落とした作戦室で佐藤優希は算木を動かしていた。堀の外では夜営の太鼓が遠く響く。糧秣の最終配分表の右端で、数字が赤く跳ねる。
〈残米五十八俵〉――予定より七俵少ない。彼女は脈を早めた。時間削減のために乾飯工程を夜通し続けたが、真夜中の雪解け水が材料を濡らした。
「佐藤殿」
薬師の湯之助が駆け込む。「野麦峠経由の米俵、半俵分が届きました! 武田兵からの寄贈という触れ書きつき」
優希の胸が締め付けられた。綾子の仕業に違いない。感謝と同時に苦い痛みが生まれる。この米は、明日敵に向かう兵の体を温める。タケシの兵を撃つ力にもなる。
彼女は静かに紙包みを開き、紫根膏の新しい配合を湯之助へ手渡した。「明日、血が流れるわ。それでも助けられる命がある」
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【Ryouta】
尾張軍前線、濃尾平野を吹く夜風が火薬の匂いを運ぶ。神崎亮太は鉄砲隊五十を整列させ、弾薬箱の鍵を自ら確認した。鳩が脚に小筒を付けて戻る。Hiroshi からの暗号――補給庫に火を放て。
亮太は紙片を火にくべ、火花を見つめた。「信じろ、だと?」
藤吉郎が背後で笑う。「神崎隊長、火薬は扱い次第や。信ずるも疑うも、勝利のためや」
亮太は火花の残光に手をかざし、指先が震えるのを見せまいと拳を握った。「明朝、火が上がる。だが誰の旗が燃える?」
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【Kenji】
小諸城下の仮設医療所で、中村健二は布包帯を煮沸し、雪代水を濾過する布袋に藁灰を詰めた。外では堀の補修を終えた人足が焚き火を囲み、疲れからか低い唄を口ずさむ。
健二は手の震えを止めるため、深く息を吸った。明日は死屍の山。不安が胃を締め付けるが、藍灰止血粉と山椒茶の匂いが冷静さを戻す。
「――君に預けられた命が、明日を越えてくれますように」
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【Ayako】
峠道の避難民宿営地で、木村綾子は子供たちを集めて焚き火の前に座らせ、干し柿を分けていた。空は雲を孕み、風に雪の気配が混じる。
「明日は寒くなるわ。火を絶やさないで」
彼女は自分が渡した米が戦を温める矛盾を知りつつ、子供の手を握った。「あなたたちが帰る村を、必ず守るから」
峠の向こう、遠雷のような銃声が木霊した。
綾子は笑顔で首を振った。「いいえ、ただの木霊よ」しかし胸の奥で、狼より恐ろしい獣の足音が近づいているのを感じていた。
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【Hiroshi】
武田軍山伏詰所の屋根裏で、渡辺寛は結晶の破片を布で包み、脈動を抑え込むように押さえた。信玄から下された条件――亮太を抑えよ。だが暗号鳩は亮太に火を促した。
「矛盾からしか道は開かない」
彼は筆に墨を含ませ、紙片に数式を書いた。時の歪み量を示す記号 Δτ(デルタ・タウ)。その値が限界――時空崩壊ラインの閾値――に近い。明日の戦がこの線を超えれば……。
屋根を風が叩き、木材が軋む。寛は震える手で紙片を折り、帯に差し込んだ。「行くしかない」
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【Miki】
千曲川南岸の林で、田中美紀は袖を捲り、青い紋様を見た。脈動する光が掌で鼓動のように点滅し、耳鳴りと共振する。「時間を削る」契約の代償。だが彼女の目は冷えていた。
闇の中、潮見衆の影が見守る。美紀は囁く。「情報は渡す。だが潮を増やすのは、あなたたちの望む形じゃない」
リーダー・綾瀬の声が木々の間を滑る。「潮は流れ、海へ至る。導くのは私たち。あなたはただ観測すればいい」
美紀は唇を噛み、遠くの野営火を見た。炎が揺れ、煙が夜空へ筋を引く。嵐の前夜、全ての線が土に刻まれ、血で書き換えられるその瞬間まで――
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[同所/夜明け直前]
月が沈み、東雲が薄紫に染まる。野営地の全ての焚き火が一斉に消され、兵たちは静かに武具を締めた。鳥が一羽、暗い空を横切り、無言のまま南へ飛ぶ。
林の影で美紀は指で土を掘り、掌の血混じりの唾で混ぜ、地面に印を描いた。「帰り道」――仲間にだけ読める忍び符丁。
山伏詰所では寛が最後の写本ページを焚き火にくべ、灰となる文字を見つめた。「終わらせよう」
小諸城天守で優希は備蓄表を巻き、湯之助に医療袋を託した。「命を選ばせないで」
峠道の火のそばで綾子は子供の眠る姿を毛布で包み、外へ出ると北の空へ手を合わせた。「守って」
鉄砲隊の陣で亮太は火縄に油を染ませ、銃列に歩み寄る。「一斉射の号令は、俺が出す」
武士は谷間で角笛を握り、唇を触れた。「線を越える」
空気が凍りつく。遠くで太鼓が鳴った。低く、重い一打が大地を震わせ、二打で雪を落とし、三打で夜が破れる。
そして四打目が響いた瞬間、誰かが最初の矢を放った。薄明の空を切る矢が、土へ突き刺さり、線を越えた。
戦が始まった。