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戦国時空漂流記  作者: 愉易
第一部:散りゆく風
18/20

嵐の兆

[信濃国・川中島北方/永禄四年(三月中旬)夕暮れ]


 ――田中美紀 視点――


 天を染める夕陽が千曲川を朱に染め、残雪の山並みを血の帯で縁取った。田中美紀は河岸の枯れ葦に身を潜め、対岸の薪煙を睨んだ。風が強まれば煙は北へ流れ、そこに潜む上杉の糧秣隊の位置を暴くはず――小さな炊事煙でさえ、戦場では血を呼ぶ狼煙になり得る。


 美紀は左耳の後ろに留めた細い吹矢筒を確認した。矢尻にはトリカブト粉末。致死の毒ではなく、意識を奪う程度の薄濃度に調整してある。殺すことは任務に含まれない。彼女の役目はただ「観て」「伝える」こと。しかし、その観測対象が日に日に増え、糸が絡み出している。


 草陰で耳を澄ませると、乾いた笛音が三度響いた。武田側前哨の合図だ。敵襲の気配を知らせる短笛――つまり、ここから半里ほど南で、タケシが指揮する斥候隊が動いている。


 美紀は足元の土をこそげ取り、薄い石に塗った。簡易の匂い袋。湿った土臭で自身の体臭を隠す。小柄な体をさらに縮めるように前傾し、川面下の葦原を匍匐した。足音は波音に紛れ、夕風が彼女の匂いを分断してくれる。


 やがて川の中洲に近づく。そこには古い観音祠があり、その背後の柳には白布が巻かれている。密約の合図。佐藤優希が用意した三日後の交渉路。しかし予定より二日早い白布は《罠》を意味する。優希が遣わしたのではない、誰かが偽旗を立てた。


 美紀は歯を噛み、袖から糸巻きを取り出した。細い絹糸の先に鈴虫の羽を縛り、微風で僅かな音を立てさせる。忍びの暗号。《撤退せよ》――羽音はその信号だ。だが届ける相手は――


 「そこにいたか、影法師」


 背後で囁き。美紀は跳ねるように反転し、吹矢を構えた。が、黒装束の男は距離二歩以内。矢を放つ前に手首を掴まれ、毒矢が地面に落ちた。


 「風間組の者ではないな」


 面布越しでも厳しい声色。男の右手には紙札。墨で〈流人〉の二字。風間小平太が使う札ではない。上杉の忍衆――いや、もっと得体の知れぬ組織。


 美紀は手首を捻り、相手の親指を外して抜けようとしたが、男の動きは速かった。脇差の柄で肩を圧し、低い声で耳打ちした。


 「友を救いたいなら、付いて来い。影法師」


 影法師――上杉側が忍びを呼ぶ蔑称。彼女は弱い息を吐いた。「誰の差し金?」


 男は答えず、逆手で小さな円形鈴を投げた。鈴は空気を割き、祠の扉へ当たって転がり、微かな音を立てた。次の瞬間、祠の背面が内側から開き、茅葺きの天井が軋む。地下への梯子。


 「この川の下に哨戒網があるとは、知らなかったか」


 男は美紀の肩を押し、梯子の穴へ誘った。彼女は抗わず降りた。暗闇が飲み込む直前、川面に映る夕陽が砕け、風が唸った。嵐が近い。


 ***


[地下隧道/同日 夕刻]


 梯子を降り立つと、石造りの狭い隧道が伸びていた。松明もなく、壁に仕込まれた蛍石が淡く青い光を放つ。美紀の背後で梯子が引き抜かれ、天井が閉じる音がした。


 「先を急げ。間もなく潮目が変わる」


 潮目――信濃には海がない。その隠語は時間の流れを示す合図。先導の男が走り出し、美紀も後を追う。足音を消す走法で石畳を駆け抜け、曲がり角を七度数えた頃、前方に丸天井の広間が現れた。


 中央には木製の机。上には地図と砂時計、そして不自然に濃い青光を放つ結晶――時間の残響で生まれる“破片”だ。Chapter17 で寛が持ち帰った破片と同質。それが脈動するように光るたび、周囲の空気が歪む。


 机の傍らへ立つ影が二つ。黒衣の女と、甲冑姿の若武者。若武者が面を外すと、そこにあったのは見覚えのある横顔だった。


 「……真咲まさき?」


 クラスメイト、北川真咲。文化祭では演劇部の衣装責任者だったはずの彼女が、今は忍び刀を腰に下げ、冷たい目で美紀を見据えている。


 「久しぶりね」


 真咲の声は低く、感情が読めない。「あなたに会わせたい人がいる」


 机の向こう、青い光の前に立つ女が面布を外した。長い黒髪、涼しい眼差し。見知らぬ顔――しかし、その瞳には異様な透明感があった。


 「我ら〈潮見衆〉へようこそ」


 女は静かに一礼した。「筆頭・綾瀬あやせと申します」


 美紀は眉を寄せた。潮見衆――どの史書にも出ない名称。


 「潮見……時の潮を読む者?」


 女は頷き、光る結晶に手を翳した。「これは未来と過去が擦れ合う裂け目の欠片。あなた方“漂流者”が起こす歪みで成長する。私たちはそれを『潮』と呼ぶ」


 美紀の背筋を冷たい汗が伝った。「私たちを……試しているの?」


 「あなた方が互いに殺し合い、歴史を塗り替えるほどに潮は増え、我々は時を渡る力を得る」


 真咲が口を開く。彼女の声には微かな震え――囚われの立場であることを示す鎖の音が混じっていた。「だから協力してほしい。潮の増幅には、あなたの観測技能が必要」


 「断る」


 即答した自分の声が水音のように響いた。女は少し哀れむように眉を下げた。「では交換条件。神崎亮太の命――」


 美紀は拳を握り、静かに首を振った。「亮太も、タケシも、ユキも、私は誰も殺させない」


 真咲の瞳が揺れる。しかし次の瞬間、背後の男が美紀の肩へ手を置き、冷たい声で告げた。


 「ならば血の契約を。潮見衆に逆らえば、あなた自身の時間を削る」


 彼が差し出したのは刃物――ではなく、青い結晶の欠片。触れると魂が抜けるような感覚がする。


 「選べ」


 美紀は深く息を吸った。時間を削る――命を奪うに等しい。それでも、ここで拒めば仲間を守れる保証はない。彼女は掌を差し出した。


 「私が従う振りをすれば、あなたたちの計画を乱すことができる……」


 心で呟き、結晶を握った。氷のような冷たさが皮膚を焼き、視界が一瞬白く弾けた。掌が裂け、血がにじむ。しかし痛みより、時間感覚が引き剥がされる恐怖が強い。


 鼓膜を針で突かれたような鋭い耳鳴りが走り、視界の端で星が弾ける。冷汗が背を流れ、時の砂が指の間から零れる幻覚――。


 女は微笑んだ。「契約成立」


 結晶が掌に吸い込まれ、皮膚に青い紋様が浮かび上がる。それは潮見衆の奴隷刻印。


 「まずは任務を。武田と上杉の次戦で、佐藤雪の補給計画を漏洩しろ。飢えは潮を増やす」


 美紀の視界が揺れた。優希を裏切れ、と? 心臓が冷たい水に沈む。だが彼女は、声を震わせずに答えた。「……承知しました」


 女が背を向ける。真咲が一瞬、視線で謝った。そして暗闇が再び美紀を包んだ。


 ***


[信濃国・千曲川河岸/夜半]


 地上へ戻ると夜風が吹き抜け、川面に月が浮かんでいた。隠し扉が閉じ、忍びの男が姿を消すと、美紀は跪き、血のにじむ掌を川水で洗った。青い紋様は消えず、月光に淡く光る。


 「時間を、削る?」


 掌に触れると脈が速く揺れた。体の奥で何かが蝕まれる感覚。潮見衆の脅威が現実味を帯びる。


 遠く山中で鉄砲の響き。小牧原の演習だ。亮太の銃声。彼女は立ち上がり、唇を噛んだ。


 「私は私の方法で守る」


 月が雲に隠れ、川風が吹き上げた。枯れ葦がざわめき、嵐の匂いが夜空を渡る。


 嵐の兆――。美紀は黒装束を翻し、闇へ溶け込んだ。青い紋様が袖口から漏れた淡い光を、月は見て見ぬふりをするかのように雲へ隠れた。

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