未来の残響
[甲斐国・躑躅ヶ崎館/永禄四年(三月初旬)未明]
――渡辺寛 視点――
夜の帳がまだ降り切らぬ頃、武田信玄の本拠・躑躅ヶ崎館は静かな息を潜めていた。梅の香だけが石畳を渡り、遠く小鳥のさえずりが微かに夜明けを告げる。その静寂を裂くように、忍び足の影が長い回廊を駆け抜けた。
渡辺寛――かつては歴史オタクと呼ばれた高校生、今は武田家の“記録奉行補佐”。彼は抱えた竹箱を胸に押し当て、脇障子を狭く開けて書庫に滑り込む。箱の中身は、彼が密かに写した「未来の秘録」――現代から持ち込んだタブレット端末を手書きで写したものだ。
紙に写るはずのない液晶の色を墨で模し、系図や戦況図を筆で再現したその写本は、彼にとって危険な爆弾であり、同時に生きる武器だった。
書架の陰に身を潜め、耳を澄ます。草履の擦れる音はなく、松明の火音だけがパチリと跳ねた。寛は箱を開け、薄紙に包んだ写本を一冊取り出す。表紙には「桶狭間戦記」と毛筆で書かれていた。
――予定より五年早い。
彼は息を呑む。信玄公はすでに今川方の内情を探らせている。もし自分が写本の存在を漏らせば、桶狭間の惨劇は別の形で繰り返されるかもしれない。
それでも写本を差し出せば、信玄の信頼は盤石となり、友を救うための権限が得られる……揺れる思考の先に、亮太とタケシの姿が交錯した。
――どちらを救う?
思考を遮ったのは障子が滑る僅かな音。寛は反射的に写本を袖に隠し、立ち上がった。灯りが差し込み、細身の青年が姿を見せる。山本勘助――武田軍の軍師だ。
「渡辺殿、早いのう」
透き通る声に、寛の背が固まる。「はい、火急の用がありまして」
勘助は穏やかに笑い、手に持った巻物を差し出した。「信玄公より」
開けば、上洛計画に伴う兵站図。そこには見慣れぬ墨色の線が引かれ、尾張・小牧原に赤丸が付いている。寛はその赤丸を見て血の気が引いた。亮太がいる場所――。
「尾張方面へは、我が密偵が幾人か潜っておる。しかし情報が錯綜しすぎてな。そなたの“史料”で照合してくれぬか」
史料――勘助は写本の存在を識っている? 寛は瞳を揺らしたが、軍師はそれ以上詮索せず巻物を置いて去った。
残された紙面の赤丸を指でなぞり、寛は胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。
***
[甲府城下・忍び長屋/同日 午前]
寛は忍び頭の詰所に足を運んだ。座敷には黒装束の男女が十名余り集い、硝煙と汗の匂いが充満している。中央の笏を掲げた頭領・風間小平太が声を張った。
「本日未明、上杉方の補給路が諏訪で襲われたとの報。敵も我も血を流した。次の刃は誰の首を狩るか――渡辺殿」
視線が集中する。寛は竹箱を前に置き、口を開いた。「尾張・小牧原において、織田軍鉄砲隊が五十ほど(※先日の演習隊を核に新募兵を加えた小規模部隊)訓練を終え、今川国境攪乱へ動くとの密報が入りました。指揮官は神崎亮太」
忍びたちがざわつく。風間が眉を吊り上げた。「その名、義元公の家臣団に聞かぬ。新参か?」
「……流れの武士と聞き及びますが、実力は折り紙つき。彼を放置すれば、今川と武田の挟撃を受ける形になります」
忍びの一人が手を挙げた。「暗殺は?」
寛は息を飲む。亮太を殺せ、という提案。
「危険です。彼は鉄砲を百丁扱う兵を率いている。むしろ補給を断つほうが――」
言い終える前に、風間が扇子で机を叩いた。「補給か首か、どのみち同じことよ。どちらも任を果たすまでに命を賭する」
沈黙が走る中、寛は拳を握った。写本には「小牧原演習→尾張侵攻→桶狭間」の時間軸が記されている。亮太をここで止めねば、歴史がさらに歪むかもしれない。しかし――。
「我が提案は、鉄砲の火薬庫を焼き払うことです」
そう言い切ったとき、胸の内で兆す重さ。亮太の夢を砕く行為。しかし命を奪うよりは救いの余地がある。そう自分に言い聞かせた。
***
[躑躅ヶ崎館・信玄私室/同日 夕刻]
夕日が障子を朱に染め、香を焚いた甘い香木の煙が揺らめく。その中で、武田信玄は木彫りの仏像を撫でていた。部屋には家臣はおらず、寛一人。緊張に喉が渇く。
「渡辺、例の“未来絵巻”――見せよ」
低く柔らかな命令。寛は袖から写本を取り出し、仰向けに掲げた。信玄は厚い眉を潜めページを捲る。桶狭間の戦図。今川隊の動線、織田の奇襲地点、雷雨の時刻まで細かに書いてある。
「見事なり」
信玄の声が静かに落ちた。「しかし不思議よのう。何故そなたは、こんなに先の詳細を知る?」
寛は息を吸い、「川中島の合戦で学びました。敵の行動には傾向があると」
嘘だ。自分が現代人であると悟らせれば、彼は生かしておかぬだろう。信玄は瞳を細め、仏像に視線を戻した。
「ならば毘沙門天の如き慧眼を以て、尾張の若武者を抑えてみせよ。……結果が誤れば、そなたの写本は焼き払う」
首筋を冷たい汗が滑り落ちた。寛は額を畳につけ、深々と頭を下げるしかなかった。
***
[甲府城下・裏長屋/深夜]
雨上がりの軒先で、藁屋根から水滴が跳ねる。寛は外套の襟を立て、屋根裏へ続く梯子を上った。そこは彼が密かに営む情報通信用の隠れ家。小さな火鉢と、削りかけの竹筆、封蝋のない手紙が散らばっている。
寛は机に向かい、油紙に包んだ白鳩用の小筒を手に取った。そこへ短い文を巻き入れる。
〈亮太 補給庫に火を放て 計画変更 信じろ〉
本当は「逃げろ」と書きたかった。しかし信玄の密偵は鳩も狙う。暗号めいたこの指示なら、亮太は自ら判断して動くだろう。
寛は鳩を放ち、闇に消える白影を見送った。足元で軒から落ちた水滴が瓦礫を打ち、その音がやけに大きく響く。
胸の奥で言葉がこぼれた。
「俺は、未来を救えるのか……?」
***
[同夜・甲府市中/時の鐘]
時の鐘が深夜二つ――現代の午前二時――を告げた。寛は城下を見下ろす坂道に立ち、夜風に晒された灯籠の火を眺めた。遠く西の空で微かな光が揺らぐ。赤とも青ともつかない光――時間の歪みを示す“残響”だ。
それは、かつて小諸の夜空で一瞬だけ見かけた歪な光と同じ。やがて大きくなり、世界を呑み込むのだろうか。
耳を澄ますと、風の中に誰かの声が重なった気がした。
〈寛、戻れ〉
振り返っても誰もいない。だが囁きは確かに聞こえた。未来の教室で聞いた女生徒の声――ユキ? それとも……。
寛は手のひらを握りしめた。風が吹き、灯籠の火が揺れた。赤き残響は雲間に隠れ、夜が再び静けさを取り戻す。
雪融け間近の冷たい夜気が、頬を刺した。彼の中で恐怖と責任が絡まり合い、しかしその中心に微かな火が灯る。誰かを救うためではなく、未来そのものを救うために――。
闇を裂くように遠くで角笛が鳴った。寛は外套を翻し、その音の方向へ歩き出した。未来へ向かう覚悟を胸に。