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戦国時空漂流記  作者: 愉易
第一部:散りゆく風
16/20

初試

[信濃国・諏訪郡境/永禄四年(二月下旬)薄曇り]


 ――武士 視点――


 湿った残雪を踏みしめ、山本武士は斥候二十名を率いて樹林帯を下った。前方の谷底には上杉方の野営火がちらつき、風に乗って味噌の匂いが届く。敵は三十――いや、火点の間隔からして四十か。


 「距離九十間。散兵で囲み、角笛を合図に突入だ」


 武士は囁き、竹笛を唇に当てた。笛先が震える。迷いが滲んだのか、音がわずかに掠れた。脳裏にユキの姿が浮かぶ。あの夜、紫根膏を手渡したときの凛とした横顔――。


 笛を吹く。甲高い一声が枯木を震わせ、雪解けの水滴が一斉に落ちた。


 灰色の雪煙が上がり、斥候たちが駆け出す。武士は刀を抜き、雪を蹴った。足元で死角を巡るように動き、敵の背を取る。それは剣術ではなく、生存本能の赴くままの動きだった。


 最初の敵を斬り伏せる感触は、十三章で得た初の殺の記憶を蘇らせる。肉が裂け、骨が軋む鈍い手応え。吐き気が込み上げるが、刀を止めれば仲間が死ぬ。


 「副備! 背後から――!」


 副長が叫ぶ。武士は振り向きざま、雪面を滑り込み、間一髪で矢を避けた。肩に走った熱は浅い擦過。彼は痛みに歯を食いしばり、反撃の斬撃で射手を倒した。しかしその刹那、遠方で角笛が鳴る。敵の援軍だ。


 「退け! 主力へ報!」


 武士は後退の手勢信号を掲げ、斥候たちを撤退線に導いた。谷底の白雪が赤に染まるのを見たとき、彼は胸が裂けるような痛みを覚えた――これはただの斥候戦、そして序章に過ぎない。


 ***


[信濃国・小諸城下/同日 午前]


 ――健二 視点――


 帳面の墨が滲むほどの蒸気が薬湯釜から立ち昇る。中村健二は袴の裾を捲り、負傷兵の足に巻いた血の固まった包帯を外していた。兵は歯を食いしばり、目頭に涙を浮かべる。


 「深呼吸して。痛みは長く続かない。数を数えるんだ」


 健二は静かに言い、藍灰止血粉を水で練った糊に混ぜた。匂いは草木灰と鉄の錆を合わせたような酸味。彼は竹筒の注射器――と呼ぶには粗末な道具で、糊を傷口へ押し入れた。止血が始まるまで二十秒。


 「……十八、十九、二十。よし、出血減少」


 兵は息を吐き、安堵のあまり嗚咽を漏らした。健二は微笑み、頭巾で汗を拭った。その横で寺子屋上がりの薬師・湯之助が目を丸くしている。


 「中村様、その粉と水だけで血が止まるとは……」


 「水ではない。灰汁抜きした藍灰に山椒の煎じ汁を加えてある。凝固を促すんだ」


 湯之助は唸りながら書き留めた。健二は心の奥で苦笑する。現代で学んだ医学知識を、如何に戦国素材へ置換するか――それが彼の毎日だった。


 外で鐘が鳴った。負傷兵が青ざめる。「襲来か?」


 湯之助が首を振り、「匂い袋が燃えた合図。雪代が解けたときの堀崩れ修繕に人手を集めろとのこと」と解説した。


 健二は薬湯に布を漬けながら、頭の隅で計算を始めた。今日の治療待ちは十七名。修繕召集に人員を四名送れば、残る十三名を独力で看る必要がある。処置時間平均二十五分、計五時間強。間に合わない。


 窓の外で城下の通りに雪解け水が流れ始めている。溶けかけの雪代水は泥と木屑を含み、傷を洗うには不向きだ。あの水が赤く濁る日が来る――彼の心を鈍い恐怖が掠めた。


 ***


[信濃国・野麦峠麓/同日 夕刻]


 ――綾子 視点――


 木村綾子は、峠道に取り残された農民十余名を前に腕を組んでいた。彼らは雪崩で道を失い、米俵を載せた牛車を押して進めずにいる。


 「人足株を持っているの」


 綾子は胸元から木札を取り出した。代官手代・甲斐庄右衛門から得た正式通行許可証だ。農民たちは驚いた顔で木札を覗き込み、ざわめいた。


 「私が案内すれば、佐久の里まで安全に抜けられるわ。ただし条件がある」


 彼女は俵を一つ指差した。「その米を半俵、武田前線の負傷兵――副備・山本隊の兵たちへ寄付してほしい。

 それは佐藤雪が担当する兵站班を経由し、粥として傷病兵に配られる予定だった。

 それは佐藤雪が担当する兵站班を経由し、粥として傷病兵に配られる予定だった。


 老人が眉を寄せ、「半俵は大きい」と呻いた。綾子は首を傾げ、若干の演技を込めて目を潤ませる。


 「雪解けまでに皆が凍え死ぬことを思えば、これは未来への保険です」


 沈黙ののち、若い百姓が俵の蓋を開けた。「わかったずら。頼むで……おなご殿」


 綾子は小さく礼をし、竹筆で受領証を書いた。その筆端が震えたのは寒さのせいだけではない。彼女の行動はどちらの軍にも属さず、己の信じる「理」に従うものだ。だが、その理がいつか誰かを飢えさせるかもしれない。


 彼女が歩き出したとき、遠雷のような銃声が南の山中から木霊した。綾子は振り返り、朱に染まり始めた雲を見上げた。


 「亮太……そこにいるの?」


 ***


[信濃国・諏訪郡境/夜半]


 ――武士 視点――


 撤退した武士は、山中の仮陣に伏せるように座り、肩の傷に紫根膏を塗っていた。副長が焚き火へ枝を投げ込みながら呟く。


 「殿、兵が六名討ち死に、八名負傷」


 火が爆ぜ、赤い火花が雪上に散った。武士は拳を握り、雪を掴み、溶けた水が指の間から滴るのを見つめた。


 「……初試ういだめしは終わった。だが次は本番だ」


 彼は立ち上がり、夜空を見上げた。灰色の雲間から星が覗き、吐く息が白い。


 遠くで角笛の交信音。武士はそれを耳で追った。敵もまた傷を舐め合い、次の一撃を研いでいるのだ。


 ――ユキ、俺はまだ人でいられるだろうか。


 その問いは夜の闇に吸われ、誰も答えなかった。雪が静かに降り始め、焚き火の火花と交じりながら、戦場の空へ舞い上がった。

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