遠雷
[信濃国・小諸城下/永禄四年(二月上旬)夜明け前]
薄墨色の夜がほころび、城下を包む霧の向こうで太鼓が低く響いた。鼓動のような重低音が石垣を震わせ、冬の澄んだ空気をゆるやかに揺らす。佐藤優希は懐紙に走らせた筆を止め、蝋燭の火を指先で覆った。火芯が揺れ、暗がりが一瞬深まる。
〈備蓄米四百五十俵、乾物百二十俵――現行の消費速度では十八日が限界〉
帳面に書き付けた数字が、まるで血の滴のように黒々と滲む。彼女は胸の内で再計算した。雪解けまであと二十余日。だが今朝方届いた飛脚の報によれば、武田の斥候が千曲川沿いに姿を現し、補給路を探っているという。
「副備・山本武士……」
細い声で名を呟くと、胸の奥が痛んだ。山本武士――クラスメイトだった山本タケシ。会えるかもしれない淡い期待と、敵軍の一員として迫る恐怖。その二つの感情が渦を巻き、優希の計算をわずかに狂わせる。けれども――もし彼を説得できるなら、血を流さずに済む未来もあるかもしれない。
彼女は筆を握り直し、備蓄状況表の欄外に斜めの罫線を引き、その横に「−二五俵/七日」と墨で書き添えた。消耗率の傾きだ。そこに不穏な赤線を引く――これは、物資が途絶した場合の飢餓開始点。
「……十八日以内に、補給線を再構築するか、消費を三割減に抑えねばならない」
呟きを聞きつけたのか、背後で屏風がわずかに開き、僧形の給吏・法念が顔をのぞかせた。
「佐藤殿。夜も更けております。ご休息を」
「まだ終わっていません」
優希は乾いた筆を硯に浸し、新たな表を引く。人員配置と米俵移送ルート。堀沿いの土橋を拡幅し、荷駄を三列で通す。それだけで搬送効率は一日五俵増えるはずだ。だが橋の補修に必要な木材を、どこから――
彼女は視線を上げ、壁に掛けられた古い軍旗を見た。赤地に月白の三日月。上杉家の家紋が夜明け前の闇に浮かぶ。己はこの旗のもとで生き延びねばならない。タケシが掲げるであろう風林火山の旗と衝突するとしても。
筆を置き、机の脇に置いた革袋を開く。中には紫根膏と藍灰止血粉。以前、偶然再会したタケシが密かに渡してくれた救急薬だ。彼女は掌で革袋を撫で、温度を確かめるように目を閉じた。
――あなたの薬で、私はこちらの兵を救う。けれどそれは、あなたの仲間を斬る兵をも救うことになる。皮肉ね。
襖の向こうで足音。武者奉行・本庄繁長が裃を鳴らし入って来た。
「佐藤殿。城主より参集の命。雪代水が上がり堀端が緩んでおる。修繕の人足を割り当ててほしいとのこと」
優希は即座に人員表から木工兵二十名と牢人五名を抜き出し、臨時班を編成した。さらに糊口をしのぐため、蔵の塩鮭を一夜干しにして支給する旨を記し、本庄に手渡す。
「人足には山下組を充て、作業は日の出までに。橋の拡幅材は門前の破却家屋から再利用できます」
本庄は瞠目しつつも深く頷いた。「かたじけない」
彼が去ると、夜明けが近いことを告げる鶏の声が遠くで鳴いた。優希は筆記具をまとめ、立ち上がる。長い髪を後ろで結び直し、糸巻きのように折れそうな自分の背筋を叱咤する。
廊下に出ると、冷気が肌を刺した。石畳には霜が降り、白く浮かび上がっている。見張りの兵が火縄銃を抱き、吐く息を白くした。
「夜勤ご苦労様」
「さぶいずらなあ……あ、ありがてえだに!」
優希が声をかけると、若い足軽は驚いたように背を伸ばし、照れた笑みを浮かべた。「佐藤様こそ」
彼女は足を止め、小袖の袖口から紙包みを取り出す。乾いた生姜飴だ。「舐めると寒さが和らぎます」
足軽は恐縮しつつ受け取り、薄闇にかしわ手を打った。
武家屋形を抜け、外郭の兵屯所へ。まだ夜が完全に明けぬ中、火の番が炭を起こし始めていた。優希は炭火の前にしゃがみ込み、藍灰止血粉と紫根膏を熱で柔らかくする。土間に置いた竹筒に薬膏を詰め、即席の携帯救急箱を作る。
すると門番の叫び声。「飛脚! 飛脚来たる!」
優希は立ち上がり、門へ駆け寄った。雪に汚れた脚絆の青年が息を切らし、信濃訛りで何事かをまくしたてる。
「武田勢が明後日未明に攻め込むだに!」
血の気が引く。明後日――十八日分の備蓄どころか、二日後の戦支度すら逼迫する。優希は一瞬、頭の中が真白になったが、次の瞬間には筆算が走り出した。〈予備米三十俵を即時精米、糒化。兵一人当たりの配給を七合から五合へ削減。兵站馬を二十頭分解体し干し肉へ〉
「あなた、名は?」
「仁科市之丞にございます」
「市之丞。休む間もないければ、もう一度走れる?」
「はっ」
優希は革袋から紫根膏を取り出し、市之丞の脛当て擦過傷に塗った。「これで痛みは引くわ」
「かたじけねえ!」
彼女は懐紙に短文を書き、封をせず手渡した。〈兵糧移送路変更案・至急承認願う〉。送り先は城主・小笠原長時。
飛脚を見送ると、背後から法念が再び現れた。「佐藤殿……お顔色が」
「すぐに城主と軍奉行を大広間へ。兵站と医療班の統合会議を開きます」
「では薬師の湯之助殿も?」
「彼には紫根膏と藍灰止血粉の配合比を伝えたい。急いで」
法念が走り去った後、優希は拳を握りしめた。霧の向こうで太鼓がふたたび鳴り、今度は高く速いリズムを刻む。出陣太鼓だ。
遠雷のようなその響きが、信濃の山々を震わせ、まだ見ぬ戦の気配をもたらす。優希は深く息を吸い、胸の奥でくすぶる恐怖を押し込めた。
――タケシ、私はここで生きる。もしあなたが敵として来るなら、それでも私は人を救う道を選ぶ。戦が終わったとき、私たちが再び友として語り合えるように。
夜が明け始め、東の空が紅に染まった。遠くで聞こえた馬の嘶きが、新たな時代の到来を告げるかのようだった。その紅に染まる霧の向こう、一瞬だけ緑の山肌に赤き旗が翻ったように見えた。風林火山――タケシが掲げるはずの旗。遠雷は目前、優希は胸の内で覚悟を新たにした。