剣の道
(信濃国 荒川前線・夜明け)
霧に濡れた草を踏みしめ、山本武志は槍を垂直に構えた。前線の野営地には火を落とした炊煙が漂い、夜番の太鼓が三度鳴る。出撃の合図まであと半刻。馬場源蔵が木札の名簿を掲げ、「山本、前衛左列! 本宿の上杉斥候を追い払う偵察戦だ」と叫んだ。
武志の心臓が静かに脈打つ。剣道の試合とは違う生死の場。それでも体は稽古で叩き込んだ構えを覚えている。槍の柄を滑らせ、重心を前に。源蔵が不意に笑った。「小僧、怖いか」
「はい。でも覚悟はできています」
源蔵は「よう言うた」と肩を叩いた。「怖さを抱えて踏み出すのが武士じゃ」
* * *
(本宿川沿いの湿地・辰の刻)
霧が薄れ始めた頃、武田前衛二十名は川沿いのヨシ原へ潜んだ。(二十対三十——数では劣るが、奇襲で崩せる)
上杉偵察斥候は三十名と報告されているが、数では劣る。源蔵は囁く。「川音で馬の足を隠せ。奴らが舟を出す前に刺すぞ」
武志は槍先を草に伏せ、呼吸を整えた。(突きの間合い二間——稽古より長い。柄の撓りを使えば届く)
上流から舟の舳が現れた。浅葱色の半胴を羽織る上杉兵が杭を突き、舟を岸へ寄せる。源蔵が手を上げる。突入合図。武志は足を踏み込み、最前列で槍を突き出した。
木槍が空気を裂き、上杉兵の肩を貫いた。熱い血が霧に散る。武志は振り払わず、柄をひねって舟を引き寄せた。味方が飛び乗り、乱戦が始まる。剣道の面がない世界で、相手の目の白と恐怖が真近に見えた。
槍を払われ、武志は柄で相手の脇腹を打ち、半回転で穂先を逆手に。稽古では禁じられた回し突き——肉に食い込み、重い感触が腕を痺れさせた。
一撃で倒れると学んだのは競技の幻想だった。敵兵は呻きながら刀を抜き、突き上げる。武志は咄嗟に柄尻で拳を叩き折り、膝で押し倒した。吐息が鉄臭い霧に混ざり、視界が赤黒く揺れる。
(生きるために——)
* * *
(川原小高地・午前)
斥候戦は武田の勝利で終わった。舟三隻を焼き払い、上杉兵十名を捕えた。源蔵が手柄を数え、木札に刻む。「山本、首一、捕縛一。文句なしの働きだ」
武志は槍の刃を川水で洗いながら吐き気をこらえた。握り拳の爪痕が掌に白く浮かび、皮膚を破って滲む血が冷たかった。(殺した……)
背後で湯之助が駆け寄る。「薬包を落とすなよ! 紫根膏は希少でさ」
武志は笑顔を作った。「渡す相手に会った」
湯之助は目を丸くし、「ほんとに霧の中で? 縁が深いなあ」と茶化す。武志は頷き、その縁が敵味方を超えるか葛藤した。(雪の一団は逃げ延びただろうか)
* * *
(武田本営 昼)
勝報を受けた武田信玄は前線指令幕で将を集めた。「上杉は舟で兵糧を回す算段。舟を焼いた手柄は大きい」
馬場信春が続ける。「捕虜十名の供述で、上杉本隊は来週にも荒川を南下」
信玄は頷き、馬立の配置を改める布陣図を広げた。「山本、前衛斥候で活躍と聞く。数を見切る目がある。歩兵小隊の副備に任ず」
武志は膝をつき、頭を下げた。「御意」
列の後方で別の足軽が小声で「新参の分際で」と呟き、源蔵が睨んで黙らせた。
源蔵が肩を叩いた。「出世頭だな、小僧」
* * *
(軍営裏 稽古場・夕刻)
昇進祝の酒を断り、武志は稽古場で竹槍を振った。柄の撓り、突きの反復。源蔵が現れ、手厳しい声を投げる。「力任せでは刃が鈍る。体に馴染ませろ」
武志は歯を食いしばり、刺突を繰り返した。宵闇で汗が冷え、手の皮が剥けた。源蔵はやがて竹木刀を差し出す。「剣も覚えろ。槍兵は潰されれば木の棒だ」
竹刀を握る感触は懐かしかった。武志は正眼に構え、面のない相手へ間合いを詰めた。木刀で胴を打ち、衝撃が背骨に響く。「構えは美しいが武士の胴は鉄だ、木刀で斬れぬぞ」と源蔵。
剣道の技は礼法と共にあった。ここでは生存の刃に変えねばならない。武志は鼻血をぬぐい、「もう一度!」と叫んだ。
* * *
(武田救護所・夜)
稽古後、湯之助が紫根膏と包帯を替えてくれた。「戦ってどうだった?」
「体で覚えたよ」と武志は笑ったが、指は震えていた。湯之助は真顔になり、古びた経巻を差し出した。「戦医の心得。怪我したら自分で応急して戻れ。副備は替えが効かない」
武志は礼を言い本を受け取った。(生き延びるための学びは剣だけじゃない)
* * *
(前線警戒壕・深夜)
交代望楼で星を見上げる。薄い雲が切れ、北斗が浮かんでいる。武志は雪の星図を思い出し、柄の端で地面に方位を刻んだ。(雪が見る星も同じ場所に)
見張りの兵が声を潜める。「敵影なし。しかし霧が出そうだ」
武志は頷き、槍を握った。剣の道は血で濡れている。それでも進むしかない。遠くで角笛が一声。夜が息を潜め、次の戦を孕んだ。