新たなる主、古き戦
(甲斐国 荒川陣・夜明け前)
霧が川面を這い、遠くで太鼓がひとつ鳴った。山本武志は槍を抱えたまま目を開き、天幕の外に立つ馬場源蔵の影を見た。「起きろ、小僧。昇り竜の刻だ」
武志は跳ね起き、冷えた地面に足を置いた。今日、武田軍は信濃へ向けて進軍を再開する。配された役目は糧秣隊の護衛。だが彼の目的は別だった——救護所から薬を運ぶ医師見習い・湯之助に会い、美紀の手がかりを探すこと。
「足を止めるな。戦は待たん」源蔵が笑った。
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(信濃国 西の沢道・朝)
佐藤雪は竹簡星図を胸に抱え、子供たちと恵梨香を連れて峠を下った。背後で狼煙が上がり、遠くで金属の響き。(武田と上杉が衝突を始めた)
小春が怯えた声を上げる。「せんせ、山が鳴ってる」
「大丈夫。星が導く方へ行くよ」雪は笑い、北斗七星の位置から方角を修正した。(次の集落で米と薬草を)
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(駿河国 興津湊・午前)
渡辺寛は早馬を降り、船問屋の権蔵に書状の写しを渡した。「松平殿の決断は早い方がいい。桶狭間で血が流れる前に」
権蔵が眉をひそめる。「若旦那、政治ごとは危ねえだら」
寛は頷き、早馬の鞍袋を締め直した。「でも誰かが知らせなきゃ、もっと多くが死ぬ」
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(尾張国 那古野城・昼)
神崎亮太は木下藤吉郎と演習場を見下ろしていた。自分が考案した“早駆け陣”を使い、新兵が木盾へ突撃していく。信長は満足げに頷いた。「面妖よの、神崎」
演習場には二百の槍兵と五十の騎馬が動き、赤い鎧が曇った水鏡のように地面へ反射した。
亮太は槍先で地面を突き、小声でつぶやいた。(これで織田が勝てば、次は今川——)
藤吉郎が笑った。「上洛の道は長い。我らも頭を使わねば首が飛ぶ」
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(三河国 岡崎城 救護舎・午後)
中村健二は勝吉の包帯を替えながら、松平元康の命で救護班の筆頭になった事実を思い出していた。骨針は湯之助—武田陣の見習いから伝わった改良法で鋭さが増していた。戦の中で医師同士の情報も流れ始めている。
勝吉が弱々しく笑う。「いつか、戦がなくなりますか」
健二は答えず、針を結んだ。(答えを探すため動かなければ)
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(信濃国 伊那谷 村道・夕刻)
木村綾子は人足株を首から下げ、佐吉夫妻と別れを告げた。「必ず豊作祈願の米を持って戻ります」
佐吉は涙をこらえ、「綾ちゃんこそ気ぃつけて」と手を振る。綾子は背中の米袋を叩き、自分に言い聞かせた。(私の米で誰かを救う)
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(甲斐国 荒川糧秣隊・夜)
武志は荷車の車軸を点検しながら、遠くに救護所の灯を見た。湯之助が姿を現し、薬包を差し出す。「燃えるような紫根膏さ。怪我人が増える前に届けてくれとのこと」
武志は礼を言い、薬包の菱紋を見つめた。「渡す相手がいる。必ず」
源蔵が怒号を飛ばす。「山本、何を油を売っとる!」
武志は荷車を押し、行軍を再開した。頭上で星が霞み、戦の匂いが強くなっていく。
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(信濃国 樫ノ峠・深夜)
雪の一行は峠の茶屋跡に仮泊した。恵梨香の熱は下がり始め、小春が数え歌を口ずさむ。「いち、とう、ひゃく、せん……」
雪は竹簡星図を広げ、木炭で補助線を加えた。(甲斐へ向かうには稲倉沢を越える……そこで武志の糧秣隊と接触できる確率は 17%)
恵梨香が囁く。「先生……また計算してる」
雪は微笑んだ。「計算は希望を作る道具」
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(甲斐・信濃 国境 野戦地・翌朝)
武田と上杉の斥候線が衝突した。荒川沿いの湿地で矢が飛び、煙が上がる。武志の糧秣隊は矢雨を避けて荷車を林へ入れた。源蔵が槍を構え、「守れ!」
一方、雪たちは峠下で戦煙を見つけ立ち止まった。「伏兵が出てる……別ルートへ」だが恵梨香が崩れ落ちた。まだ体力が戻っていない。
(交差点……!)
雪は決断した。「谷を下りて川岸へ出る。武田の赤備えを探す」
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(川岸 霧中)
水辺で武志と雪の一団が視線を交わしたのは、偶然とも運命とも言えた。武志の槍兵が警戒する中、雪が子供を抱き「薬を!」と叫ぶ。湯之助の薬包が差し出され、恵梨香の肩に塗られた。
源蔵が唸る。「敵か味方か分からん娘を……」
武志は答えた。「味方です」
湯之助が包を開き、濃紫の膏薬を指に取り「紫根と蜜蝋を煮詰めた傷薬だ、熱と膿を散らす」と一言添え肩口へ塗った。
霧が晴れ始め、遠くで角笛が鳴った。上杉の主力が迫る。武志は荷車を動かし、雪は子供たちを連れて走る。「また会える?」
「必ず」
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(信濃国 稲倉沢 仮集落・夕刻)
逃げ延びた雪たちは、糧秣隊から分けられた干し飯で久々に腹を満たした。恵梨香が涙を浮かべ、「武志くん、強くなったね」と笑う。
雪は焚火の火を見て呟いた。「戦の中で変わるのは……皆同じ。私たちも」
子供たちが星を指さす。「先生、星が出た!」
北斗七星が久々に雲間から顔を出し、希望の座標を示していた。