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戦国時空漂流記  作者: 愉易
第一部:散りゆく風
11/20

米の値

(信濃国 伊那谷・早朝)


夜明けの霧が田圃を包み、わずかな陽光が水面に揺れる。木村綾子は泥に足を取られながら畔を歩いた。元は都会でブランド品を振り回していた高校生——今は粗末な麻の着物と藁草履。手には竹籠、籠の底には昨夜捕ったザリガニが二匹。


(朝粥の出汁くらいにはなるか)


自分がそんなことを考える日が来るとは思わなかった。胃がきしむ。昨日は冷たい粟餅一つ。四十二人のクラスメイトの中で、綾子ほど急激な生活落差を味わった者はいないだろう。


農家の納屋に転がり込んで一月。老夫婦——佐吉とオマツ——は彼女を「迷い子」と呼び、仕事と寝藁を与えてくれた。だが今年は冷夏で稲の出来が悪く、村は年貢の取立てに怯えている。


* * *


(農家前庭・午前)


藁屋根の下、佐吉が鍬を研いでいた。綾子がザリガニを差し出すと、弾けるように笑った。「こりゃうめえ味噌汁になる」


オマツが土間から顔を出し、「あやちゃん、田の草取り終わったら納戸の俵を数えてくれるかい」と声を掛ける。綾子は頷き、腰の竹尺を握り直した。(米の量を把握しておきたい。一俵=四斗、約六十キロ。村の人口で割れば……)


俵の山は思ったより低かった。藁縄の縛り目が緩み、鼠がかじった跡。綾子は小声で数えた。「十、十一……十五俵」


(百人近い村で十五俵? ひと月も保たない)


手桶で鼠穴を塞ぎながら、彼女の脳裏に現代日本のフードマネジメントの授業が浮かぶ。冷蔵庫の食材ロスと同じ。だがここでは余剰分などない。


* * *


(村はずれ 共同水車小屋・昼)


水車で精米するのは週に一度。今日は村の女たちが籠を抱え列を作った。綾子も玄米一升を入れた袋を持ち並ぶ。川の水音とともに女たちの噂話が聞こえた。「代官所の役人が来るらしい」「隣村は追徴されたと」


綾子は袋の口を縛りながら尋ねた。「追徴って、去年より多く取るんですか」


老婆が溜息を吐く。「足軽が腹を肥やすんさ。麦も芋も取っていく」


血が逆流するような怒り。昔ならSNSで不満を叫んだだろう。でもこの世界で声を上げれば命が飛ぶ。


(別の方法で守るしかない)


* * *


(佐吉宅 囲炉裏端・夕刻)


ザリガニの味噌汁が香りを放ち、薄い粥に色を添える。佐吉が箸を置き、深刻な顔で言った。「明日、代官所の御用人が来る。米を運び出す手間賃が足りん。奴らは……暴れるかもしれん」


綾子は膝の上で拳を握った。「私、何か手伝えることは」


「余計なことはするな」オマツが言う。だがその目は助けを求めていた。


夜、寝藁に横たわっても眠れなかった。暗闇の中で綾子はスマホの幻影を思い浮かべる。検索バーに「江戸時代 年貢交渉」と入力する自分——情報は脳内にしかない。


(交渉する勇気があるか?)


* * *


(村中央 薬師堂前・翌朝)


代官所の先触れが太鼓を鳴らし、御用人一行が馬で入ってきた。浅黒い胴丸に脇差。荷牛を連れた下役が俵を数える。佐吉の肩が震えた。「予定より一俵足りぬ。罰金だ」


先頭の肥えた男は代官所手代・甲斐庄右衛門かいのしょう えもん


御用人の声が響く。農民が膝をつき嘆願するが、下役が柄で押さえつけた。その時、綾子が前へ出た。「待ってください!」


一斉に視線が集まる。綾子は深呼吸し、計算した言葉を放った。「今年は冷夏で稲が未熟です。ですが来季は二期作の試みで収穫を増やせます。米を残していただければ——来年三割増で納めます」


「女子が口出しするな」


下役が肩を掴む。綾子は振り払い、手のひらに握った藁縄の切れ端を見せた。「俵の縛り目を改良すれば鼠の食害が半減します。私が証明できます」


御用人は興味を示した。「証明?」


「鼠穴の開いた俵十五個を一月管理し、一粒も失わなければ三割増を約束していただきたい」


庄屋の藤太夫を証人に置いて」と。


村人がざわめく。これは賭け。御用人は嘲笑した。「面白い。証明できねば、どうする」


「私の命を差し出します」


佐吉とオマツが悲鳴を上げたが、綾子は目を逸らさなかった。御用人は馬上で扇を閉じた。「いいだろう。来月この日、結果を見せよ」


* * *


(納屋改修・日中)


綾子は竹と藁縄で俵を吊り、竹酢液の燻煙で鼠を退ける罠を作った。村の若者が手伝い、井戸の側に猫用の餌皿を置く。現代の防鼠知識を土着材料で再現する作業。汗と泥で髪が額に張り付いた。


夜には手の皮が剥けたが、藁布で巻いて作業を続けた。佐吉が湯を運び、「無茶しすぎだ」と叱る。綾子は笑った。「昔は人を殴るために体力を使ってた。今は守るため」


佐吉は小さく拍手した。「誉れじゃ」


* * *


(一月後 薬師堂前・午前)


御用人が再び現れる。俵は干し台に並び、縄は固く締められている。下役が槍で突いて検分したが、一粒の米もこぼれない。御用人は驚き、扇で汗を払った。「確かに足りておる」


綾子は息を吐き、「約束を」と言った。御用人は苦々しく笑い、「三割増しを待とう。だが詮議は終わらぬぞ」と言い残し去った。


村人が歓声を上げ、佐吉とオマツが涙を流した。綾子は膝が震え、地面に座り込んだ。(命が残った……)


* * *


(納屋裏 夕刻)


夕陽が黄金色の稲穂を照らす。綾子は稲穂を撫で、米粒の硬さを確かめた。「もうすぐ収穫」


佐吉が隣に立ち、木札を差し出した。「宿場の人足株。これで道中も宿に困らん」


「私に?」


「恩返しじゃ。村を救ったのは綾ちゃんだ」


綾子は木札を握りしめた。胸に熱いものが流れる。村を離れる時が近い。武志、雪、美紀、健二、亮太、寛——みんなが戦国の荒野で走っている。(私も行かなくちゃ)


夜、彼女は納屋の梁を見上げながら拳を握った。「次は私が守る番」


星のない夜空で、虫の声だけが新たな旅の予兆を奏でていた。

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