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戦国時空漂流記  作者: 愉易
第一部:散りゆく風
10/20

変革の伝令

(駿河国 興津宿・早朝)


灰色の波が砂浜を叩き、潮騒の低い唸りが街道の旅籠はたごまで届いていた。渡辺寛——クラスの歴史オタクで通っていた彼は、半年前までは教室の隅でライトノベルを読んでいた少年だった。今は木綿の帷子に麻紐の帯、腰には防犯用に短刀。編笠の下で海風を受けながら、松並木の向こうに日の出を待っていた。


「若旦那、荷の確認を」


声をかけたのは駿河の廻船問屋・水野屋の手代、権蔵。寛は頷き、袋の中身を確かめた。絹反物、南蛮由来の胡椒、小判より軽い銀札——これらは今川領を越え、甲斐へ運ばれる予定の高価な貨物だ。


(1559年現在、南蛮貿易は堺と今川が握る。胡椒の価格は来年上がるはず)


脳内の年表がページをめくり、経済史のグラフが浮かぶ。寛はその知識を利用して水野屋の帳合を手伝い、厚遇を得ていた。「大丈夫。絹は湿気に弱いから早めに街道を抜けよう」と言うと、権蔵が感心したように目を細め「さすが若旦那だら」と駿河訛りで笑った.


* * *


(東海道 興津〜江尻間街道・午前)


隊商は馬十頭、荷車二台、護衛の浪人六人。寛は隊列中央で帳面を付けながら周囲を観察した。薩埵峠の山道は狭く、海岸段丘に沿って切り立っている。山賊よりも滑落が怖い。だが心は別のことを考えていた。


昨夜の宿で耳にした噂——「桶狭間で織田が今川を破る」という未来の大事件の火種。寛は歴史を暗記している。だがその結果がこの世界でも起こる保証はない。


(歴史が変わるか変えられるか——僕はどちらの立場に立つ?)


峠の曲がり角で馬が嘶き、隊列が止まった。前方に侍数名。浅葱色の鎧に「上」の旗。「上杉勢?」寛が眉を上げかけた瞬間、旗持ちの侍が近づき、朗らかに笑った。「道を急ぐ所を失礼。肥前陶器を京都へ運ぶ途中でしてな」


権蔵が軽く礼を返し、互いに荷を確認しあう。寛は旗の裏の縫い目が浅く、最近付け替えた形跡を見つけた。(偽装か。情報屋の匂いがする)


侍の一人がこちらを見た。「若いの、帳面か? 字が達者なようだな」


寛は微笑した。「駿河で学問を多少」


「なら書状を預けたい。甲斐へ向かうのだろう?」


差し出された封は厚い油紙、封蝋に削られた家紋は判別不能。しかし重さと輪郭で銀札が同封されていると分かる。賄賂封。権蔵は困惑したが、寛は受け取った。「確かに」


侍は満足げに頷き、隊列はすれ違った。山道を下り始めると、護衛の浪人が囁く。「旦那、怪しい手紙を」


「料金を預かっただけさ」と寛は笑う。だが心臓が速く打つ。封蝋を温めれば中身は読める。上杉の偽装斥候が今川攻撃の情報を運んでいる可能性。もし武田や松平陣に伝えれば——歴史は大きく揺れる。


(情報の価値は命の値段)


* * *


(江尻宿・午後)


隊商が宿に荷を下ろすと、駿府の今川屋敷から役人が検閲に来た。寛は帳面を差し出し、笑顔で応対した。「この胡椒は公儀の御用です。湿りを避けるため先を急ぎます」


役人は若く、目を細めて帳面を読む。「字が新しいな。どこで習った?」


「遠江・浜松の寺子屋で」


寛は歴史オタク特有の早口を避け、低い声で返す。役人は頷き、「夜に駿府で支度を改めよ」と命じた。賄賂を欲しがっている。権蔵が顔をしかめるが、寛は横目で宥めた。(今は泳がせる)


* * *


(駿府城下 小路・夜)


月の薄明かりが瓦屋根を銀に縁取り、下駄の音が路地に響く。寛は例の封書を灯明で温め、慎重に封蝋を剥がした。中には上杉の書状——長尾景虎の花押。そして「今川義元討滅に備え、松平元康へ内応を急げ」とある。


(桶狭間へ向けて動き出している……!)


さらに(かます)に包まれた銀小判十枚。寛は手紙を元通り封じ、袖の裏に収めた。瓦の上で烏が鳴き、寛は闇に目を凝らす。一瞬、屋根陰に黒い影。忍びだ。


「見られたか……」


追うべきか逃げるべきか。寛は旅人の足では忍びに敵わないと判断し、路地を曲がり、川沿いの倉へ滑り込んだ。忍びの影が屋根から下り、入口を覗き込む。緊張が背骨を冷たく舐める。


(ここは……)


倉の中には酒樽が並び、油壺もある。火を放てば追手は退くが、町が燃える。寛は口を噛んだ。その瞬間、背後の酒樽の陰から別の影。「動くな」


女忍だった。口元に布を巻き、小太刀を構える。「書状を渡せ」


寛は両手を上げた。「誰の使いだ?」


「甲斐」


武田の密偵。脳内で戦略図が回転する。もし書状を武田に渡せば、武田と上杉の戦略均衡が崩れ、信濃で雪が危険に——。


「これは今川を討つ合図。戦乱が南へ拡大する。甲斐が動けば血が増えるだけだ」


女忍は目を細めた。「お前、何者だ」


「ただの旅人さ。でも未来を知っている」思わず本音が漏れた。女忍が戸惑う一瞬、寛は銀小判を一枚放り投げた。硬貨が床を鳴らし、女忍の視線が逸れた。


寛は逆方向へ転がり、倉の窓を破って川へ飛び込んだ。冷たい水が口に入り、書状が濡れるのを感じたが抱き締めたまま底へ潜る。水面を蹴り、川岸の葦を掴んで這い上がると、忍びの姿はなかった。


* * *


(駿河国 用宗湊・未明)


濡れた衣を焚き火で干しながら、寛は震える手で書状を開き、文字が滲んでいないか確認した。墨は油紙で守られている。彼は焚き火を見つめ、掌で書を握った。


(歴史に介入する資格が自分にあるのか)


遠くで波が砕ける音。火の粉が舞い、星空に溶けた。「でも、誰かがやる前に……僕が選ぶ」


寛は胡椒袋の裏にメモを書き、「元康殿へ急使」と記した。味方かもしれない松平軍に手紙を託す。他の選択肢はない。


* * *


(三河国境 見附宿・昼)


早馬の背で揺られながら、寛は目を閉じた。信濃の山々が遠く霞む。武志、雪、美紀、健二——運命の糸は絡まり合いながら一つの結び目へ向かう。


「歴史は変えられる。それが希望にも、絶望にもなる」


寛は呟き、手綱を握り直した。背後で揺れる書状の銀小判が、未来の価値を静かに鳴らしていた。

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