最後の祭り
校舎の窓から朝の光が射し込み、微かに埃の匂いを含んだ空気がきらめいた。山本武志は二階の廊下を駆け抜けながら、胸の鼓動がいつもより速くなるのを感じていた。今日の放課後には文化祭前夜祭の最終準備が行われる。クラス全員が一丸となって作り上げたお化け屋敷は、完成まであと一息だ。
「武志、走ると危ないって!」
階段を上がったところで、佐藤雪が両手に抱えた段ボール箱越しに睨む。雪の切れ長の瞳には、いつもの冷静さとわずかな苛立ちが混在していた。
「悪い、急いでてさ」武志は笑い、雪から箱を受け取る。「これ、理科室から? けっこう重いな」
「ドライアイスよ。煙を出す仕掛けに使うって、あなたが言ったでしょ。量が足りるか確認してって先生が」
雪は汗のにじむ額をハンカチで押さえながら、淡々と言葉を繋ぐ。その横顔を見て、武志は改めて友人としての頼もしさを覚えた。彼女は学年一の秀才で、計算や手順の把握は誰にも負けない。その頭脳がクラスを支えている。
廊下の先では、神崎亮太が装飾用の黒い布を肩にかけ、数人の男子とふざけ合っていた。バスケットボール部のエースとしていつも目立つ彼は、場の中心で笑いながらも周囲に目配りを欠かさない。
「おい武志、ドライアイスか? 霧が出りゃビビるだろうな!」
「亮太、ちゃんと安全確認しろよ。初日の午前に煙感知器鳴らすわけにはいかない」
「分かってるって。俺だって主役にはなりたいが、停学はゴメンだ」
亮太の冗談に周囲が笑い声を上げた。その瞬間、教室の窓の外で光が瞬いた。まるで遠くの空に稲妻が走ったようだが、空は快晴で雲すらない。
「今、光った?」
雪が眉をひそめる。武志も振り返り窓辺へ近づいた。校庭のテントを設営している別のクラスの生徒たちも空を仰いでいる。
「ただの飛行機反射かもな」亮太が肩をすくめる。しかし、その声にはどこか落ち着かない響きがあった。
午前中最後の日本史の授業では、佐伯先生が黒板に「川中島合戦(一五六一)」と大書し、棒状マグネットで赤と青の陣形を示していた。
「現代に生きる君たちは、この“車懸り”をどう崩すと思う?」
静まる教室の中で突然指名された武志は前へ出てチョークを握り、「副将格の別働隊を山腹に迂回させ、司令塔を奇襲します」と即答した。
後列で雪が感心の拍手を送り、亮太が「ゲーム脳炸裂!」と茶化して笑いが起こる。佐伯先生は「戦術は想像力だ」と頷きつつ、当時の通信制限や兵站の問題を指摘した。
そのとき蛍光灯がふわりと陰り、机が乾いた音を立てて微かに震えた。誰かが「地震?」と呟いたが揺れは一瞬で止み、誰も深刻に捉えなかった――あの瞬間までは。
* * *
昼休み、職員室前の廊下にはプリントを抱えた生徒たちが列を作り、先生方は早口で指示を飛ばしていた。文化祭目前の喧噪は毎年のことだが、今日は誰もが妙な胸騒ぎを覚えているようだった。
武志は自販機前でペットボトルの麦茶を買い、窓際に立つ田中美紀に気付く。彼女はクラスでも口数が少なく、いつも一人で読書をしている。
「美紀、昼飯?」
声をかけると彼女は小さく頷き、持っていた文庫本を閉じた。表紙には『甲陽軍鑑—武田信玄の戦略』の文字。「珍しい本読んでるな」
「……好きなの。戦国時代の戦術とか」
小さな声だが確かな興味が伝わってくる。武志は笑みを浮かべた。「文化祭終わったら、俺のゲームも試してみる? 戦国シミュレーションで結構本格的なんだ」
美紀は驚いたように目を瞬かせるが、柔らかく微笑んだ。「うん……」
そのとき、廊下の蛍光灯が一斉に明滅した。生徒たちのどよめきが広がり、武志は反射的に天井を見上げた。
「停電?」
だが非常灯は点いたままで、電源トラブルとは様子が違う。数秒の後、明滅は収まり、日常の喧噪が戻る。ただ、その喧噪はどこか硬直していた。
* * *
放課後、体育館裏の倉庫前。長机や木材が積まれ、クラスの男子がトンカチを鳴らしている。武志は工具箱を開け、電動ドリルを手に取った。
「よし、壁の支柱を固定するぞ。亮太、位置合わせ頼む」
「任せろ!」
その背後で、雪がチェックリストを読み上げる。「壁一枚目固定完了、二枚目準備……蛍光塗料の在庫は?」
「残り四本。足りなきゃ購買に走る」
「じゃあ追加しておいて。時間が押してるわ」
指示は的確で無駄がない。雪の統率力に感心しつつ、武志はドリルを壁板に押し当てた。その瞬間、空気が低く唸るような音を帯びた。耳鳴りのようでもあり、遠い雷鳴のようでもある。
「何だ?」
誰かが呟く。倉庫の外で風が巻き、落ち葉が渦を描いて舞い上がった。秋晴れの夕方には不似合いな冷気が肌を刺す。
武志はドリルを置き、空を見上げた。
朝、玄関で父に軽く肩を叩かれた記憶がよみがえる。
「文化祭も大事だが、剣道の県大会まであと二週間だぞ。体を冷やすな、武志」
全国ベスト8の戦績を持つ父の言葉に、武志は「わかってる、明日は朝稽古に行くよ」と笑って答えたばかりだ。
(祭りが終わったら、また道場で汗を流して――)
思い描いた何気ない未来が、渦巻く雲の虹色の光の中で遠のいていく気がした。
「あれ……雲?」
雪が震える声で言う。亮太が壁板を投げ出し、校舎側へ走った。「ちょっと校庭から見てくる!」
「待て、危ないかも!」
武志が制止する前に、空が閃光を放った。雷鳴よりも強い振動が地面を揺らし、倉庫の窓ガラスが震えた。生徒たちの悲鳴が上がり、武志は雪と美紀を庇うように抱き寄せる。
視界が白く塗りつぶされ、世界が無音になる。感じるのは鼓動の震えと、腕の中で雪が固くこわばる気配だけ。
――ドン。
鈍い衝撃音が遅れて耳に届き、光の洪水が収まった。武志は瞬きを繰り返し、ぼやける視界を取り戻す。倉庫の屋根には亀裂が走り、埃が降り注いでいた。
「みんな無事か!」
返事はまばらだった。生徒の数人が床に倒れ、耳を押さえている。だが外傷はないらしい。武志は安堵し、しかし次の瞬間背筋が凍り付いた。
倉庫の外――先ほどまで見えていた校庭が、知らない景色に変わっていた。雑木林と、遠くに見える瓦屋根の建物。聞こえるのは蝉とは違う、野鳥のさえずりと川のせせらぎ。
「ここ……どこ?」
雪が呟く。武志は唾を飲み込み、足を震わせながら外へ一歩踏み出した。空気は乾き、どこか鉄の匂いが混じる。
倉庫――いや、もはや「倉庫」と呼べるかも怪しい木造の小屋の周囲には、見覚えのない田畑が広がっている。校舎もグラウンドも、そして近代的な街並みも跡形もない。
亮太の姿が見えない。美紀も行方がわからない。武志は胸に冷たいものを感じ、握りしめた拳が汗ばむのを意識した。
遥か遠くで、甲冑を着た男たちが馬に乗り、刀を腰に提げているのが見えた。彼らはまっすぐこちらへ向かってくる。
「嘘だろ……」
武志の声は震え、しかし誰も言葉を返せなかった。代わりに吹き抜けた風が、四百年以上の時を隔てた新たな戦いの始まりを告げるかのように、乾いた土埃を舞い上げた。
武志は息を呑み、雪の手を強く握った。
終わりのない祭りは、ここで幕を閉じた。