ep 6
薄暗く、埃っぽい熱気が渦巻く場所。そこは、人間の尊厳が値札に換えられる非情の市場、奴隷オークション会場だった。中央の台座には、鎖に繋がれた少年が一人。傷だらけで意識は朦朧としているが、その瞳の奥には消えない光が宿っている。たつまろだ。
「さあさあ、注目! こいつは掘り出し物だぜ! 見ろ、この鍛えられた肉体! まだ若いが、その闘争心は本物だ!」
司会者の甲高い声が響き渡る。
「100万!」「150万!」
値が吊り上がっていく。
「500万! さあ、もっとないか! こいつを手に入れれば、闘技場で大儲け間違いなしだ!」
その時、会場の後方から、落ち着いた、しかし有無を言わせぬ声が響いた。
「1000万」
声の主は、派手な装飾品を身につけ、鋭い目つきをした男、ゴルディだった。
「いっ、1000万!? ゴルディ様、本気で…?」
司会者が驚きに声を裏返らせる。
「そうだ、1000万だ。文句があるか?」
ゴルディは冷ややかに言い放った。
「け、決してございません! 1000万! 他にはございませんか? …よーし、決まりだ! この極上の戦闘奴隷は、ゴルディ様が1000万でお買い上げ!」
ゴルディは満足げに口の端を吊り上げた。
(フッ、ふん。噂通りの逸材のようだな。あのゴロツキ共が言っていた通り、並外れた気迫を感じる。闘技場で死ぬまで戦わせれば、1000万などすぐに回収できるわ)
彼は、意識を取り戻しかけているたつまろに近づいた。
(だが、ただ強いだけでは扱いにくい。幸い、手駒は揃っている…弟、だったか。あれを握っておけば、この獣もただの人形よ。フフフ…)
「…(ユウ…心配するな…兄ちゃんが、必ず助け出す…ユウ…)」
たつまろの意識が、ゆっくりと覚醒していく。鎖の冷たさ、見知らぬ場所の匂い、そして目の前の男の、油断ならない視線。
「おい、たつまろとか言ったな」
ゴルディが声をかける。
「今から私が、お前の主だ。分かったな」
たつまろは、かろうじて声を出した。
「…ユウは…どこだ?」
「フン、弟のことか。心配するな。貴様が私の言う通りに、大人しく働けば、弟は無事だ。美味いものも食わせてやろう」
ゴルディは言葉を切った。
「だが…もし、私の言うことに逆らったり、逃げ出そうとしたりすれば…その時は、弟がどうなるか…分かっているな?」
脅迫的な言葉と共に、短刀の切っ先がたつまろの喉元に突きつけられた。
「!」
瞬間、たつまろの全身から、凄まじい殺気が放たれた。それは、会場の空気を凍りつかせ、百戦錬磨のはずのゴルディすら、思わず後ずさりさせるほどの圧力だった。周囲の奴隷商たちも息を呑み、辺りは水を打ったように静まり返る。
しかし、殺気はすぐに霧散した。たつまろは、唇を噛み締め、うつむいた。
「……分かった。お前の…言うことを聞く」
弟の命には、代えられない。今は、この屈辱に耐えるしかなかった。
(フ、フフ…! まるで、こっちが命を握られているようだわ。だが、それでいい…それでこそ使いでがあるというもの。この化け物を使いこなし、大いに稼がせてもらうぞ!)
ゴルディは内心の恐怖を押し隠し、歪んだ笑みを浮かべた。
時を同じくして、大神殿の最も神聖な場所、「神送りの間」では、厳かな儀式が執り行われようとしていた。祭壇には、純白の衣をまとったユイが静かに立っている。
「今こそ、『明知神来の儀』を執り行う! 皆の者、刮目せよ! これで、乱れたこの世界は浄化され、我らに救いがもたらされるのだ!」
大神官が高らかに宣言する。集まった観衆は、期待と興奮に満ちた目で祭壇を見つめている。
ユイは目を閉じ、静かに心の中で呟いた。
(…今まで、自分の命なんて、どうでもよかった。ただ、巫女として死ぬだけだって思ってた…)
脳裏に、たつまろの不器用な笑顔が浮かぶ。
(でも、たつまろと出会って…初めて、死ぬのが怖いって思った。もっと一緒にいたかった。もっと、笑っていたかった…)
一筋の涙が頬を伝う。
(…だけど…たつまろがいない世界なら、僕が生きていても意味がない。それに、この命で世界が救われるなら、たつまろが苦しんだこの世界を、少しでも良くできるなら…もう、怖くないや)
「さあ、巫女よ! 祭壇に進み、最後の祈りを捧げるのじゃ!」
大神官に促され、ユイはゆっくりと歩を進める。
(僕は…僕の意志で、この命を捧げる。誰かに決められた役目じゃない。たつまろ…あなたの為に、僕はこの命を使いたい! 誰かのためじゃない、僕が好きな人のために!)
ユイが祭壇の中央に立ち、両手を合わせ、祈りを捧げた瞬間、彼の身体が眩い光に包まれた。光は次第に強さを増し、やがて観衆が目を開けた時、祭壇にはもうユイの姿はなかった。ただ、キラキラと輝く光の粒子が、しばらくの間、その場に漂っていた。
「おお…! おおぉぉーーっ!! 儀式は成功したぞ! 巫女様は、その尊き命をもって、我らに救いをもたらしてくださったのだ!」
大神官は天を仰ぎ、歓喜の声を上げた。
「巫女様、バンザーイ!」「巫女様、ありがとう!」「世界は救われたぞー!」
観衆は熱狂し、口々にユイを称賛し、救済の訪れを祝った。その誰もが、ユイの本当の想いも、彼が愛した少年の悲劇も知る由はなかった。
こうして、たつまろは奈落の底ともいえる奴隷の身分に堕ち、ユイは人々から英雄と称えられながらも、その存在を世界から消した。
引き裂かれた二つの魂。歪められた真実。
物語は、絶望と偽りの救済の中で、新たな局面を迎えようとしていた。
そして…