ep 3
あの日から数日後、たつまろの家の粗末な戸を叩く音がした。戸口に立っていたのは、意外な人物だった。巫女のユイだ。いつもの豪奢な衣装ではなく、少しだけ動きやすそうな、しかし上質な生地の服を着ている。その手には、布に包まれた小さな包みが握られていた。
「ここが、たつまろの家…」
ユイは少し緊張した面持ちで呟き、意を決したように再び戸を叩いた。
「へへっ、喜んでくれるかな」
その表情には、わずかな期待が浮かんでいた。
「なんだ?」
戸を開けたたつまろは、ユイの姿を見て少し驚いた顔をしたが、すぐにいつものぶっきらぼうな表情に戻った。
「あ、あの、これ!」
ユイは慌てて持っていた包みを差し出した。
「こ、これ!すっごい美味しいお菓子なの!よかったら、食べて!」
早口でまくし立てる。
たつまろは包みを受け取った。甘く香ばしい匂いが漂う。
「ん?ああ、菓子か。ユウが好きそうだな」
彼は家の中に声をかけた。
「ユウ!お客さんだぞ!菓子もらったから、お礼を言え」
「ユウ…?」
ユイが小首を傾げると、奥から小さな子供がとことこと走ってきた。たつまろの後ろに隠れるようにしながら、好奇心いっぱいの目でユイを見ている。
「なーに、にいちゃん?」
「この人に貰ったんだ。ちゃんとお礼言うんだぞ…えっと、名前は…」
たつまろが言い淀むと、ユイが慌てて名乗った。
「ユイ!僕の名前はユイって言うの!」
ユウはもじもじしながらも、小さな声で言った。
「ゆい、おねーちゃん…? ありがとう」
「えへへ」
ユイは嬉しそうに頬を緩めた。子供らしい素直な感謝の言葉が、彼女の心に温かく響いた。
「へえ、兄弟がいたんだね、たつまろ」
「ああ。…で?どうしたんだ?わざわざ菓子なんて持ってきて、何か用か?」
たつまろはまだ少し警戒心を解いていない様子で尋ねた。
「ううん、用ってほどじゃないんだけど…このお菓子、僕、好きだから、たつまろにも食べてもらおうかなって…。そ、それだけだから!じゃ、じゃあね!」
ユイは目的を果たしたとばかりに、そそくさと帰ろうとした。
「おい、待てよ」
たつまろが呼び止める。
「せっかく来たんだ。上がっていけよ。茶くらい出す」
ぶっきらぼうだが、それはたつまろなりの気遣いだった。
「え?いいの?」
ユイは驚いて目を見開いた。
その時、ユウがユイの服の裾をくいくいと引っ張った。
「うん!おねーちゃん、あそぼー!」
無邪気な誘いに、ユイの顔がぱっと輝いた。
「! うん!あそぼっ!」
あっという間に、ユウとユイは打ち解けていた。狭い家の中を、ユウがきゃっきゃと笑いながら走り回り、ユイがそれを楽しそうに追いかける。
「ユイおねーちゃん、まてー!」
「ふふ、待て待てー!」
「おねーちゃん」と呼ばれるたびに、ユイの頬が嬉しそうに緩む。
「『おねーちゃん』だって。初めて言われたな…フフっ、なんだか嬉しい」
その横顔は、巫女としての威厳はなく、年相応の少女のようだった。
「…そっか。兄弟、いないのか」
縁側で茶をすすりながら、たつまろが呟いた。
「うん。僕は兄弟どころか、親もいないんだ」
ユイはこともなげに言った。
「親も?」
たつまろが聞き返す。
「うん、分かんない。僕は生まれてすぐに親から離されたから、顔も知らない。巫女としての役目があるから、親を知る必要はないって、大神官様が…」
ユイの声には、諦めとも、無関心ともとれる響きがあった。
「巫女…」たつまろは眉を寄せた。「それで、お前、これからどうなるんだ?」
ユイは一瞬、動きを止めた。そして、たつまろの方を向き、静かに告げた。
「僕は、もうすぐ死ぬんだ」
「…死ぬ?」
たつまろの声が低くなる。
「うん。世界を救うために、巫女は命を捧げなきゃいけないって決まってるから。それが僕の役目なんだって」
ユイは、まるで天気の話でもするように淡々と言った。
「大神官様が、そう言ってた」
たつまろは、持っていた湯呑みを強く握りしめた。
「…死にたくねーなら、別に死ななくていいだろうが」
「え?」
ユイはきょとんとした顔でたつまろを見た。まるで、そんな考えは思いつきもしなかった、というように。
「や、やだな、たつまろ。僕が命を捧げなかったら、世界が…」
「世界がどうなるかなんて、俺は知らねえ!」
たつまろは声を荒らげた。
「けどな、ユイ、お前ひとりを犠牲にして成り立つような世界なら、そんなもん、こっちから願い下げだ!」
彼の強い眼差しが、ユイを射抜く。
「ユウは俺が守る。…ついでだ、お前も守ってやる」
「え? な、何言ってるの…? たつまろ、もう…」
ユイの顔が赤くなる。動揺で声が上ずる。そんなことを言われたのは、初めてだった。
「お前は、俺が守る。だから、心配すんな」
たつまろは、もう一度、力強く言った。それは命令でも、同情でもない。ただ、揺るぎない決意の表明だった。
「!!」
ユイは言葉を失い、ただたつまろを見つめることしかできなかった。胸の奥が、熱くなる。今まで感じたことのない、強い感情が込み上げてくる。
「…じゃ、じゃあっ、今日はこれで!」
ユイは弾かれたように立ち上がり、逃げるように戸口へ向かった。
ユウが駆け寄ってくる。
「ユイおねーちゃん、バイバーイ!また遊びに来てね!」
ユイは振り返り、少し震える声で答えた。
「…うん!また、遊びにくるよ!」
そして、家を飛び出した。
帰り道、ユイは何度もたつまろの言葉を反芻していた。
「……僕を、守る…か……たつまろ……たつまろ、かぁ……」
頬に手を当てる。まだ、熱い。それは、彼に叩かれた時の熱さとは違う、心の奥から湧き上がるような、温かい熱だった。巫女としての運命しか知らなかった彼女の世界に、たつまろという存在が、確かな光を灯し始めていた。