ep 2
母が土に還ってから、三度目の春が巡ってきた。
たつまろは十歳になり、弟のユウは三つの言葉を覚えた。陽に焼けた肌、少しだけ伸びた背丈。たつまろの腕は、鍬を握り、籠を担ぎ、弟を抱くうちに、年の割には逞しくなっていた。彼が育てる野菜は、みずみずしくて味が濃いと評判で、兄弟がささやかに暮らしていくには十分な稼ぎになっていた。
その日も、たつまろは朝早くから畑で採れた野菜を籠に詰め、家を出るところだった。
「よし、じゃあ街に行ってくる。ユウは、いい子で留守番してるんだぞ」
たつまろが言うと、小さなユウはこくりと頷いた。
「うん、にいちゃん、わかった! はやくかえってきてね!」
舌足らずな言葉に、たつまろは小さく笑って弟の頭を撫でた。
街へ向かう道すがら、たつまろは考えていた。
「今日は、もう少し人通りの多い場所で売ってみるか。あっちの広場なら、もっと人が集まるかもしれない」
街の中心に近づくと、いつもとは違う異様な熱気が漂っていた。何事かと目を向けると、道の両脇に黒山の人だかりができている。
「巫女様だ!ユイ様のお通りだ!」
「我らが救世主!巫女ユイ様だー!」
興奮した声が飛び交い、人々はひれ伏すように道を開けている。
やがて、絹ずれの音と共に、豪奢な衣装に身を包んだ一団が現れた。中心にいるのは、まだ幼さの残る少女…いや、少年だろうか。中性的な顔立ちのその人物こそ、人々が熱狂する巫女ユイだった。ユイは感情の読めない無表情な顔で、ゆっくりと進んでいく。
「有り難やー、有り難やー」
人々は手を合わせ、ユイの姿を拝んでいる。しかし、ユイは民衆に目を向けることもなく、ただ前を見据えて歩いていた。
その時、人垣の間から小さな子供が飛び出した。
「わー、みこさまー、きれいー!」
子供は目を輝かせ、ユイに駆け寄ろうとして、その足元でつまずいた。泥のついた小さな手が、ユイの純白の衣装の裾を汚してしまった。
瞬間、空気が凍りついた。
「な、なんてことを!よくもユイ様のお召し物を!」
「無礼者!このガキを捕まえろ!」
群衆の熱狂は、一転して怒号へと変わった。
子供は事態が飲み込めず、ただただ泣きじゃくる。
「あわわ、ご、ごめんなさい…えーん、えーん」
ユイは汚れた裾を一瞥し、眉をひそめた。その顔には、先程までの無表情とは違う、明確な不快感が浮かんでいる。
「…僕の服が汚れたじゃないか…!おい!」
ユイが鋭く声を上げると、傍に控えていた屈強な家来が進み出た。
「はっ!」
家来は躊躇なく腰の剣を抜き放ち、その切っ先を泣き叫ぶ子供に向けた。
「殺せ!殺せー!」
群衆が狂ったように叫ぶ。子供を庇おうとする者は誰もいない。恐怖に引きつった子供の顔が、青ざめていく。
その時だった。
「…おい…どけよ」
低く、静かな声が響いた。
声の主は、野菜の籠を背負った少年、たつまろだった。彼はいつの間にか人垣をかき分け、子供の前に立ちはだかっていた。
家来がたつまろを睨みつけるが、たつまろは臆することなくその視線を受け止めた。次の瞬間、たつまろの拳が閃いた。
「ぐはっ!」
巨体の家来が、まるで藁人形のように吹き飛んだ。周囲から悲鳴が上がる。
「ギャーっ!」
ユイは目を丸くした。
「!? け、家来が…!」
他の家来たちも、一瞬で倒された仲間の姿を見て、たつまろを取り囲もうとするが、彼の鋭い眼光に気圧されて動けない。
ユイは動揺しながらも、虚勢を張って叫んだ。
「お、お前、何をするんだ!僕が誰だか分かっているのか!僕は巫女だぞ、偉いんだぞ!」
たつまろは何も答えず、ユイの前に進み出た。そして――
パンッ!!
乾いた音が響き渡った。たつまろの平手が、ユイの白い頬を打ったのだ。
「!? ぎゃっ!」
ユイは衝撃によろめき、尻餅をついた。頬がじんと熱くなる。何が起こったのか理解できない、という顔でたつまろを見上げた。
たつまろは、冷めた目でユイを見下ろした。
「…小さい子をいじめるな」
その言葉は、不思議なほど静かに、しかしはっきりとユイの心に届いた。周りの喧騒も、家来たちの殺気も、何もかもが遠のいていくようだった。
「…う、うん…」
ユイは、なぜか素直に頷いていた。
「よし、良い子だ」
たつまろはそう言うと、ユイに背を向け、泣いている子供の頭をぽんと撫でた。
「もう大丈夫だ。ほら、行きな」
子供はまだ怯えていたが、こくこくと頷き、人混みの中へ駆けていった。
たつまろは、倒れた家来たちを一瞥し、何事もなかったかのように背負っていた籠を持ち直した。
「じゃあな」
そう言い残し、雑踏の中へ消えていこうとする。
「…え?…」
ユイは呆然と、その背中を見送っていた。誰もが自分を崇め、恐れる。叱られたことなど、一度もなかった。それなのに、この少年は…。
はっとして、ユイは叫んだ。
「ま、待って! ね、ねぇ! 君は誰? 君の名前は、なんていうの?」
たつまろは足を止め、ちらりと振り返った。
「たつまろだ」
「たつまろ…」
ユイはその名を、宝物のように呟いた。
「誰も僕を、巫女だからって怒ったりしないのに…たつまろは…たつまろだけは、僕のこと、ちゃんと見て、怒ってくれた…」
頬の熱が、まだ残っている。それは痛みというより、初めて触れた確かな感情の熱さだった。
「たつまろ…たつまろかぁ」
ユイの心に、今まで感じたことのない、不思議な感情が芽生え始めていた。