表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/15

ep 2

母が土に還ってから、三度目の春が巡ってきた。

たつまろは十歳になり、弟のユウは三つの言葉を覚えた。陽に焼けた肌、少しだけ伸びた背丈。たつまろの腕は、鍬を握り、籠を担ぎ、弟を抱くうちに、年の割には逞しくなっていた。彼が育てる野菜は、みずみずしくて味が濃いと評判で、兄弟がささやかに暮らしていくには十分な稼ぎになっていた。

その日も、たつまろは朝早くから畑で採れた野菜を籠に詰め、家を出るところだった。

「よし、じゃあ街に行ってくる。ユウは、いい子で留守番してるんだぞ」

たつまろが言うと、小さなユウはこくりと頷いた。

「うん、にいちゃん、わかった! はやくかえってきてね!」

舌足らずな言葉に、たつまろは小さく笑って弟の頭を撫でた。

街へ向かう道すがら、たつまろは考えていた。

「今日は、もう少し人通りの多い場所で売ってみるか。あっちの広場なら、もっと人が集まるかもしれない」

街の中心に近づくと、いつもとは違う異様な熱気が漂っていた。何事かと目を向けると、道の両脇に黒山の人だかりができている。

「巫女様だ!ユイ様のお通りだ!」

「我らが救世主!巫女ユイ様だー!」

興奮した声が飛び交い、人々はひれ伏すように道を開けている。

やがて、絹ずれの音と共に、豪奢な衣装に身を包んだ一団が現れた。中心にいるのは、まだ幼さの残る少女…いや、少年だろうか。中性的な顔立ちのその人物こそ、人々が熱狂する巫女ユイだった。ユイは感情の読めない無表情な顔で、ゆっくりと進んでいく。

「有り難やー、有り難やー」

人々は手を合わせ、ユイの姿を拝んでいる。しかし、ユイは民衆に目を向けることもなく、ただ前を見据えて歩いていた。

その時、人垣の間から小さな子供が飛び出した。

「わー、みこさまー、きれいー!」

子供は目を輝かせ、ユイに駆け寄ろうとして、その足元でつまずいた。泥のついた小さな手が、ユイの純白の衣装の裾を汚してしまった。

瞬間、空気が凍りついた。

「な、なんてことを!よくもユイ様のお召し物を!」

「無礼者!このガキを捕まえろ!」

群衆の熱狂は、一転して怒号へと変わった。

子供は事態が飲み込めず、ただただ泣きじゃくる。

「あわわ、ご、ごめんなさい…えーん、えーん」

ユイは汚れた裾を一瞥し、眉をひそめた。その顔には、先程までの無表情とは違う、明確な不快感が浮かんでいる。

「…僕の服が汚れたじゃないか…!おい!」

ユイが鋭く声を上げると、傍に控えていた屈強な家来が進み出た。

「はっ!」

家来は躊躇なく腰の剣を抜き放ち、その切っ先を泣き叫ぶ子供に向けた。

「殺せ!殺せー!」

群衆が狂ったように叫ぶ。子供を庇おうとする者は誰もいない。恐怖に引きつった子供の顔が、青ざめていく。

その時だった。

「…おい…どけよ」

低く、静かな声が響いた。

声の主は、野菜の籠を背負った少年、たつまろだった。彼はいつの間にか人垣をかき分け、子供の前に立ちはだかっていた。

家来がたつまろを睨みつけるが、たつまろは臆することなくその視線を受け止めた。次の瞬間、たつまろの拳が閃いた。

「ぐはっ!」

巨体の家来が、まるで藁人形のように吹き飛んだ。周囲から悲鳴が上がる。

「ギャーっ!」

ユイは目を丸くした。

「!? け、家来が…!」

他の家来たちも、一瞬で倒された仲間の姿を見て、たつまろを取り囲もうとするが、彼の鋭い眼光に気圧されて動けない。

ユイは動揺しながらも、虚勢を張って叫んだ。

「お、お前、何をするんだ!僕が誰だか分かっているのか!僕は巫女だぞ、偉いんだぞ!」

たつまろは何も答えず、ユイの前に進み出た。そして――

パンッ!!

乾いた音が響き渡った。たつまろの平手が、ユイの白い頬を打ったのだ。

「!? ぎゃっ!」

ユイは衝撃によろめき、尻餅をついた。頬がじんと熱くなる。何が起こったのか理解できない、という顔でたつまろを見上げた。

たつまろは、冷めた目でユイを見下ろした。

「…小さい子をいじめるな」

その言葉は、不思議なほど静かに、しかしはっきりとユイの心に届いた。周りの喧騒も、家来たちの殺気も、何もかもが遠のいていくようだった。

「…う、うん…」

ユイは、なぜか素直に頷いていた。

「よし、良い子だ」

たつまろはそう言うと、ユイに背を向け、泣いている子供の頭をぽんと撫でた。

「もう大丈夫だ。ほら、行きな」

子供はまだ怯えていたが、こくこくと頷き、人混みの中へ駆けていった。

たつまろは、倒れた家来たちを一瞥し、何事もなかったかのように背負っていた籠を持ち直した。

「じゃあな」

そう言い残し、雑踏の中へ消えていこうとする。

「…え?…」

ユイは呆然と、その背中を見送っていた。誰もが自分を崇め、恐れる。叱られたことなど、一度もなかった。それなのに、この少年は…。

はっとして、ユイは叫んだ。

「ま、待って! ね、ねぇ! 君は誰? 君の名前は、なんていうの?」

たつまろは足を止め、ちらりと振り返った。

「たつまろだ」

「たつまろ…」

ユイはその名を、宝物のように呟いた。

「誰も僕を、巫女だからって怒ったりしないのに…たつまろは…たつまろだけは、僕のこと、ちゃんと見て、怒ってくれた…」

頬の熱が、まだ残っている。それは痛みというより、初めて触れた確かな感情の熱さだった。

「たつまろ…たつまろかぁ」

ユイの心に、今まで感じたことのない、不思議な感情が芽生え始めていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ