そして
下山、そして再会
幾年の歳月が流れたのか、最早たつまろ自身にも定かではない。鬼神流の師範の下での修行は、ただひたすらに己と向き合う日々だった。内なる「鬼」との対話、技の研鑽、そして静寂の中での瞑想。かつて「死を呼ぶ4番」と呼ばれた頃の、荒れ狂うような殺気や焦燥感は、長い年月のうちに深い湖の底に沈殿したかのように、彼の内へと収まっていた。
「…おぬしの鬼は、だいぶ形を成してきたようじゃな」
ある日、師範はそう呟くと、「もう、ここでおぬしに教えることはない。行け」とだけ告げた。別れの言葉も、餞の品もない。ただ、師範の深い瞳が、わずかに承認の色を湛えているように見えた。
こうして、鬼神龍魔呂――いや、あるいはただの「たつまろ」に戻ったのかもしれない彼は、数年ぶりに霧深い山を下りた。俗世は、彼が山に籠る前とは様変わりしていた。行き交う人々の服装、街の喧騒、そして奇妙な板(スマートフォンと呼ばれるものらしい)を誰もが手にしている光景。まるで浦島太郎だな、と彼は自嘲気味に思った。
山を下りて数日後、彼が安宿の一室で静かに呼吸を整えていると、けたたましい電子音が鳴り響いた。音の発信源は、宿の主人が「預かりものだ」と置いていった、見慣れぬ小型の通信端末だった。画面には「ガジェット」という文字が表示されている。彼が山に籠る前に唯一、連絡先を交換していた奇妙な友人だ。
画面に触れると、ホログラムのような立体映像が浮かび上がり、そこに少しだけ身綺麗になった(しかし相変わらず研究室に籠っているような雰囲気の)ガジェットの姿が現れた。
『やあ、たつまろ! 生きてたか! いやー、師匠から下山したって連絡もらってさ!』
どうやら師範は、ガジェットとは連絡を取り合っていたらしい。
『でさ、思ったんだけど、今の君、世間の情報とか全然知らないでしょ? 不便だろうと思ってさ、これ、僕からのプレゼント! 最新型の“スマシホ”! これがあれば大抵のことは…』
ガジェットは得意げに、たつまろが今手にしている端末と同じものを映像の中で掲げてみせる。その説明は、たつまろにとってはまだ異国の言葉のように聞こえた。
「…そうか。助かる」
たつまろは短く礼を言った。その声色は、以前のような刺々しさは消え、幾分か穏やかになっていた。
『ふふん、だろ? で、まあ、その、なんだ…近況報告っていうか…』
ガジェットは少し照れたように頭を掻いた。
『実は僕…結婚したんだ』
「……」
たつまろは、少しの間、言葉の意味を咀嚼するように黙った。結婚。かつての自分には最も縁遠いと思われた言葉だ。しかし、目の前の友人が、自分とは違う形で幸せを見つけたこと。それは、不思議と彼の心を波立たせることはなかった。
「…そうか」
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「おめでとう、ガジェット」
その言葉は、短く、抑揚も乏しかったかもしれない。しかし、そこには確かに、友人の幸福を祝う、純粋な気持ちが込められていた。以前の彼ならば、他人の幸福など意にも介さなかっただろう。あるいは、理解すらできなかったかもしれない。
『え…あ、うん! ありがとう!』
ガジェットは、予想外の素直な祝福に一瞬戸惑いながらも、嬉しそうに顔を綻ばせた。
『いやー、君にそう言ってもらえると、なんか、すごく嬉しいな!』
画面の向こうで笑う友人を見ながら、たつまろは、数年間の修行が自分にもたらした変化を、静かに感じていた。憎しみや怒りが消えたわけではない。過去の傷が癒えたわけでもない。だが、かつて世界そのものを呪った心が、今は少しだけ、他者のささやかな幸福を受け入れられるようになっていた。
「それで、相手はどんな人なんだ?」
珍しく、たつまろの方から問いかけた。彼の新たな人生が、そしてガジェットとの関係が、また少し違う形で動き出そうとしていた。




