ep 1
薄暗い土間の奥、万年床に伏せる母の息は浅く、時折、乾いた咳が静寂を破った。陽の光がかろうじて届くその場所で、たつまろは心配そうに母の顔を覗き込んでいた。
「母さん!母さん!」
呼びかけに、母はゆっくりと目を開けた。やつれた頬、潤いを失った唇。それでも、息子を見つめる瞳には確かな愛情が宿っている。
「、、たつまろ、、はぁはぁ、ゴホッゴホッ」
細い肩が苦しげに波打つ。
「母さん、無理するな。市場へ行くのは俺に任せろ。今日の野菜は上出来だ、きっと高く売れる」
たつまろは努めて明るい声で言った。籠には朝露に濡れた瑞々しい野菜が山盛りになっている。それは彼が丹精込めて育てたものだ。
「ごめんねぇ、、私がこんな身体だから、お前ばかりに重荷を背負わせてしまって、、」
か細い声が罪悪感に震える。
「気にするなよ、母さん。俺はこの通り、丈夫だけが取り柄なんだ。畑仕事も、こうして市場に行くのも、好きでやってるだけさ」
ぶっきらぼうな口調だが、その声には母を気遣う優しさが滲んでいた。
その時、母の枕元に置かれた小さな籠の中から、か細い泣き声が聞こえた。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
生まれたばかりの弟、ユウだ。
「ほら見ろ、母さんがつまんねーこと言うから、ユウが腹を空かせたじゃないか」
たつまろはわざとぶっきらぼうに言い、弟をあやすように籠を揺らした。
「ごめんよ、、ユウ、、本当に、、母さんを許しておくれ、、」
母の目から涙がこぼれ落ちる。それは、病弱な自分への不甲斐なさか、あるいは過去の悔恨か。
たつまろは母の震える手をそっと握った。
「何言ってんだよ。母さんは俺をここまで育ててくれた。それに、ユウを産んでくれたじゃないか。俺は嬉しいんだ、可愛い弟ができて」
彼の言葉は不器用だが、心からのものだった。
「心配いらない。俺は物書きだってできるんだぜ。昔、野菜を買ってくれた客が読み書きを教えてくれた。帳面もつけられる。計算だって、こっそり本を盗んで覚えたんだ」
少し自慢げに、彼は続けた。
「畑のことも、作物の売り方も、全部わかってる。だから、もう大丈夫だ」
そして、一瞬ためらってから、低い声で付け加えた。
「、、だから、もう母さんは、アイツらに身体を売らなくていいんだ」
その言葉に、母は息を呑んだ。彼女がたつまろを育てるために、どれほどの犠牲を払ってきたか、たつまろは知っていたのだ。
「、、本当に、、私がもっとしっかりしていたら、お前はもっと、、もっと凄い子に、、ゴホッゴホッ」
激しい咳が母の言葉を遮る。
「! いいから、寝てろって!後は俺に任せろ!」
たつまろは母を布団に寝かせつけ、逃げるように家を飛び出した。籠を背負い、市場へ向かう彼の背中は、まだ若いが、頼もしく見えた。
しかし、数日後、母の容態は急変した。
必死の看病も虚しく、母は静かに息を引き取った。あまりにもあっけない別れだった。
がらんとした家の中に、赤子の泣き声だけが響く。
「母さんは死んだ、、」
たつまろは呆然と呟いた。陽の光が差し込む土間は、昨日までと何も変わらないのに、そこに母の姿はもうない。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
腕の中のユウが、空腹を訴えて泣きじゃくる。
「ユウ、泣くなよ」
たつまろは弟をぎこちなく抱きしめた。温かくて、小さくて、壊れそうな存在。
「心配するな。兄ちゃんが、なんとかする」
自分に言い聞かせるように、彼は繰り返した。
「、、何とかするさ」
涙は流れなかった。悲しむ暇など、彼には与えられていなかった。
陽は昇り、また沈む。
たつまろの新しい生活が始まった。腕には小さな弟の重み。背には土の匂いが染み付いた籠。彼は畑を耕し、作物を育て、それを市場で売る。幼い弟の世話をしながら、ただひたすらに、生きるために。
その瞳には、悲しみよりも強い、未来への決意が宿っていた。母が残してくれた命、そして自分自身の命を繋いでいくために。土と共に生きる彼の、静かで、けれど力強い物語が、今、始まった。